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日本国憲法の秘密-393-

前記事の住宅地図の出典は、調来助編著『長崎 爆心地復元の記録』付録地図だったが、調来助という人は長崎医科大学(現:長崎大学医学部)の教授だった人である。
福岡県朝倉郡大福村(現:朝倉市)出身。東京帝国大学(現:東京大学)医学部卒。

(卒業年の)大正15年9月、北京医院外科医長に27歳の若さで赴任しました。これは、日清戦争後の日本と中華民国(現在の中国)の友好親善という日本の大きな目的と、同仁会(医界と民間外交団体幹部が作った医療事業団体)の主な活動である中華民国の医学・薬学およびその技術を普及させ、一般衛生状態の改善を図るという大きな使命がありました。来助は、2年半にわたり実践し、成果を上げました。
 さらに昭和4年4月からは、現在の韓国の朝鮮京城帝国大学第2外科助教授として8年間にわたって朝鮮の医学の普及と優秀な医師の養成に尽力しました(昭和9年に医学博士号取得)。
 昭和12年5月からは、朝鮮全羅南道立光州医院長を5年間務め、医療業務達成のために努力しました。およそ15年間の長い海外派遣で、日本医学の普及と日・中・韓の友好親善を、医学を通して立派に果たした彼の功績は高く評価されました。

来助は、朝鮮から帰国後、東京帝国大学の推薦と長崎医科大学の強い要請を受け、昭和17年4月、長崎医科大学第1外科教授に就任し、以来、23年間優秀な医師の養成と医学研究に没頭しました。
 昭和20年8月9日の原子爆弾投下で自らも被爆し、原爆症に耐えながら、被爆者の治療・救済に努め、その悲惨さを「医師の証言長崎原爆体験」や、被爆者約8千人の治療と同時に原爆による症状等を分析して「原爆障害の大要」として報告しました。

福岡県朝倉市 ふるさと人物誌21 原爆医療の先駆者 「調 来助」(しらべ らいすけ)より>

しかし放射性物質の影響やリスクは少しも考慮されることなく今日に至る・・・・。
「原爆症」とははたして何か?火傷のことなのか?


地図を掲載していたブログに長崎原爆当時の新聞についても書かれていた。

まずは、長崎に原子爆弾が投下されたことを戦時中の新聞がどのように伝えているか、その一報を見てみます。
朝日新聞は、戦前、戦中、戦後と、一貫して新聞の過去号が出版されており、大きな図書館などで閲覧することができます。1945年8月12日付の朝日新聞には、1面下段に「長崎にも新型爆彈」という記事が載っています。

―――
長崎にも新型爆彈
西部軍管區司令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)
一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆彈らしきものを使用せり
二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込
―――

長崎の原子爆弾投下の第一報は、わずかこれだけのものでした。この記事の左側には、広島への原子爆弾投下を受けて「新型爆彈への對策」や「一瞬に廣島變貌」といった記事が載っていますが、それらに比べるとごく小さな扱われ方でした。


先日広島のところに出てきた新聞も朝日新聞だった。
原爆が投下された8月6日には大本営発表がなされなかったため、新聞各紙の扱いは小さかった。
新聞社には原爆(新兵器)という認識は全くない。
それどころか、大きな被害が出たという噂話も届かなかったらしく、被害は若干の模様だと記されている。
これでは報道機関もあてにならんということになってしまう。


広島での大本営発表は投下当日ではなく翌日(7日)だった。
―――
大本営発表(昭和二十年八月七日十五時三十分)
一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

―――


長崎の時は大本営ではなく西部軍管区司令部発表だったようだ。

1935年8月西部防衛司令部として発足し中国・四国・九州地方を管轄区域とする西部軍司令部が軍管区内の軍隊を指揮・統率した。1945年2月1日第16方面軍の編成により廃止され、その後は第16方面軍司令部が西部軍管区司令部を兼ね九州地方の軍政を統括した。
第16方面軍司令官は西部軍管区司令官を兼ね、軍管区司令官としては天皇に直隷した。また、参謀長、参謀副長も、西部軍管区のそれを兼ねた。


西部軍司令部は福岡県小倉市(現:北九州市)に、第16方面軍司令部は福岡県二日市(現:筑紫野市)にあった。


9日に投下され、当日(3時間43分後)に大本営発表並みの西部軍管区司令部発表があったにもかかわらず、朝日新聞が一報を掲載したのは8月12日付新聞だったらしい。
そしてその時点でも「詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込」だったのである。

では地元をよく知っているはずの地方紙はどうだろうか。
広島では地方紙の中国新聞が原爆投下翌日と翌々日の新聞を休刊にした。新聞社も被害にあって発行しなかったというのだ。
長崎は?

1945年から1949年の占領期に米国軍から検閲を受けた出版物が眠っているメリーランド大学のプランゲ文庫には、原爆投下後まもないころの長崎市民が読んでいた新聞が収蔵されています。
長崎で発行されていた地方紙も、全国紙だった毎日新聞の長崎版も、プランゲ文庫には収蔵されているそうである。しかし・・・
原子爆弾が投下された直後の長崎市の様子がわかる新聞記事は、残念ながらプランゲ文庫にも収蔵されていません。検閲が開始されたのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「言論および新聞の自由に関する覚書」を出した1945年9月10日以降となります。


こんな状況でよく爆心地がピンポイントで分かったものである。

長崎市が編纂した『長崎原爆戦災史 第二巻 地域編』によると、被爆直後から、爆心地は松山町であるという未確認の情報が出まわっていたといいます。

後日、公式な爆心地の推計と決定が行われました。文部科学省学術研究会議・原子爆弾災害調査研究特別委員会から、理科学研究所の木村一治、田島英一、また地震研究所の金井清などの科学者が長崎に派遣され、現地を調査しました。
木村らは、浦上天主堂の忠霊碑(爆心地からおよそ450メートル)、浦上天主堂前の記念碑(450メートル)、長崎医科大学附属病院の窓枠(650メートル)、井樋の口の交番所(1470メートル)などに残されている焼け跡の向きなどを手がかりにしました。これらの焼け跡の向きの焦点が合った場所が、爆心地であると考えたわけです。
長崎市松山町171番地が爆心地であることが決定されました。

by yumimi61 | 2016-10-27 20:54