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日本国憲法の秘密-702- (外貨準備と貿易について)

前記事に、人工放射性元素の一番最初の発見者、原爆には重水が不可欠であるという理論提唱者、ドイツが重水を仕入れていたという情報入手者、これらは全てフランスのマリ・キュリー長女の夫Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)である、と書いたが実は彼は原爆に繋がるもう1つ重要な報告をしている。

1939年パリのコレージュ・ド・フランスの科学者のグループ、フレデリック・ジョリオ= キュリー、ハンス・フォン・ハルバン、レフ・コワルスキー、フランシス・ペランはウランの原子核で発生する核分裂を発表し、2つか3つの中性子が必要であることを示した。
この重要な発見は自然と維持される連鎖反応が可能であると言うことを示していた。これは即座に多数の科学者に、非常に強力な爆弾「原子爆弾」が理論的に作成可能であることを想像させた。しかし、ほとんどの科学者はその様な原理的な爆弾は不可能であると考えていた。
(⇒赤字部分参照)


1938年、化学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの原子核に中性子を衝突させていたら副産物としてバリウムが発見された。
その現象を説明出来なかったのである人物に手紙を書いて送った。
 ↓
ある人物とはリーゼ・マイトナー(オーストリア)という物理学者。女性である。マリ・キュリーより11歳年下。放射線や核の研究をしていたがこの方は長生きしており89歳没。
手紙が来た時にそこにたまたま居合わせたのがオットー・フリッシュ(オーストリア)。マイトナーの甥で物理学者。
手紙をもらったマイトナーがそれは「中性子による核分裂」で説明が付くと回答。
 ↓
1939年1月、回答を受けたオットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの核分裂についてドイツで論文発表。
同月、オットー・フリッシュの上司であるニールス・ボア(デンマーク)がアメリカで開催された物理学会においても「核分裂」を発表し、物理学会は大興奮、以後核分裂に関する論文が急増していく。
翌2月には2人の論文がイギリスのネイチャー誌にも掲載された。
数学者スタニスワフ・ウラム(ポーランド)は核分裂が連鎖反応を引き起こし得ることを数学的に計算してみせた。
 ↓
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、戦争勃発。
同じ日、ニールス・ボーア(デンマーク)とジョン・ホイーラー(アメリカ)が「原子核分裂の予想(ウラン同位元素235が分裂しやすい)」論文を発表。
それを言い換えれば、「ウランは核分裂などしないではないか」という声があったということに他ならない。
ウランは何でもかんでも分裂するわけではなく、分裂しやすい同位体があるとして核分裂連鎖反応、引いては原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。(希少ウランしか分裂しないとなれば誰もが再現できずとも筋は通る。しかしその理論は産業的には首を絞めることになった)
 ↓
1939年、パリのチームがウラン原子核の分裂は絶え間なく多くの中性子を衝突させなくても、2つ3つの中性子があれば分裂すると発表。
それはつまり分裂時に放出される中性子だけで連鎖反応が可能であるという報告である。
但し連鎖反応を維持するためには必要最低限のウラン量があり(臨界量)、また自然に放出された中性子は高速なので減速材が必要であると主張した。



当時は多くの科学者が実現不可能と否定的見解を持っていたが、それでも結局フランスチームの理論をベースにして原爆は作られていくことになる。

だがマンハッタン計画はアメリカの計画であり、後にイギリスとカナダがアメリカと協定を結び、両国の科学者もアメリカに渡って計画に加わった。
フランス科学者の理論をベースにして開発が進んでいるのに、そこにフランスは含まれていないのである。無茶というか無駄というか何というか。
アメリカ政府公認のマンハッタン計画がスタートする前、あるいはケベック協定が結ばれる前に独自にアメリカに渡った場合はよいが、その後にアメリカのマンハッタン計画に参加する科学者は、アメリカかイギリスかカナダの市民権が必要だった。
ユダヤ人科学者や東欧の科学者が国を移動することにはそう抵抗がないかもしれないが、フランスの科学者は若干意識が違う。
特にフランスはキュリー夫妻の放射線研究の地である。ある意味、聖地である。そのプライドみたいなものもあるだろう。
ましてやマリ・キュリー長女夫妻がフランスを捨ててイギリスやアメリカに行くことなど出来るわけがない。


アメリカは核開発への参加をしぶったイギリスに対する疑心暗鬼の念を捨てられずケベック協定を結ぶに至るが、実はそのケベック協定にも大きな危機があった。
1944年、イギリスがハンス・フォン・ハルバンとの間で秘密協定を結んでいることをアメリカ合衆国に明らかにした時である。この秘密協定は、フレデリック・ジョリオット=キュリーとフランス大学のチームによりまとめられた原子炉に関連する多数の特許を無償で使用する代わり核関連の情報をフランスとの間で共有すると言う内容であった。
これを発見し、アメリカ合衆国はこれはケベック協定の内容、具体的には、第三者との情報の共有に関する章、に反すると反対した。チャーチルの主張により、イギリスはアメリカの要求を満たすようにフランスとの協定を破棄することにした。

(ハンス・フォン・ハルバンはパリチームの科学者の1人である)

しかしながら、フランスの参加していないマンハッタン計画に独占的にウランを供給したのは、マリ・キュリーが見つけたラジウムの生産競争でカナダに負けたロスチャイルド・パリ家系のフランス企業である。
フランスにもそれなりにメリットがあったことになる。
上手くバランスが取れているというか何というか。


フランスの科学者で唯一アメリカのマンハッタン計画に参加した男がいた。
Bertrand Goldschmidt(ベルトラン・ゴールドシュミット)

ゴールドシュミットという姓はドイツ出身の著名な金融一族と同じであるが親戚には数えられてはいない。
ベルトラン・ゴールドシュミットは1912年生まれ。
父親はベルギーのユダヤ人で、母親がフランス人で、パリで誕生したフランス人である。
1933年にマリ・キュリーによってラジウム研究所に採用された。戦時中の1940年(28歳の時)に博士号を取得している。

1939年9月にドイツがポーランドに侵攻し勃発した戦争。
1940年5月にドイツはオランダ・ベルギー・ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻したため、フランスとイギリスは主力の軍をそちらに進出させた。
フランスの防衛線が手薄になったところでドイツはフランスにも侵攻。6月にとうとうドイツ軍はパリに入った。
パリは無防備都市を宣言し(軍事力が存在していない地域であると宣言し、敵による軍事作戦時の損害を避ける目的で行われる)、内閣は総辞職し和平派が政府の主導権を握ってドイツに降伏した。ヴィシーに首都を置いたことからヴィシー政権と呼ばれた。
それに異を唱え、イギリスに亡命し、「自由フランス」を結成し、イギリスからフランス国民にドイツ抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗を呼びかけたのがシャルル・ド・ゴール(前国防次官)。

ベルトラン・ゴールドシュミットは、1941年5月にアメリカに渡り、そこでシャルル・ド・ゴールの自由フランス軍に加わった。
マンハッタン計画が始まる前のことである。
ベルトラン・ゴールドシュミットをアメリカに誘ったのは、1938年にノーベル物理学賞を受賞したエンリコ・フェルミ(イタリア)。
授賞式の足でアメリカに移住し、コロンビア大学を研究の場とした人物。
ベルトラン・ゴールドシュミットはプルトニウムの研究をしていたグレン・シーボーグ(アメリカ人)のチームに入った。
ウランの欠点を補いプルトニウム理論を確立したのはイギリスとスイスの科学者だが、それを実際に作って見せたのが(ウランからプルトニウムを抽出)グレン・シーボーグで1951年ノーベル化学賞も受賞している。
原子爆弾材料のプルトニウム239生成用原子炉を設計するための実験炉として開発されたのがシカゴ・パイル1号(Chicago Pile 1)。

1942年に発足したマンハッタン計画に組み込まれ、研究の場をシカゴ大学に移し本格的な研究がスタートしたのである。
1942年5月に原子炉の設計が開始され、同年11月にはシカゴ大学のフットボール競技場スタッグ・フィールド(Stagg Field)の観客席下にあったスカッシュ・コートに極秘裏に建設が開始された。
1942年12月2日 8時30分より実験が始まり、同日15時25分(シカゴ時間)、科学者の一人ジョージ・ウェイル(George Weil)の操作により制御棒が引き抜かれ、原子炉は臨界に達した。この様子を見守っていた科学者のバーナード・フェルド(Bernard T. Feld)は「制御棒を引き抜くとルルルルルルルル…と音がして計器の針が振り切れてしまった」と回想している。


この成功をもとに長崎の原爆に使用されたというプルトニウムは作られていくことになる。
しかしベルトラン・ゴールドシュミットは爆弾が完成する最後の最後までマンハッタン計画のグレン・シーボーグ(アメリカ人)チームにいたわけではなく、1944年にはカナダに移って原子炉の研究している。こちらには他にもフランス人科学者がいた。
マンハッタン計画に最後まで携わってしまえば、戦後にフランスに戻った時にすぐに作ってみせる必要があるだろう。
「作り方がよく分からない」では格好がつかない。
ウラン資源で儲けるためには戦後にウランが商業利用される必要があるのだ。
マンハッタン計画から抜けたことは妥当だったのではないか。
第二次世界大戦中のベルトラン・ゴールドシュミットは20代後半から30代前半というポスドク(postdoc)くらいの若い研究者だったので途中で移動することに対しての不自然さもない。


マンハッタン計画に参加した唯一のフランス人科学者ベルトラン・ゴールドシュミットの妻はNaomi Rothschild(ナオミ・ロスチャイルド)だった。
Naomi(ナオミ)という名前は日本でも馴染みある名だが(私の妹もナオミ、奈の付くナオミ)、外国人のナオミが日本人の血を引くということではない。
外国人が用いているNaomiは「旧約聖書」のルツ記に登場する女性の名前で、ナオミとも発音しないらしい。
Naomi Rothschild(ナオミ・ロスチャイルド)は、ロスチャイルド・ロンドン家の当主・第3代ロスチャイルド男爵 (イギリスから授かった男爵)ヴィクターの又従妹にあたる。


ベルトラン・ゴールドシュミットらはカナダの最初の原子炉の開発に貢献し、終戦とともにカナダの研究を終えて、1946年にフランスに戻った。
彼はフランス原子力委員会創設者の1人であり、フランスの化学部門を1960年まで率いた。
Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)が1947年にフランス初の原子炉「ゾエ」の開発に成功すると、1949年11月にその原子炉の使用済み燃料から数ミリグラムのプルトニウム抽出に成功したと発表。
1958年から1980年まで国際原子力機関(IAEA)理事会のフランス代表であった。
1979年スリーマイル島の事故後には国際原子力機関(IAEA)の議長となり、1986年ソ連のチェルノブイリ事故も経験するが、「事故はサッカー場の騒動よりも軽微なものだ」と発言したらしい。




by yumimi61 | 2018-03-30 12:12