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日本国憲法の秘密-405-

権威権力があることと信望があることは違う。
権威や権力があるところにパワハラあり、打算的人物集まり。
天皇は唯一無二の権威者であり、全権を掌握していた絶対権力者であるが、イコール信望を集めていたとは言えない。
とくに体育会系は実力や実績がないと信望を得にくい。
何故オリンピックメダリストがちやほやされたり指導者なれるのかと言えば、実力や実績を見せつけたからだろう。信望を得やすいのだ。
部活動の顧問にその競技を経験したこともない教諭が就くと生徒の信望はなかなか集めにくい。実力や実績がないからだ。
軍隊にもそのような傾向がある。
期待する結果を出すためにも、反乱を防ぐ意味においても、軍隊を引っ張っていく人物は信望がなければならない。
そのことは権威権力者も重々承知しているはずである。
「分かってるけどそれはどうなんだ」というように、唯一無二の権威者や絶対権力者は歯がゆい思いをさせられることになる。
従って軍隊が結果が出せなかったような場合にはパワハラにも直結しやすい。
1番が好きな人は1番になれないことにとても敏感なんだと思う。「2番じゃダメなんですか!」


39代 近衛文麿(近衞家第30代当主・貴族院議員) 1940年7月22日‐1941年10月18日 

40代 東條英機(現役陸軍) 1941年10月18日-1944年7月18日 
41代 小磯國昭(陸軍出身) 1944年7月22日‐1945年4月7日
42代  鈴木貫太郎(海軍出身) 1945年4月7日‐1945年8月17日

43代 東久邇宮稔彦王(皇族陸軍)1945年8月17日-1945年10月9日


太平洋戦争突入時の首相・東條英機も陸軍軍人現役のまま首相に就任した。
天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。

戦争については天皇は回避派だったとかよく書かれているが、全権を持っている天皇が本気でそう考えていたならば戦争を回避させることを出来ないことはない。
それをしなかったのだから回避派ではなかったということだ。
天皇に関しては象徴天皇である今でも報道機関の御言葉遣いが違うほど特別扱いである。批判はご法度。手紙を渡すだけで非難轟々。
当時は憲法に支えられて実権を握っていた。特別も特別、敗戦直後でさえ聖上や聖断などと報道していたくらいである。
厳しい検閲や取り締まりを行って都合の悪いものは禁止したり処分したりした。自由な言論なんてなかったのだ。
天皇にとって都合の悪い情報が出てくるわけがない。
天皇の人柄や言動は戦後の社会情勢に合うように形成されたものだと思って然るべき。

戦争を行う予定があったから天皇とその側近は陸軍の東條英機に白羽の矢を立てた。
上記にもあるように東條は首相になる気があったわけではない。
「虎穴にいらずんば虎児を得ず」、一番権力を与えたくない人物に自ら率先して権力を与える、危険を冒さなければ大きな成功は得られないということ。
天皇にとって東條英機は最初から危険人物だったのだ。


しかも東條英機は1944年7月のサイパン陥落を受けて同月辞任している。
東條英機が強硬派で戦争を続行させていたならば、ここが講和するチャンスだったろう。
そもそも統帥権を持っているのは天皇なのだから本来どんな言い訳も効かない。
それでも首相の協力が必要だったと言うならば、首相を任命しているのは天皇なのだから戦争終結へ動いてくれる首相を任命すればよいではないか。
でもそういう決定も決断もしなかった。天皇に戦争を終わらせる気がなかったという証拠である。

行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(および嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。
統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。
この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。
東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。

このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携し始める。
しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという

※東條が三職を兼任したのは1944年2月より。そして7月に総辞職した。
細川日記は細川護貞(肥後熊本藩主細川家の第17代当主、細川元首相の父)による日記。
近衛文麿首相秘書官を務めていた事から、戦中期は近衛の意を受け、高松宮に各種情報を報告する任務についていたそう。
by yumimi61 | 2016-11-08 17:32