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やがてそこに。


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「さざれ石」と「巌」

神の名称以外の熊野

これまで「熊野久須毘」「熊野櫲樟日」という神の名称について論じてきたが、今度は地名らしき記述での「熊野」について。

花窟神社(世界遺産の一部)
『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである。

伊弉冉尊(イザナミ)という日本の国土形成に関わったという神を祀った(埋葬した)箇所としての記述の中に熊野が登場する。

天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。オノゴロ島におりたち、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子をもうける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。
火の神軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。そして、カグツチはイザナギに殺された。


泥の中にあっても美しい花を咲かせることが出来るという仏教用語「泥中の蓮」的な思想が神道にもあったのだろうか。

読めないっ!

まず伊弉冉尊(イザナミ)という名称だが、これも音読みではないし、訓読みでもない。
音読みならば、呉音でイネンゾウソウとなるし、漢音ならばイゼンソウソウとなる。
別表記としては、伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥がある。
アンダーラインを引いたものならば、音読みでイジャナミやイヤナミと読めてイザナミに近い。
伊弉冉尊があまりにイザナミと読めないため、後世に於いて誰かが読めそうな別の漢字を当てたんだろうか。それなら伊座那美にすれば良かったのにと思うけれども。
仏教が蓮の台座だから座を避けたとか?

同じ神だが埋葬場所が文献により違う(日本書紀の三重県の方の話)

(イザナミの)亡骸は、『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町)に、『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたという。

『古事記』と『日本書紀』では場所が全く違うという・・。出雲が繋いだ縁と言えばよいのかな。

花窟神社(世界遺産の一部)
神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる高さ6メートル、幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている。
古事記や延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。

今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座(いわくら)が神体である。この巨岩は「陰石」であり、和歌山県新宮市の神倉神社 の神体であるゴトビキ岩は「陽石」であるとして、一対をなすともいわれ、ともに熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている。



社殿はないが昔から宮司はいたようで、花窟神社の伝承によると、花窟神社の参拝記念に、版木で刷られた↓の「花の窟木版画」を手渡していたそうである。
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版木製作したのは平安菱川廣隆(1808~1877)。
幕末から明治にかけての画家である。京都に生まれ、初め役者となるが、後に絵画を志し風俗画・大和絵・漢画などを描いて菱川清春とも名のった。和歌山に住んだが、明治10年(1877)に69歳で没した。 

その版木に日本書紀の漢文が刻まれている。
日本書紀曰
伊弉冉尊生火神時被
灼而神退去矣故葬於
紀伊國熊野之有馬村
焉土俗祭此神之魂者
花時亦以花祭又用鼓
吹幡旗歌舞而祭矣


「紀伊国の熊野の有馬村」の怪

上の漢文のアンダーライン部分は「紀伊国の熊野の有馬村」だと解釈されている。
しかし大化の改新前は「紀伊国」と「熊野国」は分かれていたはずである。
分かれていた時代のことを書いているのに、「紀伊国の熊野」と書かれるのはおかしい。「熊野国」と書かれるべきはずである。
もっと言えば、国土作りに関係した神が子を産んだ時(国土や神を作った時)に亡くなったのに、その時すでに「紀伊国の熊野の有馬村」なんて細かい地名が存在していたのか!?という話になると思うが、そこを指摘するのは野暮というものでしょうか。

現在の花窟神社の所在地。三重県熊野市有馬町上地130番地

日本書紀に書かれている「熊野」と「有馬」を合わせてきた感じの所在地となっている。


有馬村は江戸時代に誕生した?

慶長検地帳(1601年、安土桃山時代末)において、現在の三重県熊野市に該当する地域の中に有馬村という地名は存在しない。
天保郷帳(1834年、江戸時代末)では有馬村が見られるので、この間に誕生した地名である。
石高で見れば、室郡池部町が牟婁郡有馬村になったと考えられる。
2つのどちらの時代にも存在している井戸村と合併して有井村となったのは1889年(明治22年)4月1日のこと。
1954年(昭和29年)11月3日に有井村は他の村々と合併して熊野市となった。


有馬という地名

兵庫県神戸市北区の地名。
 ・ 有馬温泉
 ・旧摂津国有馬郡
長崎県南高来郡の自治体名(いずれも、合併により、現在は南島原市)
 ・北有馬町
 ・南有馬町
群馬県渋川市の地名
神奈川県川崎市宮前区の地名。
神奈川県高座郡の地名(合併により、現在は海老名市)
三重県熊野市の地名


群馬県渋川市の有馬

今年の6月10日に群馬県渋川市のスーパーに自動車が突っ込むという事故があったが、渋川市の有馬はそのスーパーの近くの地域である。
有馬にも熊野神社が存在する。
http://www.mikumano.net/zgunma/sibukawa2.html
県道25号線(三国街道)の有馬交差点より西に少し入った所に鎮座。
道路より一段高いところに石祠が祀られている。
境内は遊び場になっておりブランコなどが設置されている。
石祠の後ろには「蚕影山大神」の石碑があるほか庚申塔や石灯籠が周囲に散在している。
御祭神 伊弉冉尊
由緒  不詳
通称「オクマンサマ」。
有馬神戸町の守護神として祀られてきた。
火伏せの神と伝えられる。
(祭神、由緒ともに「渋川市誌」参照」)


(渋川市は)古くから三国街道の宿場町、交通の要衝として栄えた。
その三国街道沿いの地域にあたるが、実は熊野という地名も存在する。
JR上越線の渋川駅前で市役所などがあったりする中心部である。現在は渋川市石原という住所になるが(渋川市は住所に町を付けていない)、その石原の中の一地区。

私はこの辺りにかなり縁深い。

有馬や石原は江戸時代には有馬村や石原村であり、そこは幕府領だった。
明治初年に前橋藩領となり、後に前橋県→群馬県に含まれることになる。
明治22年(1889年)の 町村制の施行により、石原村は他の2つと豊秋村となり、有馬村も他の2つと古巻村になった。

有馬にある若伊香保神社

伊香保と言えば温泉だが、有馬には若伊香保神社もある。

創建は不詳。伊香保神社(渋川市伊香保町伊香保、上野国三宮)と同一神名を有することから、伊香保神社と同じく豪族の有馬氏(阿利真公)により奉斎されたと見られている。また伊香保神社は元々当地に鎮座したと推測する説もあり、同社が上野国国府近くの三宮神社(北群馬郡吉岡町大久保)に遷座した際、旧社地に祀られたのが若伊香保神社になるともいわれる。
現在の境内は泰叟寺に隣接して鎮座するが、元々は上有馬に鎮座したといい、享禄元年(1528年)の洪水のため移転したと伝わる(一説に遷座は永享9年(1437年))

六国史時代における神階奉叙の記録 貞観5年(863年)10月7日、正六位上から従五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「若伊賀保神」。
元慶3年(879年)閏10月4日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「若伊賀保神」。
元慶4年(880年)10月14日、正五位下から正五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「若伊賀保神」。

国史では、「若伊賀保神」の神階が貞観5年(863年)に従五位下、元慶3年(879年)に従五位上、元慶4年(880年)に正五位上に昇叙された旨の記載が見える。しかし『延喜式』神名帳には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる。

長元3年(1030年)頃の『上野国交替実録帳』では、「正□位 若伊香保社」(位は脱字)と記されるとともに玉殿1宇・幣殿1宇・鳥居2基・向屋1宇・美豆垣1廻・荒垣1廻・舞人陪従屋1宇・厨屋1宇の記載がある[1]。この社殿規模は、伊香保明神社(三宮)、宿禰明神社(四宮:甲波宿禰神社)、椿榛明神社(六宮:榛名神社)と同等のものになる。

また『上野国神名帳』では、総社本において鎮守十社のうちに「正一位 若伊賀保大明神」と見えるほか、一宮本・群書類従本において群馬東郡または群馬郡のうちに「従四位上 若伊賀保(若伊香保)大明神」と記されている。

南北朝時代成立の『神道集』では、「上野国九ヶ所大明神事」や「上野国第三宮伊香保大明神事」に若伊香保神社の記述が見えるが、その中で若伊香保神社は上野国の五宮であるとされている。上野国の九宮までのうち、若伊香保神社は唯一の式外社になる。

明治に入り、近代社格制度では村社に列した。現在は泰叟寺に隣接して小祠を残すのみとなっている。





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by yumimi61 | 2018-10-22 14:50