人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

日本国憲法の秘密-634- (外貨準備と貿易について)


戦後日本の物価は上がり続けた。
戦前(1936年頃)と高度経済成長期の始まった1954年との比較では物価は300倍にもなっている。
戦前(1936年)と1949年の比較では220倍ほどだったという。
インフレが起きたということは紙幣が多くなったということ、つまり紙幣をかなり発行したということである。

実態はともかくとして日本が名目上金本位制を止めたのは戦時中1943年だった。まだ天皇が絶対的権力を握っていた時代である。
「日本銀行兌換券」(額面と同額の金貨との交換が保証された紙幣)から「日本銀行券」(金の保有高に基づいて紙幣を発行するのではなく日本銀行法に基づいて発行する)に取って代わり紙幣が改められた。
正々堂々好き放題に紙幣が発行できるようになった。
日本国は日本銀行に国債を引き受けさせた。
国債引き受けとは日本銀行に国債を渡して紙幣を作らせること。日本銀行は作った紙幣を国に渡す。
国は戦争を行っている最中であるから民間企業などに軍需品を作らせ買い取るわけだが、買うにはお金が必要。
国から企業に支払われたお金は世に出るということである。こうして世に流通する紙幣が増えていきインフレが進行していく。
あまり急速にインフレが進行してしまうと物が人々に行き渡らず生活の基盤すら危うくなってしまう。
日本はインフレ対策に個人相手に国債を発行したりもした。
お金を持っている人がお金を国に貸すことで世の中の紙幣を減らす作用がある。
また「欲しがりません勝つまでは」のスローガンの下、購買意欲を抑制し預金を引き出すのを抑えたりもした。
世に紙幣が多く出回っていても欲しがる人がいなければ極端な物価高にはなりにくい。
紙幣を大量発行した戦時中こそハイパーインフレ状態なのだが、その紙幣は主に戦争に費やされ、上記のような対策の効果もあって世の中の人々はハイパーインフレ状態を認識しないでいた。


日本がアメリカのパールハーバー(真珠湾)を奇襲攻撃して太平洋戦争が勃発したのは1941年12月のこと。日本は1937年から日中戦争を行っていた。
その日本が名目上金本位制を止めたのは戦時中の1943年(昭和18年)。この時に初の日本銀行券(不換紙幣)が発行された。
実はその1年前の1942年(昭和17年)に千圓(1,000円)や貳百圓(200円)という超高額紙幣が準備されていた。明治以来ずっと最高額面は百圓(100円)だったことを考えるとインフレに備えて大きな額面の紙幣を作っておいたと考えられる。これは金貨との交換が保証されている日本銀行兌換券である。
但しすぐには使われなかった。インフレ抑制策が上手く機能していたのだろう。
1943年(昭和18年)8月12日には金属類回収令が出され日本中の貴金属が没収された(戦後も戻ってくることはなかった)。
貳百圓(200円)が実際に発行されたのは終戦4か月前の1945年4月16日だった(大蔵省予告では1月6日)。
戦争は終わっていないのに世にお金が回りだしたということは、日本ではこの頃、戦争に対する楽観ムードが漂い始めたのではないだろうか。


1945年4月というのは、日本が本格的に特攻作戦を開始した時期と重なる。
特攻作戦とはパイロットの命はもちろんのこと、寝る間も惜しんで作った高価な戦闘機を大破させ海に沈めてしまう作戦である。

「“特攻作戦”は何故行われたのか」より 航空特攻作戦の概要/知覧特攻平和会館
日本政府は沖縄を本土の最前線と考えていましたので、その最前線を守るために採られたのが、特攻作戦でした。
沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日から始まりました。特攻作戦とは、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは必ず " 死ぬ・亡くなる " という『必死』条件の作戦でした。
 特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。
 本格的な特攻作戦は、陸海軍共同で4月6日第1次総攻撃として始まり、7月19日第11次総攻撃の終了まで続きました。


そして迎えた終戦。
1945年8月に戦争状態は終結。降伏文書への調印は9月2日。
しかしながら8月15日玉音放送の日が日本における終戦記念日である。戦争が終わった~!とタガが外れた日とも言える。
その翌日8月16日に4月発行開始とは別種の貳百圓(200円)紙幣、8月17日に千圓(1,000円)紙幣が発行された。(ともに日本銀行兌換券)
日本では1945年の終戦直後にハイパーインフレが起きたと言われている。
発行された紙幣の額面からしてもそれはそうだったんだろうと思う。


国の命令で軍需品にしか力を注いでこなかった戦争の時代が終わった。
ふと我に返ればいろいろな物が品薄であり、負けてタガが外れ購買意欲が刺激されたことも重なり物価高になった影響はあるだろうが、ハイパーインフレが起きたということは戦争に負けてもなお日本国内には結構お金が残っていたということである。
戦争で儲かったのは寝る間を惜しんで軍需品を作っていた企業だろう。
しかし終戦直後のインフレで紙幣は紙くず同然になったと言われている。預金も借金も目減りした。


日本の戦費は今の金額で言えば4400兆円にも上ったという。
しかしなにせ戦時中のことである。日銀に引き受けさせた国債は満期時に返すという約束がなされていたのかどうか。
日銀の国債を踏み倒せるならば借金はだいぶ少なくなるであろう。返す必要があるのは個人向け国債だけとなる。
多額の借金返済の必要がなくなるとなると戦時中の経済規模をぐんと縮小してもさほど問題はない。
多額の費用を注ぎ込んだであろう船や飛行機が戦闘で撃たれ突撃し大破し海に沈めば、その費用分の円は消えてなくなる。
経済規模は小さくなるということである。。
幸いと言うかなんと言うか、現金による賠償金支払いもなく、日本国内の軍需工場の機械など資本設備をかつて日本が支配した国に移転譲渡することが戦争賠償となった。
戦時中に世に出た沢山の紙幣は機械などにかなり化けたはずである。
これを外国に無償譲渡するということは機械に投資された円が消えるということである。これによっても経済規模が小さくなる。
1946年に金融緊急措置令によって預金封鎖を行い、新円紙幣への切り替えを実施した。この時に戦時中と戦争直後に発行された紙幣は失効した。


しかしそれでも現在の4400兆円に値する紙幣発行は如何せん多い。
戦後解体されたものの多くの財閥はやがて息を吹き返す。息を吹き返した財閥は銀行を持っているところが多い。
大量発行された紙幣を使わないで高額な兌換紙幣に交換したもの勝ちだったんだろう。
日本のインフレ(物価上昇)は着実に進行し続けた。
インフレになれば、あるいは国債などで世に紙幣供給がなされれば、経済規模(少なくとも名目GDP)は一回り大きくなる。
戦後初の国債は1965年。国債によって世に紙幣が出る。
だが初の国債発行前もずっと日本のインフレは進行していた。
つまり戦争中に発行した膨大な紙幣の影響力が戦後20年あまり、1964年東京オリンピックの頃まで及んでいたということになる。
「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と呼ばれる驚異的な経済成長は、戦時中の裏付けのないとてもつもない紙幣発行によって支えられていたのだ。
但し紙幣を膨張させただけならば奇跡は起こらなかったであろう。
上り詰めた山は下るしかない。
一旦かなり縮小させたことが成功の鍵となっている。犠牲が必要だったのだ。
製造した物のあっけない廃棄、支配下においた国(途上国)への設備の無償譲渡、財閥解体、有力者の処罰などなど。
世の中的には貧しくなってしまったが、そうでない人や企業が確かにあったからこそのJapanese miracle。














by yumimi61 | 2017-12-10 15:00