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日本国憲法の秘密-392-

●浦上天主堂(カトリック浦上教会)
長崎県長崎市本尾町1-79

浦上天主堂もヨーロッパ建築。石と煉瓦造りのロマネスク様式。
信者が寄付をしたり建設に携わるも資金難と工期遅れのため屋根は木造瓦葺に設計変更したそうだ。
土地を買い取って(?)建設を始めてから19年後の1914年に完成。
象徴的な双塔が出来たのはさらに11年後の1925年で、2つの鐘が吊るされた。

左側が爆弾によって壊れる前の浦上天主堂。右側が壊れた後。
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双塔は高さがあるが、建物は2階程度の高さだと思う。(建物は少し高い所に造られている)
教会なのでほぼワンフロアーで天井が高いがらんとした空間である。
従って屋根と外壁が壊れれば何も残らないということになる。


◎爆心地はどこだ?

長崎の爆心地は平和公園の平和祈念像辺りだと思っている人が多いようだ。
観光客が沢山訪れるのも記念式典が催されるのもそこ。
でも爆心地とされている場所は違う。もう少し南側に位置していて、道路を一本挟んでいる。
Yahoo地図には「原爆公園」とある。
通常、「原爆落下中心地公園」「原爆投下中心地公園」「爆心地公園」「爆心公園」などと呼ばれる。
1945年10月、爆心地を「松山町170番地テニスコート跡地」と確定(後の調査で、「松山町171番地」と訂正)。煙突の残骸の円柱に「爆心」「Centre」と書き記して、標柱として建てる。

浦上天主堂の遺壁もこちらにある。
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平和公園にはゾーンがある。
但し、長崎市民が「平和公園」と言った場合、平和祈念像地区・願いのゾーンのみをさす。 毎年8月9日の長崎原爆の日(長崎原爆忌)には、平和祈念像前の式典広場にて原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される。
長崎市民ではなくても多くの人は「平和祈念像地区・願いのゾーン」が平和公園だと思っている。
だからそこが爆心地だと勘違いすることになる。
平和公園の住所は、長崎県長崎市松山町9で、これは平和祈念像地区・願いのゾーンの南側にあたる。

■平和祈念像地区・願いのゾーン(平和祈念像・折鶴の塔・長崎の鐘・平和の泉・世界平和シンボルゾーン・長崎刑務所浦上刑務支所跡・長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂)
■原爆落下中心地地区・祈りのゾーン
■長崎原爆資料館地区・学びのゾーン(長崎原爆資料館・国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館・長崎市平和会館)
■スポーツのゾーン(県営長崎ビッグNスタジアム・長崎市営ラグビーサッカー場・長崎市民総合プール)
■広場のゾーン(長崎市営陸上競技場・長崎市営庭球場・長崎市営ソフトボール場・長崎市営弓道場)

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こんな近くに長崎大学医学部がありながら、考えられる原爆(放射性物質や放射線)の影響に対して
何も対策が取られなかったことは驚きではなかろうか。



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この写真が原爆投下2日前に撮られた写真だそうだ。
ちょっとぼやかしてやれば焼野原に見えなくもない。(文字と矢印は私が書き入れました)
陸上競技場らしきものはすでにあるが、県営野球場や市営ラグビーサッカー場はまだない。
右上の広場のような土地は長崎大学医学部のグラウンドだろう。現在もそこにある。
その上が浦上天主堂(カトリック浦上教会)ということになる。
現在「原爆公園(爆心地公園)」となっている所も、当時から広場のような感じだったことが見て取れる。(テニスコートだったと言われている)
赤字で三菱地所と書いた所も当時は広場だったようだ。なんでも三菱の土地で野球場として使っていたらしい。
戦後にはアパート(団地?社宅?)が8~9棟建設されて、「三菱浜口アパート」と呼ばれ、わりと最近までそのアパートは存在していた。
見るたびに切ない三菱浜口アパート
それが壊され2014年に「トレディア浜口」という名の15階建てのマンションが誕生。
西日本菱重興産(三菱長崎造船所の総合建設子会社)が所有で、三菱社員専用の賃貸マンションらしい。
原爆爆心地も当時三菱が買収したばかりだったと言われている。
長崎の商人で富豪の高見和平が所有していた「高見別荘」のテニスコートだったが、三菱長崎造船所が宿舎にする計画で買収したばかりだったとかで、その近辺は無人となっていた。
原爆爆心地には宿舎は建てられないということで、野球場つぶしてアパート建てたんですかね?


今度はこの地図を見てもらいたい。
地図はこちらのブログ、科学技術のアネクドート 松山町171番地は別荘だった――長崎とアトム(2)より。
地図の出典は、調来助編著『長崎 爆心地復元の記録』付録地図より(色付き囲みは上記ブログで付けたものだそうです)。
色付き囲みは爆心地と、防空壕にいて松山町でたった一人生き残った少女(黒川幸子さん・9歳)宅。
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横向きだと分かりにくいので縦向きにして現在の地図とならべて見る。
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左地図の左白抜き部分が当時「松山町」だった地域らしい。
線路、大通り、川が今と変わっていないので、比較しやすい。
右地図にて黒線(長崎本線含む)で囲ったところが白抜き部分にあたり松山町である。
つまり現在の平和公園の一部は松山町に含まれないということになる。
平和祈念像が設置されている場所や式典を行っている場所は、原爆が投下された松山町ですらなかったということなのだ。

縦地図で長崎本線の左側(横地図で長崎本線の下側)には、「駒場町2丁目」と書いてある。
「松山町」は1923年に付けられた名称であるが、1940年にその中の一部が「駒場町2丁目」に変更された。
現在スタジアムや競技場がある所である。1940年の「駒場」というのは何やら意味深。
長崎県下、1940年に変更があったのはここだけである。
「駒場町2丁目」は1964年に松山町に戻り、以降今日まで変わっていない。
長崎県では1964年に住居表示実施された。この時に大々的に町名が整理された。
(土地の番号・地番は分割したり合わせたりすることで番号が順序よく並ばなくなってしまい、郵便局などが不便のため地番とは別に並びのよい住所表示をいうものが導入された)
浦上天主堂は現住所的には本尾(もとお)町となる。小高い丘一体が本尾町で、現在は頂上周囲にぐるりと民家が密集している。
しかしそう、爆心地は松山町と断定され、爆心地を示した公園があるにもかかわらず、原爆は浦上天主堂や現在の平和公園(平和祈念像)の上空で爆発したと言われることが非常に多い。
それを裏付けるかのように、浦上天主堂の遺構は平和祈念像のある平和公園ではなく、原爆公園のほうにある。そこは松山町である。

ちなみに、上記のブログによると、「高見別荘」を買い取った三菱長崎造船所は、そこを「女子挺身隊の宿舎」にする予定だったそうである。
by yumimi61 | 2016-10-27 11:30