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日本国憲法の秘密-478-

ロックフェラー家はアメリカの石油事業でアメリカ有数の財閥に伸し上っていった。
そしてニューヨークの大地主にもなった。
ニューヨーク・マンハッタンのロックフェラー・センター、その場所はもともとコロンビア大学が所有していた土地であった。

アメリカでの原爆開発はコロンビア大学から始まった。
ではそのコロンビア大学はどんな背景を持っているのだろうか?
コロンビア大学
イギリス植民地時代(1754年)に英国国王ジョージ2世の勅許によりキングスカレッジとして創立され、全米で5番目に古い。
世界屈指の名門大学としてノーベル賞受賞者を101名輩出するなど全世界から多くの優秀な研究者、留学生が集まっている。卒業生はあらゆる分野の第一線で活躍しており、これまで34名の各国の大統領・首相や28名のアカデミー賞受賞者等を輩出している。最近の著名な卒業生は米第44代大統領バラク・オバマ。

大学のモットーは、"In Thy light shall we see the light"("In lumine Tuo videbimus lumen")。旧約聖書・詩編36編9節(Psalm 36:9)の"in thy light shall we see light"(我らは汝の光によりて光を見ん。)を元にしている。



イギリスの植民地だった時代にイギリス王によって創設された学校、つまりイギリスの価値観を反映した学校であろう。
現在イギリスは君主を長とするイングランド国教会(聖公会)の国である。
かつてはそのイングランド国教会もカトリックに属していた。ローマ教皇の下にいたわけである。
しかし1500年代のヘンリー8世王の時に自身の結婚や後継ぎの問題などでカトリックの掟と折り合いがつかずカトリックから分離独立した。要するにイングランド国教会はプロテスタントという位置づけとなった。
そのためイギリスではこの辺りからカトリック信仰者が君主になることは難しくなってきた。

以前私はイギリスの君主について書いたことがあり、その一覧の中にジョージ2世も当然含まれているが特筆はなし。
今日はせっかくなのでこんなエピソードを紹介しておこう。
ハノーファーで生まれる。10歳の時、母ゾフィー・ドロテアが、スウェーデン人のケーニヒスマルク伯と不倫をして、父と離婚させられた上、死ぬまでアールデン城に幽閉されるというショッキングな体験をした。この時以来、母と会うことは許されなかった。ゲオルク・アウグストは母に対してこのような仕打ちをした父を憎むようになり、その不仲は終生続いた。

ハノーファー(ハノーヴァー)は現在のドイツ北部にある街。
■ハノーヴァー朝(1714-1901)   
ドイツ起源の王朝。
ドイツのヴェルフ家の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であった。
1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。
アン女王が子供に恵まれず、且つ宗教的理由(カトリック忌避)によってドイツの家系に王位を継承した。
※ハノーヴァーはハノーファーとも言う。

ジョージ1世
ジョージ2世
ジョージ3世
ジョージ4世
ウィリアム4世
ヴィクトリア女王



現在のウィンザー朝(ウィンザー家)もドイツ起源のハノーヴァー朝の流れを汲む。
第一次世界大戦中の1917年に敵国ドイツの名称を避けてイギリスのウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称した。ウィンザーが姓にもなった。
このウィンザー家まで君主たるものに姓はなかった。何故君主に姓がなかったのか?
それは自分の家だけが潤えばよい家業ではないからである。
〇〇〇朝(朝廷)は「私」ではなく「公」の場。国の政治などを指揮する場所・機関のことである。
テューダー朝、ステュアート朝、ハノーヴァー朝、サクス=コバーグ=ゴータ朝など。
奈良朝、平安朝と同じ。


君主はその場所の、引いては国の最高責任者。
その最高責任者は基本的には世襲にてバトンタッチされた。しかしながら後継者がいない場合などには世襲ではないこともあった。この場合には最高責任者を引き受けてきた家が移り朝廷名も変わる。
引き受け手がおらず立候補すれば誰でもがなれるという状況でもPTA会長や役員決めは苦労するという世相からも分かるように(大した恩恵もなく労が多い)「最高責任者」なんてそんなに魅力あるものではない。
引き受け手がいないのは困るので世襲で覚悟させるというのは1つの手段であろう。(逆を言えば引き受け手が数多ならば世襲である必要もないということになる)
最高責任者なんて本来それくらい敬遠されるものなのに欲が絡むと途端に社会的地位の高さを示すステータスシンボルとなる。
それだけ恩恵に与る最高責任者が存在するということだろうか。

「公」の場と「私」の場をあえて混同させたのが「ウィンザー朝」「ウィンザー家」。
公私混同か、それとも朝廷が国を率いる場所ではなくなり君主が最高責任者でなくなったという実態に合わせて「私」に走ったということなのか。

日本では天皇以外が最高責任者だった時代を幕府と呼んで分けているが、最高責任者がいる場所を朝廷とするならば別に鎌倉朝でも江戸朝でも良かったはずである。
でもそれは譲らなかった。

(初めての武家政権と言われる鎌倉幕府)当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般からは武家と称されていた。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、明治20年以降とされる。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の林屋辰三郎は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。



ジョージ2世の時代を一言で表せ「君主が最高責任者でなくなった時代」と言えるかもしれない。

父が即位して王太子になったが、父との不仲は解消されず、1717年に宮廷から追われレスター・ハウスに居住、政府に不満を抱く野党の集合場所となり、父が亡くなるまで関係は修復されなかった。

1727年、父の死去によりイギリス王ジョージ2世、及びハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグストとして王位と選帝侯位を継承した。
その治世の前半は、先王より続いていた第一大蔵卿(事実上の初代首相)ロバート・ウォルポールの長期政権の時期に相当する。ジョージ2世は始め父の側近だったウォルポールを信用せず、自分の側近である下院議長スペンサー・コンプトン(後にウィルミントン伯)を政府首班に据えようとしたが、コンプトンが無力であったことと、ウォルポールが王室経費を増額させた上で下院に認めさせると、王妃キャロラインの勧めもありあっさりウォルポールを信用するようになった。

こうしてジョージ2世はウォルポールとキャロラインの助言によりイギリスを統治することになり、この時代はウォルポールが平和外交政策をとり続けたので、イギリスにとっては平穏な日々が続いた。ウォルポールにはダウニング街10番地の邸宅を与えたが、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになった。

ジョージ2世はハノーファー選帝侯を兼ねていたので、ハノーファーに滞在してイギリスを留守にする時は、キャロラインが没する1737年までたびたび摂政を務めた。


世襲で国の最高責任者という大役を継承せざるを得ないのに、父親とは個人的な理由によって不仲であった。その父への感情は「公」と「私」と切り離して割り切ることが出来なかった。
さらにハノーファーとイギリスという2つの国の最高責任者である。力は分散せざるを得ない。
イギリスではそんなジョージ1世・ジョージ2世の時代に「首相」が誕生した。


初代首相ウォルポール
彼はカトリックの君主を認めない派のホイッグ(党)に属していたが、反カトリックである長老派教会ほど反カトリックでもなかった。それはそのままイングランド国教会の特色と言い換えることが出来る。
ホイッグ党の起こりはイングランド王チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位に反対の立場をとった人達をさして"Whiggamore"と言ったのが始まりである。Whigはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。

どちらかに偏り過ぎないファジーさゆえに宗教対立が顕在化しなかった。
また彼の出自は貴族(男爵)ではないが地主であり貧しい層ではない。上か下かで分ければ上であるが、上からも下からも激しい拒絶感が少なかった。
またとても現実的であり、外交面では議会の不安定化(自分に不利になること)を嫌って戦争回避の平和外交に努めた。

ウォルポールは良くも悪くも現実主義者であり、理想が高じて冒険的政策をとったり好戦的態度を取るということがなかった反面、金権政治に罪悪も感じなかった。平和外交家だったのも「戦争=悪」という抽象的理念からではなく、「戦争になれば戦費がかかって土地税を上げることになり、議会を支配する地主層の支持が失われ、選挙に負ける」という実利的な発想に基づいている。

でも実際にウォルポールの権力が強化されたのは政敵を巧みに排除ないし封じ込めたためであった。また言論弾圧や言論統制も行った。
一方で自分に有利とあれば官職を餌にして取りこんだりもした。
ウォルポールの20年に及ぶ長期安定政権はイギリスを商業国家として躍進させ、後の大英帝国の基礎となったと評価されている。他方、総選挙の度に政府機密費を流用して買収・接待に励んだため、金権政治をもたらした人物との批判もある。

ウォルポールが求心力を失ったのはスペインとイギリスの戦争である「ジェンキンスの耳の戦争」がきっかけ。スペインはカトリック国である。
ウォルポールは戦争に乗り気でなかったため、戦争指導に主導的役割を果たさず、それが彼の政治指導力の低下を招いた。また戦費の捻出のために土地税増額も余儀なくされ、ウォルポールの地主懐柔策が破綻した。



上にも書いたようにコロンビア大学はジョージ2世王の王立憲章に基づくキングスカレッジ(イギリス王立大学)として創立された。(アメリカ独立後に私立となった)
最初はイングランド国教会の教会(ニューヨークのトリニティ教会)で少数の学生をサミュエル・ジョンソンが一人で教えていた。
サミュエル・ジョンソンとは1700年代のイギリスの文壇の大御所のサミュエル・ジョンソンではない。
コロンビア大学のサミュエル・ジョンソンはアメリカのコネチカット州にあったイギリスの植民地(ニューヘイブンコロニー)生まれ。
彼の母はニューヘイブンコロニーの創設者の孫にあたる人物であり、迫害された原住民ではなくてイギリスからの移民だったわけである。
彼は教会執事(牧師の補佐役)だった祖父の影響を受けて育っており厚い信仰心を持っていた。

しかし少々おかしいことがある。
コネチカット州の植民地はピューリタン(清教徒)が住み着いた場所である。
ピューリタンとはイングランド国教会を非難して改革を唱えたキリスト教グループ。プロテスタントに含まれる。
市民革命の担い手にもなった。
逃れるようにアメリカに渡った、いわば反イングランド国教会、反イギリスなグループである。
サミュエル・ジョンソンは(現在の)イェール大学でピューリタン神学を学んでいる。
そして牧師となり教育者(哲学者・言語学者・歴史学者など)となった。

イェール大学もピューリタンによって創設された大学である。
ニューイングランドの植民地で最初に清教徒会衆派によって創設されたハーバード大学が堕落してしまった(つまり、「リベラル」になってしまった)と考えてハーバード当局に反旗を翻した会衆派の人々により創設された(ちなみに、後にイェールも堕落してしまったと考えた人たちがプリンストン大学を創立する。プリンストン大学総長は初代から第3代までイェール出身である)。現在に至っても、「リベラル」であるとされるハーバード大学と比較して保守色が強いと考えられている。

イングランド国教会の長である王が創立した学校なのに、イングランド国教会を非難したピューリタンが先生をしているなんて・・・。

He was a major proponent of both Anglicanism and the philosophies of William Wollaston and George Berkeley in the colonies, founded and served as the first president of the Anglican King's College (the predecessor to today's Columbia University), and was a key figure of the American Enlightenment.





by yumimi61 | 2017-05-21 15:23