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日本国憲法の秘密-639- (外貨準備と貿易について)

1989年に3%で導入された消費税の値上げ(5%に増税、うち地方消費税1%導入)のための税制改革関連法案を成立させたのは、1994年6月30日に発足した自社さ連立政権で首相が社会党の村山内閣だった。
内閣発足から僅か5ヶ月後の法案成立という早業だった。(導入は1997年より)


増税の一番のネックになるのが当時の社会党に代表される左派・野党である。
実は左派・野党の有力者たちも国の財政状況を見れば増税は致し方ないというのは分かっていたのだ。
ただ立場的なこともあって有権者を前にするとなかなかそれを声に出して言うことができずにいた。
だったら左派・野党も政権に取りこんで事を進めようと思いついたわけである。飴と鞭作戦。結果的にこれが失敗だったのだ。

安定政権への要望、野党に安んじられない自由民主党等の状況の中、武村正義、竹下登、野中広務などが水面下で動き、社会党を首班とし、自民党とさきがけが参加する大連立政権が構想されていった。

この時に「リベラル政権を作る会」もできた。

自民党は自社連立政権樹立後の政権運営を想定して、村山首相を誕生させるための自社有志による勉強会を開き、「リベラル政権を創る会」と「憲法問題研究会」というふたつのグループを作った。ここでの政策研究が自社さ連立の政権政策の基礎となるとともに、首班指名選挙における村山首班側の基礎票となった。

リベラル政権を創る会には、自民党から逢沢一郎、安倍晋三、衛藤晟一、小川元、川崎二郎、岸田文雄、熊代昭彦、白川勝彦、二田孝治、村上誠一郎、谷津義男が、社会党からは金田誠一、中尾則幸、伊東秀子が、護憲リベラルの会からは翫正敏、西野康雄(旭堂小南陵、現・旭堂南陵)、国弘正雄、田英夫、三石久江が、二院クラブからは青島幸男と下村泰(コロムビア・トップ)が、無所属から紀平悌子が参加した。憲法問題研究会には自民党から石原慎太郎と松岡利勝が、社会党からは北沢清功、秋葉忠利が参加した。


「自社さ連立政権」での内閣総理大臣指名選挙では、自民党の議員もほとんど社会党の村山に投票した。
村山に投票しなかったのは中曽根康弘・渡辺美智雄などごく一部の議員しかいなかった。

「それまで反対していた増税を政権とったら掌返してやるのか、ではこれまでは何の理由もなく増税に反対していたというわけか、節操のない政党だ」という批判が社会党などに向けられた。
法案成立の2ヶ月後には阪神・淡路大震災が起こり、さらにその2か月後に地下鉄サリン事件も起こり、諸々逆風となって、1995年7月の参院選では連立与党三党(自社さ)は敗北に終わった。
投票率も50%を切るほど低調であり、このとき勝ったのは創価学会が有力支援組織であった新進党であった。(公明党と新進党に合流した)(勝ったと言っても第1党になったわけではないが) 
この時、自民党を初めとする与党は新進党を構成する旧公明党の支持母体である創価学会に対する攻撃を展開した。宗教法人法の改正に伴い、学会名誉会長池田大作の証人喚問を要求し、週刊誌に掲載された池田のレイプ疑惑を追及、自民党の機関誌「自由新報」に継続的に掲載し反創価学会キャンペーンと呼ばれるまでに至った。

新進党の初代党首は竹下登の影響下にあり赤字国債発行ゼロを達成した元首相の海部俊樹。
海部は、1994年6月に自民党総裁の河野洋平が自社さ連立政権構想で合意し首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。
新進党は「反自社さ連立政権」の受け皿として結党された。
1993年に(こちらも赤字国債発ゼロだった)宮澤内閣に対しての不信任決議案に賛成し、可決に追い込み自民党を離党した羽田孜や小沢一郎もいた。
赤字国債発行減少・ゼロ組の首相、中曽根・竹下・海部・宮澤の関係が「自社さ連立政権」を巡ってぎくしゃくし始めた。

小沢一郎と竹下登は1992年の対立で禍根を残している関係である。
1992年(平成4年)10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などを行い、小渕を強引な形で後継会長に据えた。

だが自社さ連立政権の創価学会批判が功を奏したのか、1996年の衆院選では議席数を減らし勝てなかった。
翌1997年には公明党が離れ、新進党も解党に向かった。
ところがその公明党も、小沢一郎の自由党も、後に自民党とくっつくのだった。
その橋渡しに影響力を発揮したのも竹下登。

自民党は1998年(平成10年)7月の第18回参議院議員通常選挙で前回の改選前の61から45に大幅に議席を減らした。この選挙の敗北の責任を取り橋本内閣が総辞職し、同月30日に小渕内閣が成立した。8月中旬、元首相の竹下登は創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けた。

長いこと公明党は、政策的に良く言うと中道、悪く言うと一貫性がなかった。
掌返しは致命的になるほど嫌われるところでは嫌われる。
でも公明党は良くも悪くも比較的それが弱い。
信念ではなくて宗教的な繋がりで結ばれた組織だから。
そして典型的なトップダウン組織である。
分裂や離反が少なく中から壊れにくい。(たぶん今の自民党もそんな感じなんだと思う)
公明党は中道であり、親自民と非自民の狭間を揺れていた。選挙に勝てば日米安保・自衛隊に賛成、負ければ反対と、特に外交・防衛政策で立場の不鮮明が目立った。また、支持母体である創価学会においても、壮年部(40歳以上の男性)が親自民もしくは自公民路線、婦人部(既婚女性)と青年部(男性は40歳未満、女性は40歳未満かつ未婚者)が非自民もしくは社公民路線を支持するなど内部の路線対立も存在していた。

1998年7月の参院選における自民党敗因の理由は1997年の金融危機。

1999年(平成11年)1月14日、自民党と自由党の連立政権が発足。公明党もいまだ名目上は野党ながら、周辺事態法、国旗・国歌法、通信傍受法、住民基本台帳法改正など、政府・与党の重要法案に次々と協力し、与党入りの足場固めをした。同年10月5日、自民党の小渕内閣との自自連立に正式参加。自自公連立政権が誕生した。これ以降森内閣・小泉内閣・第1次安倍内閣・福田康夫内閣・麻生内閣、そして、自民党が政権を奪還した第2次安倍内閣・第3次安倍内閣においても公明党は自民党との連立政権を維持した。










by yumimi61 | 2017-12-14 16:28