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日本国憲法の秘密-487-

伊香保・草津界隈の人ならば知っていると思うのですが、ドイツ人のベルツをご存知でしょうか。
伊香保には「ベルツの湯」という日帰り温泉があったのですが、今は食の駅になっています(これはまだありますよね?)。
草津の「ベルツの湯」は、今はベルツ保育園になっています。

ベルツの湯に関する怪文書!?

エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。

1876年(明治9年)に来日。
ベルツは伊香保と草津の温泉の効能を紹介した人物でもある。

草津温泉を再発見、世界に紹介した人物でもある。1878年(明治11年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価する。

自身も草津に約6000坪の土地と温泉を購入し、伊香保温泉にも別荘を構え、幾度となく訪れた。
ベルツは大変な健脚で噴火直後の草津白根山にも登頂したことがあり、その際の手記は現在でも貴重な火山学的資料になっている。

しかし同時に日本にとっては手厳しい日記を残している。
ベルツは花子という日本人女性と結婚しており、その2人の間に生まれた息子が後年(ナチス時代)ベルツの日記を日本語、ドイツ語、英語で出版した。
但し息子が母親の出生や両親の出会いなどは『ベルツ日記』から削除されたという。

不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。


歴史が無いと言ったのは伊藤博文である。
大日本帝国憲法制定時には、一般民衆の様子を「お祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない」(趣旨)と描くなど、冷静な観察を行っている。

日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。


日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。


もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである。



実はベルツは前記事に書いたベア商会のドイツ系ユダヤ人であるベア(バイル)と非常に親しくしていた。
日記にも再三登場する。
1880年(明治11年)3月17日、前年行われた西南戦争を題材にした芝居『西郷と鹿児島の変』を観覧。「恐ろしく退屈だったので、お昼にバイルのところへ行き、彼と一緒に再び劇場で数時間を過した」と記している。

1881年(明治12年)7月27日、「バイルのところで昼食中に烈しい雷雨があった。マニラ通のバイルは当地の雷雨の威力のちっぽけなことをあざけった」と記す。

1881年8月4日、「彼(ナウマン)はネットーやバイルと共に自分の一番親しい友人」と記す。

1881年10月20日、「又もやバイルと中村屋へ。日本画家の制作ぶりを見ようというのである。バイルは最も優れた画家たち(その中に狂斎もいた)を招いていた」と記す。
※狂斎(暁斎)は古河出身ですよ!
強烈な個性を前面に押し出し、日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師。
海外では高い人気を誇りながら、国内では画業が忘れられかけていた絵師。
明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。


1882年(明治13年)11月8日、「夜、バイル来訪。彼は日本人一といってもその指導階級だが―と国内の経済資源の開発、特に農業と商業の振興を目的とする会社の設立に関して折衝中である。バイルは金持ちだ。彼にとっては、もっと金を儲けることなどあまり問題でないことを日本人は知っている。だから彼は落ちついて相手の申し出を待っている。国民経済の点で日本の発展にバイルほど寄与しし得る人物は他にないという一事だけは疑う余地がない。交渉が好結果に終わることを日本の繁栄のために祈る」

ベア(バイル)のベア商会は1880年に出された通達によって廃業に追い込まれて1881年には高田商会が誕生している。
ベアは結局ドイツに帰国するのだが、1882年の時点ではまだ日本にいた。
ベア商会廃業の代わりに別の会社の設立を提案されたようである。
ベルツは好結果を祈ったが祈りは届かったものと思われる。

ところで中村屋。新宿中村屋のサロンのことである。
中村屋サロン美術館公式より
創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻は1901(明治34)年、本郷でパン屋「中村屋」を創業しました。そして1909(明治42)年には、新宿の現在の地に本店を移転します。相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになりました。それが「中村屋サロン」のはじまりです。

artscape中村屋サロンより
明治期末から大正期にかけて、新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵とその妻・黒光(本名・良)の周りに集まった芸術家たちの交流を指す。1908年に、愛蔵と同郷の彫刻家・荻原守衛(号・碌山)がヨーロッパから帰国し、新宿中村屋の近くにアトリエを構えたことに始まる。荻原を慕う若い画家・彫刻家たちに加え、パトロンである相馬夫妻の関係する文学者や演劇関係者たちがジャンルや国籍を越えて交わり、そのなかで傑作が生まれ、夭逝や恋愛などロマンチックでスキャンダラスな出来事が幾つも起きた。特に、荻原の遺作であり第4回文展三等賞に浴したヌードの彫刻《女》(1910)は、荻原の黒光への秘めた思慕が表われたとされる。また、洋画家の中村彝は、新宿中村屋で出会ったロシアからの盲目の亡命詩人をモデルに《エロシェンコ氏の像》(1920)を制作した。これはレンブラントとルノアールの表現を咀嚼し、半透明の層を重ねた独自の暖かみのある表現に至り、大正期の洋画を代表する作品となっている。中村彝はまた、黒光の娘・俊子をヌードモデルにした作品を制作し、やがて恋愛関係になって求婚するも黒光に拒まれた。その後、俊子は、インドから亡命した革命家のラス・ビハリ・ボースと結婚した。新宿中村屋に関わった美術家としてはほかに、同店の現在も使われるロゴマークを揮毫した画家の中村不折、彝とともにエロシェンコを描いた画家の鶴田吾郎、夭逝した彫刻家の中原悌二郎と戸張孤雁などがいる。ほかにも、相馬夫妻の子どもを教えたことがある美術史家の會津八一、女優の松井須磨子、評論家・社会主義者の木下尚江と秋田雨雀といった多彩な人々が、ここに関わり、さまざまな人生の交差する場となっていた。

何故中村屋に拘っているかと言うと、以前にも出てきたことがあるのです。原爆との関係で。
松方正義の家族から「弐キ参スケ」について書いたコチラの記事中にリンクしたサイトのサブタイトルが「広島・長崎の原爆は「新宿 中村屋」が製造使用した。」なのである。
群馬県沼田市から横浜に出て生糸業者を営んだ星野一家についてはパート4に書かれている。

さて、タイトルの“毛利元就”と云えば、「三本の矢の教え」で有名な話である。
その「三本の矢の教え=兄弟が結束して事に当たれ」が、日本製原爆完成にも生かされたと云う話である。その3兄弟とは、群馬県沼田市からでた星野3兄弟である<星野直樹・星野茂樹・星野芳樹+星野花子>それと、親子2代で朝日新聞記者だった野田豊(野田経済研究所々長)と、「野田皓一」である。
以上、6名の共通項は<皇室、日本キリスト教婦人矯風会、朝日新聞、日本共産党、福井県小浜市発心寺(原田祖岳)、上智大学、間組、京都大徳寺、京都真珠庵、京都青蓮院門跡(東伏見慈洽)、西園寺家、近衛家の旧宮家と旧華族>である。
毎度でてくる「戦争指導者の巣窟」ではある。

星野直樹は東条英機の私設秘書的な存在であり、星野茂樹は“トンネル屋”で、星野芳樹は“日本共産党員、満洲浪人、理論物理学者、静岡新聞記者、アフリカに学校建設、日本水泳界の重鎮”と多才な顔を持つ。
星野直樹と星野芳樹の二人は、大満洲帝国で傍若無人な振る舞いをしていたのであるが、星野茂樹は鉄道省の仕事で「丹那トンネル工事、関門海峡トンネル工事」の監督をしていたと云うのであるが、旧鉄道省(現国土交通省)の工事記録を見られれば、星野茂樹の活躍ぶりも理解できるが、星野茂樹自身の著作がないので“トンネル屋”が本業か?との疑念がある。
石川九五と丹那トンネル工事に従事した証言は、<証言・私の昭和史、テレビ東京、文春文庫刊>に有り、関門海峡トンネル工事に関しては<昭和17年11月、鉄道トンネルの開通に力を尽くした鉄道省下関工事事務所長星野茂樹らに木杯が下賜された際の裁可書>が存在している。

鉄道省に在職していたのだから、“元首相 佐藤栄作”と面識がないと云う事は考え難い。佐藤栄作と面識があれば、岸信介とも繋がり、其処から大満洲帝国に連なる、東京帝国大学系の「満洲帝国官僚の人脈」に繋がるのである。

当時の状況からして、星野茂樹が“大満洲帝国”に一度も足を踏み入れなかった事は更に考え難い。星野茂樹の細君(鳥居はな)が虚弱体質で、星野茂樹夫婦は“ままごと遊びの様な夫婦”だったと、星野芳樹は証言して居る訳だが?星野直樹が大蔵省から推薦されて、「満洲国務院 総裁」になったという証言は偽証である。星野直樹は大満洲帝国建国に始めから関わっていたから「満洲国務院 総裁」に就任できたのである。
又、東京帝国大学在学中に満洲旅行をしている筈だが、そこの部分は抜けている。

そう云った意味で<星野直樹、星野芳樹、星野茂樹>は、満洲で諜報活動をしていたのである。
当然の事ながら、諜報員としての名前には“伏野愿城(ふしの はれき:兵 アムール州・第19収容所 第2017病院 ザヴィチンスク死亡)”姓などを使用していた訳である。

さて、星野茂樹は満洲全土の地質調査報告書を作成して、日本製原爆製造の原材料“ウラン鉱脈”発見に貢献しているのである。
星野芳樹は、日本共産党幹部なのだから、当然、満洲中央銀行総裁西山 勉の秘書“大森寿恵子(日本共産党 書記 宮本顕治の夫人)”とは、昵懇と考えるのが自然である。
大満洲国の下町の情報を、兄星野直樹や大森寿恵子に報告していたのである。又、星野芳樹が共産党員として官憲に逮捕勾留されていた時期に、拘置所内で「理論物理学書を原書で読んだ」と云う事と、戦後原子力の平和利用を合法化した、日本共産党員で反ファシズムを標榜していた「武谷三男(京都帝国大学理学部卒)」が、特高に検挙されたら、取調室で「原爆製造の理論式を書いて、日本製原爆製造に積極的に協力した」のと同じ事を、星野芳樹もしていたのである。

星野直樹の根幹を形成する思想は「ブルードンは財産は盗賊だといってるぞ」と云うのだから、中国東北部を“大満洲帝国”として「国を盗んだ」訳である。
それを承知の上で、<前航空幕僚長 田母神俊雄と、上智大学名誉教授 渡辺昇一>は、日本の行為は「侵略(盗賊)ではない」と述べているのだから、やはり防衛省と日本の大学教授は“盗人たけだけしい連中”の集団だね。
星野直樹と東条英機は、“大満洲帝国”の官僚と軍の象徴的な存在である。その星野直樹が「盗賊」だと云うのだから、その思想で行動していた事は間違いないのである。次に星野一族と野田一族の関係を述べる。

星野直樹(ほしの なおき、官僚:満州国務院)
星野茂樹(ほしの しげき、官僚:鉄道省)
星野芳樹(ほしの よしき、官僚:日本共産党からアフリカまで)
星野花子(ほしの はなこ、戦前からアメリカ在住)
野田 豊(のだ ゆたか、朝日新聞記者、陸軍大佐、野田経済研究所長)
野田皓一(のだ こういち、ウズベキスタン抑留、朝日新聞記者)






by yumimi61 | 2017-05-31 23:35