人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

日本国憲法の秘密-648- (外貨準備と貿易について)

経済学には、人は利己的な期待を抱き、自分が最も得をするように(合理的に)行動するとの考えがベースにある。
引き合ってピンと張りつめた蜘蛛の巣を想像する。
蜘蛛の糸は糸そのものが天然素材としては飛び抜けた強度を持っているが、巣の構造も強さに寄与している。
蜘蛛の巣の縦糸(軸となっている部分)は硬くて強い。グルグルと回っている螺旋状の横糸は柔らかくて伸びやすい。
硬さと柔らかさの両方を持ち合わせることで獲物を捕らえた時の衝撃を吸収できる。だから巣が壊れることなく自分より大きな獲物を捕らえることができる。
こう書くと柔らかさが非常に大事なような印象を与えがちかもしれない。
「柳に雪折れなし」という言葉がある。 しなやかな柳の枝は雪の重みで折れることがない。柔軟なもののほうが剛直なものよりも耐える力が強いことをいう。
外力やストレスは真っ向から受け止め立ち向かうのではなく、適度にゆるめてしなやかに受け流した方が良いという例えに用いられることもある。
では蜘蛛の巣もそうなのかと言うと、そうでもないのだ。

蜘蛛の糸の縦糸を切ろうと伸ばしてみる実験を行う。(MITの研究より)
①伸ばした力に比例して糸が伸びる(フックの法則)。
②ある程度伸びると弱い力でも急に伸びやすくなって変形が大きくなる。
③それを超えると引っ張られている縦糸が急に硬くなる。
蜘蛛の巣の特徴は③があること。
①~③、何が違うかと言うと、引っ張られた糸以外に与える影響である。
①はほどほど全体に負荷がかかる。
②は周囲の糸にもかなり負荷がかかる。引っ張られた糸が切れもせず伸びて変形するとずるずるとなし崩しに全体が変形し最終的に大規模な破壊に繋がりやすい。
③はある時点を超えると引っ張られた糸だけが硬くなり、他は②の状態を保つ。負荷が一か所に集中する状態。切れるという状態に至っても他には被害が及ばない。

引っ張られた縦糸の一部分が犠牲になったとしても全体が壊れるわけではないので、蜘蛛はその部分だけを補修すればよいのである。
多くの科学者が惹かれる蜘蛛の糸に特徴的なのは③の部分的に現れる硬さなのだ。


人々が利己的な期待を抱き、自分が最も得をするように(合理的に)行動することによってバランスが取られているという経済はどうだろうか。
自分が最も得をするような合理的な行動。
なるべく高い給料が得られる所で働くという行動もその1つであろう。
自分にとって可能な方法でより高い給料を得るために質より量を選ぶ人(選ばざるを得ない人)もいれば、量よりも質で勝負する人もいる。
同じ物ならば少しでも安い物を買おうとする行動もその1つであろう。
生産者であるなら、少しでも安く作って、少しでも高く売ろうとする。
1つの物で大きな利益を得る人もいれば、数多く売り捌いて利益を得る人もいる。
投資もまた自分が最も得をするような合理的な行動の1つに数えらえる。
投資という言葉は手助け的な意味合いで用いられていることもあるが、決して誰かの成長を願って行っているわけではない、自分が得するために行っているのだ。得をするという目的を達成するための手段である。少なくとも経済学での認識ではそうである。

自分よりも他者を優先する人が多い世界、あるいは全ての人が結果平等であることに心血を注ぐ人が圧倒的になれば、経済学は根底から崩れ去る。
労働に価値があり、各人が自分の利益を最大にしようと経済活動を行えば、最終的に全てにおいてバランスが取れるという考え(見えざる手によって自然に調整される)のイギリス古典派経済学はマルクスの経済学に継承された。マルクス派は批判もしたが受け継ぐことにもなった。
マルクスというと社会主義のイメージが強いであろうと思う。
労働に価値があり各人が自分の利益を最大にしようと経済活動は民主主義だけでなく社会主義にも有効なのだ。どんな社会であっても労働への動機づけとして欠かせないものであるということ。
よって自分よりも他者を優先する人が多い世界、あるいは全ての人が結果平等であるべきという世界は、労働意欲や生産意欲を失い、死さえも厭わなくなるため、人類や地球の発展は死を迎えるしかなくなるであろう。
でも人間の本性からすればそこまでの心配はないかもしれない。(人間の祖であるアダムとイブは働かず飲み食いできたであろう想像主の恵みの楽園を出たわけだから。労働意欲や生殖を含めた生産意欲、好奇心や探究心など人間の本質を表したのがアダムとイブ。苦や痛み、厳しさが存在しても人間の本質はそれを止められない。創世記というメタファーはよく出来ていると思う)

では経済活動における外力とは何だろうか?
一国においては外国、地球においては地球外、そういうことになるだろう。(地球外とは例えば火星人とか!?)



ケインズのマクロ経済学が発表されたのは第二次世界大戦前のナチスドイツ好調期。
ロバート・ルーカスがマクロだけではどうにもならないとケインズ経済学を批判したのは1970年代。
1971年ニクソンショックによって世界経済が変動相場制に移行した時期である。
政府がどのような財政・金融政策を採っても、国民が先に効果を期待(予想)して行動してしまうので、政府が目論んだ効果は出ず浪費に終わると主張した。
不確実な世界を見る時、人は利己的な期待を抱き、自分が最も得をするように(合理的に)行動すると考えるものである

上に投資もまた自分が最も得をするような合理的な行動の1つであると書いた。
ケインズは1936年に刊行した『雇用・利子および貨幣の一般理論』の中で資本の限界効率なる概念について触れ、すでに「期待」について書いている。

緻密で難解な本との評価があったが確かに分かりにくい。訳文特有の分かり難さを多々感じるが英文でもそうなんだろうか。
第12章 長期期待の状態
原文English:Chapter 12. The State of Long-Term Expectation

前の章で、投資の規模は、金利と、現時点でのいろいろな規模の当期投資に対応した資本の限界効率関係スケジュールの関係で決まることを見ました。また資本の限界効率は、資本的資産の供給価格と、その見込み収益の関係で決まります。

見込み収益の期待の元となる検討事項は、一部は大なり小なり確実にわかっていると想定できる既存の事実に左右され、一部は様々な水準の確信を持って予測するしかできない、将来の出来事に左右されます。

後者をカバーする心理的な予想を、長期期待の状態と呼んでまとめましょう——これは短期の期待とはちがうものです。短期の期待とは、生産者が既存工場で今日生産を開始したときに、完成した製品がいくらで売れるかを推定する根拠となる期待です。


資本の限界効率
100万円投資すれば、5万円の利益(企業の利潤)が出ると予測(期待)する。利益率(利潤率は5%)
1000万円投資すれば、100万円の利益(企業の利潤)が出ると予測(期待)する。利益率(利潤率は10%)
仮に現在の金利が7%だったしたら、投資しないで預金したほうが確実に儲かる。だから100万円の投資は行わない。
投資は自分の余剰資金で行うのが鉄則であるが、自分の資金ではなくて誰からからお金を借りて投資する場合にも金利が7%で、儲けを5%と予測するならば投資は行わない。
得をすることが目的の投資には金利との関係で限界率が存在する。
金利7%の時に、1000万円投資すれば100万円の利益(企業の利潤)が出ると予測(期待)したならば、利益のほうが多い計算となるので投資が行われるかもしれない。
もっとも予測(期待)はあくまでも予測(期待)に過ぎないので、どんな場合であっても儲けが100%保証されているわけではない。


 期待を形成するとき、とても不確実なことをあまり重視するのは愚かです。ですから、多少は自信が持てそうな事実に期待が流されるのは、無理からぬことです。漠然としたわずかな知識しかない事項のほうがずっと結果に関連が深く、自信を持てる部分はあまり関連していない場合ですらそうです。このため長期期待の形成にあたっては、現状についての事実が、ある意味で分不相応なほどの重みをもって入り込んできます。一般的な手法は、現状を見てそれをそのまま将来にのばすことで、それを補正するのは、変化を期待すべき多少なりとも明確な理由がある場合に限ります。

 ですから人の決断を左右する長期期待の状態は、わかる範囲で最も見込みの高い予測だけに基づくものではありません。その予測にどれだけ自信があるか——最高の予測がまるでまちがっている可能性をどれほど高く見積もるかにも左右されます。大きな変化が予想されても、そうした変化が実際にどんな形のものか非常に不確実なら、自信は弱いものになります。

 一般に言う自信の状態は、実務家がいつも最大限の、もっとも神経質な関心を常に払うものです。でも経済学者たちはこれを慎重に分析しておらず、おおむねそれを一般論で語ってすませてきました
。特に、それが経済問題に対して持つ意味合いが、資本の限界効率に対する重要な影響を通じてもたらされる、ということは明らかにされてきませんでした。


ケインズの述べていることは経済に限らず、学者や研究者らと実務家の温度差(違い)にも通じるところがある。
もっとも昨今の学者や研究者は「実際にどんな形のものであるか非常に不確実な自信の弱いもの」に対しても自信があるように振る舞っているように感じられるけれども。


突出した事実として、人が見込み収益を推定するときには、きわめてあぶなっかしい知識を根拠にするしかない、ということがあります。何年か先に投資の収益を律する要因についての人々の知識は、通常は実にわずかで、しばしば無視していいほどのものでしかありません。正直言って、鉄道、銅鉱山、繊維工場、特許薬の事業権、大西洋横断客船、ロンドンシティの建物の、十年先の収益を予測するための知識ベースは、実に少ないし時にはゼロです。いや5年先ですら同様です。実は、本気でそんな推計をしようとする連中はあまりに少数派で、その行動が市場を左右することはありません

人間は、未知である未来、不確実な世界を予測する知識など持っていないという。
未来が遠くなればなるほどその知識はゼロに近づく。

昔の事業は、実際にそれを実施する人物や、その友人仲間などが主に所有していました。事業こそ我が命と張り切るような、楽観的な気質と建設的な衝動を持つ個人が十分に供給されるかどうかで、その当時の投資は左右されたものです。そういう人々は、見込み収益の厳密な計算なんかまじめに見ません。そうした事業は一部は宝くじのようなものでしたが、最終的な結果は、マネージャーたちの能力や人柄が、平均より上か下かにもかなり左右されてきました。でも投資額から見た平均的な結果が、その時点の金利よりも高いか等しいか低かったかは、事後的にすらだれにもわかりません。でも、天然資源採掘や独占事業を除けば、たぶん各種投資の平均実績は、進歩と繁栄の時代にあってすら、それを推し進めた希望には満たないものだったことは考えられます。ビジネスマンは、運と実力の入り交じったゲームをしており、その平均結果は、そのゲームに参加するプレーヤーたちにはわからないのです。人間の天性として、賭けに魅力を感じず、工場や鉄道や鉱山や農場づくりに(利潤以外の)満足感をおぼえないのであれば、冷たい計算の結果だけでは、あまり投資は起こらないかもしれません。

かつての投資や事業を支えてきたものは、真面目な計算や利益追求(得をすること)ばかりではなかったとケインズは指摘する。

昔ながらの民間事業に投資しようという判断は、社会全体にとってはもとより、その個人にとっても、ほぼ後戻りのできない決断でした。今日のように所有と経営の分離が一般化してしまい、組織化された投資市場が発達すると、それは時に投資を促進しますが、ときにはシステムの不安定性を大いに高めます。証券市場がなければ、いったん実施した投資をしょっちゅう再評価しても意味はありません。でも証券取引所は、すでに実施済みの多くの投資を毎日のように再評価します。

証券取引所による日々の再評価は、主に古い投資の個人間取引を支援するために行われるものですが、どうしても当期の新規投資にも決定的な影響を与えてしまいます。なぜなら、似たような既存事業が買えるのに、それより高い費用で新規事業を立ち上げるのは無意味だからです。一方で、もし株式市場に上場してすぐに利益を得られるならば、新規プロジェクトに想像を絶するような金額をつぎ込むだけの誘因も生まれます。したがって、ある種の投資は専門事業者によるまともな期待に基づくのではなく、株価にあらわれた、証券取引所で取引をする連中の平均的な期待に左右されることになります


大金を投資して新規事業や新会社を立ち上げ、それが成長して軌道に乗るのを待つくらいなら、同じ資金で既存事業を買ったほうが手っ取り早い。
これはすでにある大企業に有利な考えとなる。M&Aなどが流行る原因でもある。
一方の株式市場に上場してすぐに利益を得られるならば新規プロジェクトに想像を絶するような金額をつぎ込むだけの誘因も生まれるというのは、フェイスブック上場(規株式公開)なんかもその一例であったであろう。
何故こんなことが可能なのかと言えば、日々刻々と証券取引所が企業(すでに行われた投資)を再評価し株価を付けているからこそ。
不確実であまりあてにならない、あるいは真面目な計算でもよいけれども、そうした個々の期待(予測)で行動するのではなくて、株価という平均的な、あるいは誰かが意図的に操作した評価をもとに行動するのである。
自ら動いているようでいて実は動かされているのだ。それを外力と言ってもよいかもしれない。








by yumimi61 | 2017-12-29 14:09