2018年 02月 19日
日本国憲法の秘密-674- (外貨準備と貿易について)
ベルギーのランベール銀行の設立者ランベール。

父:サミュエル・ランベール(1806-1875)
フランス生まれ。銀行家で画家。1835年にミュージシャンと結婚。その妻の母の2度目の結婚相手がラザール・リヒテンバーガーだったので、サミュエルにとって義理の父となる。

ラザール・リヒテンバーガー(1792-1892)は、ドイツ生まれのユダヤ人でベルギーで銀行家をしていた。
ベルギーの初代国王レオポルド1世に非常に近い人物。
ベルギー独立後初期の1832年からブリュッセルでロスチャイルド・パリ家の代理人を務めていた。
サミュエル・ランベールはその代理店のアントワープ支部長を務めた。
1843年に2人共同で会社名を“Lambert–Richtenberger, agent Rothschild”とした。
1853年にリッテンベルガー亡くなると、サミュエル・ランバートが会社を引き継ぎ、“Lambert, agent Rothschild”と改めた。

息子:レオン・ランベール(1851-1919)
父サミュエルが1875年に亡くなった後はレオンが代理店を引き継いだ。
レオンは1882年にロスチャイルド・パリ家創始者(5人の息子の5男)の孫娘と結婚。
婚姻によってロスチャイルド家とランベール家の結びつきが一層強固になる。(ロスチャイルド家のベルギー分家とも呼ばれるくらいに)
ランベール銀行はロスチャイルド系銀行。
前記事に「ベルギー独立時にベルギーの貴族ランベール家によって設立されたのがランベール銀行(Banque Lambert)」と書いたが、ランベール家はレオン・ランベールが1896年にレオポルト2世国王から男爵の称号を得て晴れて貴族となっており、銀行設立時より貴族だったわけではない。
いずれにせよ次のような繋がりが認められる。

イギリス王家ーベルギー王家ーランベール家ーロスチャイルド家(パリ家)
                    ↓
                   日本銀行(1882年設立)



今度は前記事にも登場したシェルバーン家に注目する。
貴族制度はややこしく(国を跨ぐと余計に)、昔からの事なので不明な点もなくはなく、さらに貴族を自称する人もいたので、これまた非常に分かりにくい部分だと思う。

アイルランド貴族フィッツモーリス家(ケリー男爵)←シェルバーン家のルーツはここ!
フィッツモーリス家の出自についてはよく分かっていないが、11世紀のノルマン人(ゲルマン人)騎士ではないかと言われている。男爵位創設の時期も定かではないが、アイルランド貴族の中では2,3を争う古さで、12,13世紀頃から存在していたと見られている。
21代目ケリー男爵→ケリー伯爵(1723年)

トマス・フィッツモーリス (初代ケリー伯爵)
Thomas FitzMaurice, 1st Earl of Kerry, 21st Baron Kerry and Lixnaw
1692~1697年の間の3年、アイルランドの庶民院議員を務めた。
1693年、経済学者ウィリアム・ペティ卿の娘であるアン・ペティと結婚。
1697年、ケリー男爵20代目である父が亡くなり男爵位を継承。
1711年、枢密顧問官となる。
1723年、ジョージ1世にて伯爵の爵位を授与される。(爵位は2ランクアップ)

経済学者ウィリアム・ペティ卿 Sir William Petty
イギリスの医師、測量家、経済学者。労働価値説を初めて唱え、また、政治算術派の先駆となったことから、古典派経済学と統計学の始祖ともいわれる。ハンプシャー州生まれ。オックスフォード大学の解剖学教授やアイルランドの軍医総監などをつとめた。子孫はホイッグ党 – 自由党の名門ランズダウン侯爵家として現在も続いている。

織元の第3子として生まれる。(上2人は早世したので事実上の長男)
14歳のときイギリス商船の水夫となったが、10ヶ月間の航海の後、フランスのカーン市に置き去りにされた。
カーンにあるイエズス会のカレッジで学芸(リベラル・アーツ)を学び、1640年頃にイギリスに帰国
。1643年にオランダへ渡航するまでイギリス国王の海軍で勤務した。
1644年にライデン大学の医学部に入学。ライデン大学でフランシス・シルヴィウス教授から、解剖学と医化学を学んだと推測される。アムステルダム大学のジョン・ペル教授に代数学を学ぶと共に、ペルの助手として働き、当時ロンゴモンタヌスとの間でペルが論争をしていた円積法の問題について、ペルの駁論をルネ・デカルトらヨーロッパ各地の学者に送った。1645年11月頃にオランダを離れ、フランスのパリに移る。1646年、イギリスのロンドンに移る。

1652年、アイルランド派遣軍の軍医総監に任命され、またアイルランド総督チャールズ・フリートウッド将軍の侍医となり、アイルランドに渡る。
さらにアイルランド総督ヘンリー・クロムウェルの秘書となり、クロムウェル家の庇護の下、イギリスのウエスト・ルー選出の下院議員となった。しかし、オリバー・クロムウェル死後の共和国末期にアイルランドでの不正行為を告発され、すべての公職から追放されロンドンに戻った。
チャールズ2世の庇護を受け、1661年4月ナイトに叙任。 


ジョージ1世(在位:1714-1727) George I
イギリス王家がドイツのハノーヴァー出身となった初代。現イギリス王室はこの流れを汲んでいる。


長男 ウィリアム・フィッツモーリス(1694-1747年)→第2代ケリー伯爵位を継承
次男 ジョン・フィッツモーリス (1706-1761年)→1751年にペティに改姓、初代シェルバーン伯爵に叙される

ジョン・フィッツモーリス(初代シェルバーン伯爵)の息子ウィリアム・ペティ(2代目シェルバーン伯爵)はイギリスの首相となった(在職:1782-1783)。
ウィリアム・ペティという名は父方の祖母の父にあたる経済学者ウィリアム・ペティと同姓同名。
Sir William Petty
William Petty, 1st Marquess of Lansdowne and 2nd Earl of Shelburne

首相退任後の1784年にランズダウン侯爵に叙された。(侯爵は伯爵の1つ上のランク)
ケリー伯爵とシェルバーン伯爵はアイルランド貴族であったが、ランズダウン侯爵はグレートブリテン貴族となる。
ウィリアム・ペティ(2代目シェルバーン伯爵)の子孫はフィッツモーリス家の分家筋ということになるが、本家に後継ぎ男子がいなかったため1818年より本家となり、ペティ=フィッツモーリス家と改姓してケリー伯爵位も継承している。

現在、ランズダウン侯爵は9代目(チャールズ・ペティ=フィッツモーリス)となっている。
イギリスでは伯爵以上の爵位には従属爵位という複数の爵位が付いている。最高(メイン)の爵位を相続する以前の子供は2番目の爵位名で呼ばれている。
それから爵位には領地持ちと持たないものがある。
結婚相手、相続する子の有る無しで爵位や領地(昔なら国そのもの)は大きく変わる可能性がある。
=現ランズダウン侯爵の全保有爵位=
・サマセット州における第9代ランズダウン侯爵 (9thMarquess of Lansdowne, in the County of Somerset) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
・第10代ケリー伯爵 (10th Earl of Kerry) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位。法定推定相続人の儀礼称号)
・ウェックスフォード州における第10代シェルバーン伯爵 (10th Earl of Shelburne, in the County of Wexford) (1753年6月26日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
・バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第9代ウィコム伯爵 (9th Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族)
・第10代クランモーリス子爵 (10th Viscount Clanmaurice) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位。法定推定相続人の法定推定相続人の儀礼称号)
・第10代フィッツモーリス子爵 (10th Viscount Fitzmaurice) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
・第9代キャルネ=キャルストン子爵 (9th Viscount Calne and Calston) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
・第30代ケリー=リックナウ男爵 (30th Baron of Kerry and Lixnaw) (1223年頃創設アイルランド貴族爵位)
・第10代ダンケロン男爵 (10th Baron Dunkeron) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
・バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第10代ウィコム男爵 (10th Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1760年5月17日の勅許状によるグレートブリテン貴族)









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by yumimi61 | 2018-02-19 12:49


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