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人工

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写真の山は武尊山、赤い橋は関越自動車道。
この近辺一体はかつて沼田ダム建設予定があった。日本最大、それもとてつもなく大きな人造湖(ダム)の建設計画である。
もしダムが建設されていたならば私の実家も水没する地域であった。
沼田高校や沼田女子高校も水没地域であった。


沼田ダムは1952年(昭和27年)に第3次吉田内閣によって閣議決定され、建設省関東地方建設局による正式な事業となった。

必要な事業費を現在の貨幣価値に直すと順調に事業が進捗したと仮定しても約9,777億円と実に1兆円近くの巨費となり、日本最大級のプロジェクトとなる。

地図で水没予定地を見た場合北は赤谷川合流点を越えて利根郡月夜野町]付近、群馬県道273号後閑羽場線の月夜野橋まで水没する。また東では片品川が沼田市下久屋町付近、薄根川が沼田市岡谷町まで完全に水没する。沼田市は高台の一部が半島状に残り、低地は全く水没する状態となる。上越新幹線や関越自動車道が沼田市付近を避けて高台を通過しているのは、沼田ダム建設を念頭に置いたものといえなくもない。特に関越自動車道については、ダム完成時に付け替えられる国道17号の予定路線とほぼ同じ位置を通過しており、沼田インターチェンジは水没を免れる新沼田市街予定地に建設されている。

水没予定地の中には沼田市役所・沼田警察署・沼田消防署・国立沼田病院・国鉄沼田駅といった沼田市官庁街が含まれる。移転世帯も2,200世帯と莫大なものとなり、沼田市はダム建設によって多大な損失を蒙る。このため沼田市民や月夜野町民は「沼田ダム」計画に猛然と反発、「沼田市・利根郡を繁栄から零落へ引きずり落とす」・「藤原ダム・相俣ダム水没住民の例を見れば、移転住民の将来は暗い」として「沼田ダム建設反対期成同盟連合会」を結成。計画発表の3ヵ月後、10月7日に沼田公園において「沼田ダム建設反対総決起大会」を挙行した。この大会に集まった住民は約3,000人。めいめい鉢巻やムシロ旗を携え、市街地をデモ行進してダム反対を訴えた。
これを受け沼田市議会は「総決起大会」後の10月11日、沼田ダム建設に対して「沼田市が壊滅する」と反対決議を全会一致で採択。周辺の利根郡昭和村等も反対の意思を明確にし、建設省に対し激しく抵抗した。

沼田市が官民一体となって繰り広げたダム反対運動は世間の注目を浴び、国会でも問題になった。この頃は吾妻川でも八ッ場ダムが川原湯温泉水没を理由に吾妻郡長野原町が反対決議を採択して激しい反対運動を展開しており、利根川の河川開発のあり方を巡って国会でも建設の是非について度々取り上げられた。だが政府・建設省は基本的に沼田ダムの必要性を訴求、当時第3次池田内閣の建設大臣であった河野一郎や小山長規も沼田ダム建設促進の姿勢を崩していなかった。

1966年(昭和41年)2月、第1次佐藤内閣の建設大臣・瀬戸山三男が「沼田ダムは首都圏のために必要な事業で、建設を推進したい」と発言した事から沼田市はさらに態度を硬化させた。

これまで状況を静観していた神田坤六群馬県知事や群馬県当局・群馬県議会も「大勢の県民が犠牲となり、群馬県全体を混乱させる沼田ダム事業は容認できない」として、事業に対し反対する姿勢を見せたことから群馬県全体が官民一体でダム事業に対し明確な反対意思を表明。ここにおいて事業は完全に膠着化する状況となった。

佐藤内閣はそれでも沼田ダム建設推進の姿勢を崩さなかった。だが建設省はその後の利根川水系における治水計画・「利根川水系工事実施基本計画」の中で沼田ダムを盛り込まず、「本庄ダム計画」(烏川)や「跡倉ダム計画」(鏑川)、「神戸ダム計画」(渡良瀬川)を進めるようになった。また、水資源開発公団も「利根川水系水資源開発基本計画」で沼田ダムを盛り込まなかった。
さらにダム計画の目的でもあった赤城・榛名大開田計画が水源を矢木沢ダムなどに求め、沼田ダム計画を利用しない形で1964年より群馬用水が建設され1969年(昭和44年)に完成、ダム計画地点の直上流にある綾戸ダム湖に取水口を設置し灌漑用水供給が開始。東京都への上水道・工業用水道供給についても矢木沢・下久保ダムを水源に利根大堰より葛西用水路・見沼代用水・埼玉用水路が整備され荒川水系に連結、沼田ダム計画の進捗を待たずに東京都内への供給が開始された。
このように沼田ダム計画が次第に放置・形骸化する中で転機が訪れた。佐藤内閣から引き継いだ田中角栄内閣の誕生である。

「日本列島改造論」を引っ提げ総合開発事業を強力に推進していた田中内閣であったが、沼田ダム計画については事業の再検討を行った。1972年(昭和47年)10月11日、第1次田中角栄内閣の建設大臣である木村武雄は沼田市を訪問し、ダム予定地視察や関係者との懇談を行った。そして「地元に多大な犠牲を生じる沼田ダム建設は不可能」として談話を発表。ダム計画の白紙撤回を表明した。こうして1952年に第3次吉田内閣が事業を承認してより20年目にして沼田ダム計画は中止されたのである。




武尊山は標高は2158mとさほど高くはないが決して甘くはない山であり、特に冬ともなればなかなか厳しい山となる。
山田昇もこの山に学んだという。
武尊山では山田昇にちなんだ記念レースも行われている。
山田昇の実家のりんご園は沼田ダムに沈む予定ではなかったインターチェンジ側の沼田市にある。

実はこの武尊山、御嶽山と無縁ではないのである。


武尊山と御嶽山

武尊山の山名の由来は日本武尊。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は日本書記や古事記に登場する古代日本の皇族(王族)。
日本武尊は征西にも東征に出掛けたが、その東征の際にこの山に登ったという伝承がある。
登山後に疲労と病気で体調を崩したが、白鷹に導かれて温泉を発見し、そこで湯治したら全快したそうで、その温泉が(かつてクマもいた)宝川温泉。

日本武尊ばかりだけでなく、古代の人だって山を眺めていただけでなく登った人はいた。また山は修験の道場(宗教の修行の場)でもあった。
「開山」というのは比較的誰でも上りやすいような登山ルートが開かれたことを言う。それが何か記録に残っていれば、後世においてはそれが開山年だったり開山した人だったりになる。

武尊山には「御嶽山大神」や「普寛霊神」の石碑がある。
「なんで御嶽山なんだ?」と思う登山者は少なくないらしい。
これは御嶽山を開山(厳密には王滝口ルートを開拓)した人物と、武尊山を開山した人物が同じだからである。


行者・普覚

その人物は修行者である普覚(ふかん)という人物である。
1731年、秩父郡大滝村(現在の埼玉県内にある地)に生まれた。
一度は江戸に出たが、1764年に秩父郡にあった三峰山の修験道本山派の寺院・観音院に入門し修験するようになる。


修験道について

修験道
日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。
森羅万象は大日如来の化身と捉える密教思想を背景に、蔵王権現や不動明王などを中心的尊格とする。
明治初年に政府の弾圧を受けて、廃絶とされた経緯があり、現在では仏教教団として存続しているものが多い
根本道場は、開祖役小角が開いた、吉野・熊野を結ぶ大峰山にある大峰山寺(および金峰山寺)である。主に天台宗(寺門派)の聖護院を本山とする本山派と、真言宗の醍醐寺三宝院を本山とする当山派に分かれる。葛城山も開祖修行地として重要視されている。
地方では、東北地方の出羽三山、九州の英彦山、中国地方の五流修験などが有力で、独立傾向が強い。特に出羽三山は開祖を役小角ではなく、蜂子皇子としており、独自性を打ち出している。
また富士山、石鎚山、木曽御嶽山もガラパコス的発展を遂げ、修験道からは半ば独立したような固有の世界を形成している。また天台密教、真言密教の総本山である比叡山や高野山でも修行が行われた。

古代
最澄や空海が霊山を開く。
日光山など開かれる。

中世
熊野信仰が興隆。熊野詣が流行。
大和国の大寺院を中心とした修験教団が形成。後の当山派。

近世
幕府が本山派、当山派を改めて認定
富士信仰の中で、角行系富士信仰が成立
木曽御嶽信仰が成立

近代
神仏分離・廃仏毀釈と修験道廃止
教派神道教団の成立
修験道教団の復興と再編成


中央霊場に拠点を置く教団
 吉野修験:修験道の根本道場とされる吉野の大峰山(金峰山)で行われる修験。
 熊野修験:熊野三山を拠点とする修験。
 葛城修験:修験道の発祥地とされる葛城山を拠点とする修験。
 比叡山修験:比叡山で行われる修験。

全国に配下を持つ教団
 本山派:天台宗寺門派の聖護院門跡を本山とする修験道教団。
 当山派:真言宗古義派の醍醐寺三宝院門跡を本山とする修験道教団。

普覚はもともとは天台宗の密教系である本山派に属していた。
上の説明で「富士山、石鎚山、木曽御嶽山もガラパコス的発展を遂げ」とあるが、これらは近世・近代に勃興した山岳系宗教であり、歴史的にはそれほど古いものではない。

修験道は江戸幕府はもとよりもっと古くから認められていたが、明治政府は神仏を分離し、神道国教制を敷いた。こうして近代天皇制国家が作られたのであって、要するに神替わりしているというか、今の天皇制の歴史は近代しかないということになる。

明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。
修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。


修験道は密教と密接な関係を持っているわけだが、密教はユダヤ教やキリスト教の神秘主義にも通じるものがある。
チベットのチベット密教(チベット仏教)はインド密教(インド仏教)がチベットに伝えられて成立した。
1960年代のヒッピー文化を経て、1980年頃から欧米においてインドのヨガや日本の座禅などを中心に東洋の神秘主義が注目されるようになり、特にチベット密教(チベット仏教)が人気を集めた。ダライ・ラマはチベット仏教の最高指導者。
オウム真理教はそことコンタクトを持ち、新興宗教として頭角を現していくことになる。


阿闍梨

御嶽山の王滝口ルートや武尊山を開山した人物として知られる行者・普覚。
秩父で何年か修験した後に昇格して、再び江戸に出て府下の聖護院派の修験長となり、52歳の時(1783年)に「伝燈阿闍梨」を取得したという。

阿闍梨(あじゃり、あざり、ācārya アーチャーリヤ、阿舎梨・阿闍梨耶とも音写)
サンスクリットで「軌範」を意味し、漢語では師範・軌師範・正行とも表記するが、その意味は本来、正しく諸戒律を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠や僧侶のことである。

南伝の上座部仏教や、北伝の大乗仏教をはじめ、中世の日本密教や、現在のチベット密教では衆僧の模範となるべき特別な資格を有する高位の僧侶の称号であり、日本では主に天台宗と真言宗において、歴史上では天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられた職位であった。

ただし、現代では一定期間の修行を経て「伝法灌頂」を授かった、宗派の認定する資格を有する職業としての僧侶を意味する。従って、現在の真言宗や天台宗では、阿闍梨は普通に密教を学んだ僧侶一般を指し、特別な高僧の称号ではない。

本来、阿闍梨の称号を得るためには「阿闍梨の五明」といわれる教養と学問と、実技や修行とを身に付けなければならないため、現在でも、チベット密教では厳しい基準や、三昧耶戒の「阿闍梨戒」があり、衆僧や一般信者の尊敬を一身に受ける立場となる。また、チベット密教においては、密教の阿闍梨を金剛乗の阿闍梨という意味で、「金剛阿闍梨」(チベット語;ドルジェ・ロプン)ともいう。


「阿闍梨」は外国と日本、昔と今では、言葉の重みが違うが、どちらにしても宗派の認定する資格である。
「伝燈阿闍梨」は弟子に教えることができる資格であり、一定の課程や経験を積む必要があり、50〜60代で得られる称号。宗派の中だけで有効な資格であり、どこでも使える教員資格というようなものではない。

現在の日本密教では阿闍梨は職業上の「習得資格」の名称であり、伝統的な仏教上の名称と「四度加行」という行道を一応は踏襲してはいるが、実質的な内容を伴うものではなく、例えば、高野山真言宗では一般の僧侶が持つべき最低限の資格ともされている。
いわゆる日本で事相面での教師としての阿闍梨となると、伝法灌頂を終えて各本山に3年ほど残り、その期間を含めて流派や人によるが、最短で約10年ほどで「一流伝授」の資格を得て初めて、弟子にものを教えることのできる伝灯の阿闍梨ということが出来る
高野山真言宗では、高野山の勧学院で行われる勧学会に毎年出仕して修学し終え、特別に選ばれて十数年に一度開壇される学習灌頂を受法すると、最奥の阿闍梨位とされる伝燈大阿闍梨に昇達する。


高野山の例が書かれているが、高野山も真言宗の密教。
いつか某放送局の某番組が高野山から放送していた。
放送局も然ることながら、神仏を分離させ修験道を禁止し弾圧した明治政府の頂点に立った天皇家の子孫で仏教とは無縁の天皇が、仮にも仏教や修験道に区分される高野山に献花するってどういうことなんだろう?

過去記事より
今年5月1日、テレビ朝日の報道ステーションは高野山・金堂から放送し、これは巷でもちょっとした話題になった。
なぜ酸いも甘いも嚙み分けるはずの報道番組が宗教の懐に抱かれなければならないのだ?
本来ならば両者はとても遠い存在であるべきだろう。
現世で達観してしまい宗教に親近感を感じてしまったということだろうか。

カメラは舐めるように本堂内を映していく。
中央の御本尊(?)の横に佇む献花に添えられた天皇陛下の文字がやけに眩しい。

日本の象徴である天皇陛下の文字があるからまだいいが、これがただの高野山ならば何故公平であるべき報道機関が一宗教法人から放送する必要があるんだ!と非難轟々となったはずだ。
宗教はその取り扱いが非常に難しく、慎重にならざるを得ないものである。
テレビ朝日と高野山はどんな関係なんだ?ということになる、こんなことはなかなか出来ない。

その高野山、実は投資運用に失敗したらしい。



オウム真理教の3女のホーリーネームに「アーチャリー」と入っているが、これは「阿闍梨」である。
麻原(松本智津夫)の3女と4女の仲があまりよろしくないようで(遺骨でも争ってましたよね?)、さらに3女はかつて教団幹部だった上祐氏(早稲田大学理工学部卒業後に特殊法人宇宙開発事業団に就職したという経歴あり)や滝本弁護士などとも対立しているらしい。
教団内には上祐派とA(アーチャリー)派があったとか。




by yumimi61 | 2018-09-28 16:07 | 御嶽山噴火と御嶽教