by and by yumimi61.exblog.jp

やがてそこに。


by yumimi61
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー

都合の悪い人は殺せば良いという発想、都合の良いように創作編集するということ。

108.pngオウム真理教の死刑囚数名の死刑が執行されたということで、やはりそれなりに思うことはある。
事件やオウム真理教周りは実に不可解なことが多く、そのことについては過去に何度も記事にしてきた。
そこで今回「地下鉄サリン事件」「松本サリン事件」「オウム真理教」というカテゴリを作りました。


HUFFPOST
森達也 映画監督、作家
BLOG
地下鉄サリン事件がテロだったと誰が断言できるのか?
本来なら精神に異常をきたした人の死刑執行はできない。麻原の裁判をやり直すべきだ。
  ー2013年05月06日 14時08分 JST 

「テロ」の定義は、「直接的な暴力行為を働きながら、その脅威によって特定の政治目的を達成しようとする行為」だ。暴力行為や破壊行為だけではテロの条件を満たさない。だから秋葉原の無差別殺傷事件や付属池田小事件などを、テロと呼ぶ人はいない。

ところがボストンの爆破事件が起きたとき、犯行声明もなければ犯人も特定できていない状況で(つまり動機が不明なまま)、新聞やテレビなど日本のマスメディアは、「テロ」という言葉を当たり前のように使っていた。

つまり「テロ」がインフレーションを起こしている。ワシントンポストやニューヨークタイムスなどアメリカの主要紙の見出しについては、少なくとも日本の新聞よりは抑制的だとの印象を受けた。injureやkillやbombなどの言葉は散見するけれど、terrorismというワードは見つからない。犯行翌日にオバマ大統領はテロとして調査を進めているとスピーチしたけれど、この段階ではテロと断定はしていない。ただし最も影響力のあるテレビについては、日本のメディアと同じように、直後から「テロ」という言葉を使っていたようだ。


森氏はテロがインフレを起こしているという表現しているが、私は日本では何かあった時にどうしてテロだと疑わないのだろうかと感じることが多い。テロのデフレに違和感を感じるとでも言えばよいだろうか。
外国で何か事件があると日本人を含めて「テロか?」と疑ってかかる。
だが同じような事件が起きても、日本ではテロてのテの字も出てこない。
犯人の「自己責任」で片付けられてしまう。
ごくたまに変わり者が生じるくらいで、日本は平和で素晴らしい国だと思っているらしい
激しい学生運動の時代があったにもかかららず。連合赤軍によって凄惨な事件が起こされたにもかかわらず。日本赤軍は外国でも繰り返しテロを起こしたというのに。しかもその犯人達を超法規的措置で釈放したにも関わらず。
思いきりテロに身近な国の国民が世界で一番テロが遠いと思っているところが不思議極まりない。



いずれにせよ、取り調べはこれから始まる。どれほどに政治的な背景があったのか、実際のところはまだわからない。でも一つだけ確かなこと。もしもこれがテロならば、社会の不安と恐怖が高まったという意味では、その目的は半ば達成されている。不安と恐怖を必要以上に煽るメディアによって。

この傾向は、日本では1995年に発生した地下鉄サリン事件以降、そしてアメリカでは2001年の同時多発テロ以降、急激に加速した。二つの事件に共通することは、不特定多数が標的にされたことにより、自分や自分の家族もその場にいたら殺害されていたかもしれないとの被害者意識が、国民レベルで一気に共有されたことだ。不安と恐怖を抱いた社会は集団化を進め、自分たちを指揮する強いリーダーを求め、連帯を高めるために共同体内部の異物を探してこれを排除し、さらに共同体外部に共通の敵を探そうとする。もしも適当な敵が見つからなければ、無理やりにでも作り上げる。


不安と恐怖を必要以上に煽るメディアによって、集団が正義を振りかざす社会になった。それは確かに至る所で目にする。
だがメディアがどんなに非常事態を煽っても、今回のような記録的豪雨などへの備えは後手後手に回る。
今までにない被害が出る可能性があると予め言ってるのに「今までにこんなことはなかった」と振り返る。
あちこちで被害はあるけれど、「ここは大丈夫」「まさか自分のところには来ないだろう」と思ってしまうのだ。
体験していないことを自分の身に置き換えるということは、それほど難しいことである。体験していても、例えば育児など、ある程度時間が経過してしまうと、辛かったことや困ったことは薄れて、わりと良い思い出しか残らないということもよくある。
だから私は何故人々が自分に全く関係のないことに不安や恐怖を感じ、怒り狂うのか理解に苦しむ。

ひとつには数字の盲点、映像の盲点があるだろう。
雨で100人の人間が死んでしまうとしたら、それは酷い事態である。100人はとても多く感じる。映像はむごたらしい非日常だけを映し出す。
でも雨が降った地域の人口からすれば、亡くなった人は数%にも満たない。限りなくゼロに近いパーセンテージとなるだろう。
「ここは大丈夫」「まさか自分のところには来ないだろう」と人々が思ったことの大半は結果として間違いなかったことになってしまうのだ。
それを当てはめると、正義を振りかざしている人間を近年至るところで目にし、とても多くいるように感じてしまうが、実はそんなにいないということも考えられる。
森氏の文章に対して散々なコメントが並んでいるが、それが大衆の意見を代表するとは限らない。極めて偏った意見であることの可能性のほうが大きい。

子供を持つ多くの親が真に不安になるのは、被害者になることよりもむしろ加害者側になることなのではないかという気さえする。
被害者になることのほうが確率が低いであろうとどこかで感じ取っているからだ。


私はロックバンドのライブが怖い。何でかと言うと、観客が手を上に挙げて、腕振りっていうのかなあ、申し合わせたように同じ動きをするから。
気持ちがぐわーっと盛り上がったとして、どうしてみんな同じ動きになるの?無意識に同じ動きになるとしたらかなり怖い。
今はロックバンドに限らないかもしれない。全員起立するとか、手を横に振るとか、気持ち悪いくらいに動きが同じで、これは宗教イベントか!と思ってしまう。
というか、アーティスト自体が煽っていることもある。腕の振り方とか指南したり、一緒に歌わせたりして。
AKBの歌に乗せて、あっちでもこっちでも、あの人もこの人も同じ振付で踊ることも怖い。
なんとなくオウム真理教を彷彿するものがある。
あと生理的に受け付けないのが、アーティストがライブ地や会場名を叫んで盛り上げようする点。
そりゃあ誰だって帰属意識というものは多かれ少なかれ持っているだろう。
だけどライブに行って何で地名だったり会場に帰属しなければならないんだろうか。
そこの出身やそこに居住しているとも限らないのに。
とにかく私は人々が一斉に疑いも無く同じ動きをするのが怖いのだ。
そう考えると私は逃げ遅れるタイプかもしれない。あるいは別に逃げる必要なかったのに~と言われるタイプ。
あまり大きな声では言えないが(でもブログのどこかに書いたはずだが)、小学1年生の完成度の高い合唱すら怖い気がしてしまったくらい。(正確に言うとそれに感動したという親御さんがとても多かったことを怖いと感じてしまった。。だってまだ1年生なんだからそんなに立派に出来なくてもよいと思うんだけれど)
強制でないとするならば、これも一種の洗脳ではないのか、そう思う場面に出くわすことは日常に於いても結構ある。
サッカーのW杯でラグビーのW杯で、オリンピックで、それを観戦したり視聴したり応援しなければまるで非国民のような扱いも正直怖い。
みんないつからそんなにサッカーやラグビーが好きになったの?
どうして夜中にテレビ観ることを当たり前のように語っているの?昼間働いている人は夜は寝た方が良いと思う。

ひとつ何か間違えばオウム真理教の信者になったっておかしくない、ひとつ間違えば統一教会に入信して合同結婚式に参加してもおかしくはない、ひとつ間違えば、いや間違わなくても兵士となって人を殺したり特攻したりするかもしれない。
ごくたまに生じる変わり者だけでなく、集団と同じように行動できる優等生が、集団に埋没してしまうような普通の人が、ある日突然加害者になっていることがあり得るということである。
自分が子供の時にはあまり感じないかもしれないが、大人になって親になった時に、その漠然とした掴みどころのない不安がじわじわと押し寄せてくるということはないだろうか。


HUFFPOST 地下鉄サリン事件から20年 緊迫の現場(画像集)ー2015年3月20日 より

e0126350_12310327.jpg

防護服にマスク、黒手袋で地下鉄千代田線の霞ケ関駅構内に入っていく自衛隊員と消防庁化学中隊。
村上春樹氏の『アンダーグラウンド』の海外版の表紙に使われている写真に写っている駅員だか警察官の手が黒いのだが、駅員も警察官も通常は白い手袋を着用する。
黒い手袋は特別な防護手袋のようだ。


e0126350_12311989.jpg

出てきた時はマスクなしの手袋もなし。それならばいっそのこと服も着替えたほうが良かったのではないでしょうか。


e0126350_12313154.jpg
警視庁科学捜査研究所の職員。通称「科捜研」。
半袖に白衣、マスクなしで素手という緊張感がほとんどない軽装。


e0126350_12313936.jpg

気のせいか笑顔も。


e0126350_12320450.jpg

この写真でも白衣の方は気持ち笑顔のような。スーツ姿の方も科捜研の職員でしょうか。やはり素手。


e0126350_12314675.jpg

地下鉄千代田線の霞ケ関駅の入り口付近で毒物残留量を調べているという東京都職員だそう。
どこの残留量を調べたいのか調べているのか中途半端感は否めない。
毒物が残留しているかもと疑っている割には下を向いて顔を突き出し、マスクもなしに素手で臨んでいる。
第一、報道陣だか野次馬だかも周囲にいて、構内から上がってくる場所の周囲の立ち入りを規制しているふうもない。


写真は全て地下鉄千代田線の霞ケ関駅。
霞ヶ関は官公庁の街である。
オウム真理教は強制捜査を妨害するために警察庁のある霞ヶ関を狙ったと言われることもあるが、地下鉄を無差別に狙ったところで警察を壊滅できるわけはなく、そんなことをしても何の意味もない。
千代田線での死者は2名。霞ヶ関駅でサリンを片付けたという駅員2名がなくなったからサリンの象徴にしたいのか、官公庁の象徴なのか知らぬが、毎年3月20日になると霞ヶ関駅で慰霊式が報道される。
だけど死者を含めて被害者を一番出したのは日比谷線である。
いっそのこと聖路加国際病院で慰霊式やったらいいのに。(嫌味です)
時事通信社の写真が全て霞ヶ関駅というのもなんとも。


テレビで『科捜研の女』って放送しているじゃないですか。
ドラマとしては嫌いではないけれども、どう考えても科捜研が出しゃばり過ぎ。
鑑識官はいないのか?という感じである。
科捜研は現場や事件に囚われてはいけない。余計な情報に引っ張られず淡々と科学的事実だけを報告するのが仕事なはず。
現場を見たり、事件の概要や詳細を知ってしまうと、先入観が入り、自分や捜査陣の考えに沿うような物を探して採取してしまったり、そのような結果を出してしまいがちだからである。
あんなにちょくちょく現場に出掛けたりしないと思うのだが。

大河ドラマなどの歴史物、史実や現実に起こった事件を扱うドラマ、現実に存在する職業などを扱うドラマ、そういうものは幾らフィクションだと制作側が言っても、視聴者がドラマなんだと分かって観ているつもりでいても、完全に歴史や現実とは切り離せないものである。
そういう現実があると思い込んでしまうのだ。
洗脳の一種である。


..... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。(yumimi61)

[PR]
by yumimi61 | 2018-07-09 13:27 | オウム真理教