by and by yumimi61.exblog.jp

やがてそこに。


by yumimi61
プロフィールを見る
画像一覧

ときわ(常盤・常磐・常葉)

もう少し『君が代』の話を引っ張ってみる。

どうしてあえて6音にしたか

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
君が代は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで


前記事にて、和歌としては「さざれ石の」が字余りであり、音の流れ(リズム感)があまり良くない歌であるということを述べた。
そこにはひとつ不思議な点も存在している。
この歌は字余りでなくても十分に成立させることが出来たと考えられるからである。

我が君は 千代にやちよに さざれ石のささ石の 巌となりて 苔のむすまで

「さざれ石」とは、細かく小さな石のことである。
「さざれ」は「細ら(ささ‐ら)」と同義。
「細」の訓読みである「ささ」(ささ‐やか)のことなので、漢字で書くならば「細石(ささいし)」と表すことが出来るし、濁して「さざいし」と読んでも問題ない。


「さざれ」でなければならなかった理由

万葉集には「さざれ」を使っている次のような歌がある。
さざれ波 浮きて流るる 泊瀬川 寄るべき磯の なきがさぶしさ(13-3226、詠み人知らず)

これは頭の5音に「さざれ波」を用いている。
「さざ波の」に置き換えても同じ意味で通るが、「さざなみの(細波の)」は枕詞であるため、後に続く語が決まってしまう。
だからこの句では使えない。
でも「ささいしの」にはそのような縛りはない。

枕詞「さざなみの(細波の)」
①琵琶湖南西岸の地名「大津」「志賀」「比良」「近江」などにかかる。元々は「さざなみ」も地名だったとする説もある。例えるならば、近畿の滋賀、滋賀の大津など、地名が重なっているということ。
②波に文(あや)があることから「あやし」に、波が寄ることから「寄る」「夜」にかかる。


今度は歌詞に注目

「さざれ石の 巌となりて」は、「小さな石が大きな岩となって」と解釈されている。
この解釈では「の」が主語に付いている助詞だと考えられている。今で言えば「~が」である。
しかし「の」は他にもいろいろな使い方がある。

・所有、所属、所在、材料の「の」。この用法は現代においても頻繁に使うので分かりやすい。
例:私のあなた、中日ドラゴンズの根尾選手、近畿の滋賀、鉄の塊、など。

・比喩の「の」。
例:清らなる玉の男御子(気品があって美しい玉のような男の御子)ー源氏物語より

・準体言の「の」。
例:これはあなたの、こちらは私の。(これはあなたのもの、こちらは私のもの)

・同格や並列の「の」。
例:白き鳥の、嘴(はし)と脚と赤き、鴫の大きさなる(白い鳥であって、くちばしと脚とが赤い鳥で、鴫くらいの大きさになる)―伊勢物語より

ここでもう一度「さざれ石の 巌となりて」を考えてみたい。

主語に付く助詞は省略することが出来る。
例:空高く馬肥ゆる(空は高く、馬は肥ゆる)
  私、あなたが好き。

すなわち、もし「さざれ石」が主語ならば、「さざれ石 巌となりて」とすることが出来て、これも字余りにならずに成立させることが出来た。
そこに字余り覚悟であえて「の」を付けた。それが日本語の意味由来の理由だとすれば、主語に付く助詞「の」ではなかったということになる。
次のどれか。
 ・小さな石の大きな岩となって(所有、所属、所在、材料)
 ・小さな石のような大きな岩となって(比喩)
 ・小さな石のもの(準体言) 大きな岩となって
 ・小さな石であって、大きな岩ともなり(同格や並列)
 

『君が代』に感じてしまう嘘

一般的な歌詞解釈を採用したとして、一番気になったり違和感を感じる箇所もやはりこの部分である。
「さざれ石の 巌となりて」(小さな石が大きな岩となって)
何故ここが気になるかと言うと、自然に逆行する観があるからである。
人間がたやすく想像しやすい自然現象は、大きな岩が長い時間とともに砕けて小さくばらけていくことのほうであり、そこに共感を抱きやすい。
人間でも物体でも形あるものは必ず壊れる、これを全力で否定する人はいないような気がする。
人はそこに無常と無情を見る。
大きな岩がいついつまでも続くということを易々とは受け入れにくい。
しかも『君が代』はそのメロディーにどことなく無常観と無情感が流れている。
しかし『君が代』は、無常観と無情感を感じにくい成長期の子供達の学校行事や血気盛んなスポーツ大会で歌ったり聞いたりすることが多く、さらに事をややこしくしている。若い人の違和感はどちらかと言うとこの部類に含まれるかもしれない。
一般には、解釈されている歌詞の内容とメロディーが乖離している感じがして違和感を抱くことになる。
その乖離(違和感)がそこはかとなく嘘を彷彿させてしまう。

諸行無常(ショギョウムジョウ) 諸行は無常なり
是生滅法(ゼショウメッポウ) これ生滅の法なり
生滅滅己(ショウメツメツイ) 生滅を滅し終わりて
寂滅為楽(ジャクメツイラク) 寂滅を楽と為す

あらゆることに永久はなく変わり続け、生じたものは必ず滅するのがならい。
生き死になど煩悩を自分の心から滅すれば、安らぎの境地に至る。


この世に生まれ落ちた人間の身体の成長期間はそう長くはない。ある時期を超えれば下降の一途、そして人は必ず老いて死んでいく。
盛者必衰、勢いがあるものでも、いつかはそれが終わり衰退していく。
高価で貴重な物がうらぶれて錆びれてゴミの山を作る。
人間はそれに抗うことが出来ないでいる。
混沌から調和へ(カオスからコスモスへ)、調和から混沌へ(コスモスからカオスへ)。


集まれば苔むす!?

なかには「さざれ石」や「巌」や「苔」は単なる比喩に過ぎないと主張する人もいるかもしれない。

中国には諫鼓苔生という慣用句がある。
日本では、諫鼓苔生す(かんここけむす)と読む。

諫鼓とは、中国の伝説上の聖天子が、君主に諫言(君主に忠告)しようとする者に打ち鳴らさせるために、朝廷の門前に設けたという鼓。いさめのつづみ。
慣用句は、君主の善政により諫鼓を鳴らす必要がなく苔が生えるほどに世の中がよく治まっているたとえ。

「さざれ石」や「巌」を比喩として考えると、私は『一人の手』という曲の歌詞を思い出す。

♪一人の人間はとても弱いけど 
それでもみんながみんなが集まれば
強くなれる 強くなれる♫

さざれ石が一人の人間で、みんなが集まったのが巌。
強くなったところで、「一億玉砕」「一億総特攻」すれば、「神州不滅」!?


壮大なスケールで

「さざれ石の 巌となりて(小さな石が大きな岩となって)」は、少し見方を変えると、地球の誕生の比喩でも当てはまる。

地球は様々な隕石がぶつかり合って誕生し、その大きさを増していった。
そしてそこに海が出来て、生命も誕生した。
やがて地球という大きな岩は、木々という名の苔に覆われるようになった。

地球の形成に重要な役割を果たしたのが重力(引力+遠心力)で、宇宙や地球の存続に欠かせないのが重力である。
重力を失えば、今のような形で地球や宇宙が存続することは難しくなる。

しかし実際のところ、地球や生命の誕生に寄与し宇宙を構成するほどの重力であるが、人間のような然程大きなエネルギーを持ってない者にも簡単に逆らえてしまえるほど、重力の力というものは弱い。
人間は重力に逆らって、真っ直ぐ上に腕を上げたり、物を持ち上げたり、ボールを上に放り投げたり、ジャンプしたり出来る。
但し人間は長時間重力に逆らうことは出来ない。

天地創造や人間の誕生を描いた聖書、日本の国土形成や神の誕生を描いた古事記や日本書紀。
それから時はだいぶ流れた。
「千代にやちよに さざさ石の 巌となりて 苔のむすまで」が時代であるならば、とっくに区切りが来ていて、「君が代」は終わっている感じである。





[PR]
by yumimi61 | 2018-10-26 13:54