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やがてそこに。


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All Hallows (本祭をやらないなんて!?)

日本史はこうして記された

『日本書紀』は全30巻で構成されている。
第1巻が神代上、第2巻が神代下で、国造りや神生みなどの話。
私が先日記載した「第5段」とは「第1巻・神代上の第5段」である。
段は、第1巻と第2巻通し番号で第11段まである。それ以降の巻では段はない。

第3巻が初代天皇とされる神武天皇時代、最終の第30巻は第41代天皇(在位:690-697年)とされる持統天皇(女帝)の時代。
持統天皇は、第40代天皇(在位:673-686年)とされる天武天皇の皇后だった。
その持統天皇(女帝)の天皇譲位で日本書紀は終わっている。

『古事記』や『日本書紀』の編纂は、天武天皇(天智天皇の弟)の命により開始されたとされる。

645年に宮中クーデターが起こり、その後に中央集権国家に舵を切り「大化の改新」と呼ばれる大改革が行われた。
クーデターは宮中で朝貢の儀が行われている時に起こり、蘇我馬子が暗殺された。その場には朝鮮半島からの使者もいた。
蘇我討伐のために中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原氏)が企てたクーデターであったと言われるが、クーデターと言うからには蘇我のほうが立場が上だったということになる。
だが天智天皇や天武天皇の母親も天皇(2回天皇をしていて、第35代皇極天皇・第37代斉明天皇)であった。クーデターはこの時に起こされている。
地位的に最高位に位置しているはずの天皇が倒されたのではなく、その下の立場の者が倒され、しかもあまりにクーデターが上手くいき、その後に中央集権化が推し進められたことなど、「大化の改新」と「明治維新」には共通点があり、日本史上最大の謎とも言われる。

整理すると・・・

第35代(642-645年) 皇極天皇
  …息子がクーデターを起こし、自身の弟に譲位(日本史上初の天皇譲位)
第36代(645-654年) 孝徳天皇(皇極天皇の弟)
第37代(655-661年) 斉明天皇(皇極天皇の2度目の天皇名)
第38代(668-672年) 天智天皇(皇極天皇の息子)
第39代(672年) 弘文天皇(天智天皇の息子)
  …明治3年(1870年)に天皇として付け加えられた人物。大友皇子。
第40代(673-686年) 天武天皇(皇極天皇の息子)
  …『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じた。『日本書紀』は天武天皇時代のみ上下と2巻を費やしている。
第41代(690-697年) 持統天皇(天武天皇の皇后)


第37代と38代の間、第40代と41代の間が開いているのは、天智天皇および持統天皇が即位せずに政務を執っていた期間とされる。


仮面を被る

こう見ていくと、日本の中央集権化を推し進めたのはある一族だった。
ある一族というのは日本の最高位にあった天皇家ということになる。
天皇家を世襲とするならば、国家祭政の頂点にある天皇家が何をしたとしても「ある一族の仕業」「ある一族の企み」「ある一族の構想」ということになってしまう。
中央集権国家であるならば、それは強固に補強され、独裁に繋がっていく。
国という単位が大きくなればなるほど内包する人民も増え、独裁者は力を増し、多様性は生まれにくく、また許されなくなる。
独裁や権威権力でもって国を維持したいならば(方法論の1つとしてこれを頭から否定するつもりはない)、国の単位を可能な限り小さくしておくことが望ましく、移動や選択の自由を残しておくべき。
逆を言うと、「最高権力者も独裁者もいません」という民主主義の仮面を被れば、独裁化や大国化が許されるということになる。
時代が進めば過去に学べることもあるので、露骨なやり方で簡単に掌握することは出来ないであろうから、皆それなりに仮面を被るのである。
みんなが仮面を被りすぎて何が何だか分からなくなってしまったというハロウィーン化が進んでいるとか?

でもこう言ったらあれだけど、よくよく考えると、「言うこと聞かなきゃ殺すぞ」「お菓子をあげるからいたずらさせて」「お菓子をくれないといたずらするよ」と、仮面を被って大の大人を脅すのは子供という・・悪趣味な行事。
私はお金や物を引き換えに子供に何かさせたり、頑張らせたりということをさせてこなかったので違和感があるけれど、金や物と引き換えに何かをさせるという経験を幼い頃にさせてこなかったのは、現代社会に生きていく上では、ある意味失敗だったのかなあとも思ったり。


終わりは女?

国の号が「倭」から「日本」に変更されたのは大化の改新以後である。
『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じたのも大化の改新以後であり、中央集権化に都合のよい新しい日本史を作らせたということは十分に考えられる。
しかし現実にはすぐに完成せずに、第40代天武天皇(673-686年)が命じた『古事記』や『日本書紀』が完成したのは、3代4代後の天皇の時代。
30~40年の月日を費やした。なにせ1300年前からの歴史を掘り起こすのだから普通に考えても大変なことではある。

『古事記』の完成は712年。第43代の元明天皇時代(707-715年)。
元明天皇は天智天皇の娘。夫は天武天皇と持統天皇の息子。
元明天皇は都を平城京に移しており(現在の奈良県内での移動ではあるが)、後年の時代区分では、飛鳥時代から奈良時代へと変わった時期でもある。
明治天皇以前の天皇が伊勢神宮を参拝したという記録はないが、元明天皇が天皇になる以前(天武天皇4年・675年)に、大友皇子(明治3年に新たに天皇として付け加えられた弘文天皇)の妃(正妻)と一緒に伊勢神宮に参拝したという記録がある。

『日本書紀』の完成は720年。第44代の元正天皇(715-724年)(女帝・未婚)の時代。
元正天皇の母親は元明天皇で、元正天皇は天武天皇と持統天皇の孫娘にあたる。

『古事記』も『日本書紀』もどちらも女帝(女天皇)の時代に完成させている。
そして『日本書紀』に綴られた歴史の最後は女帝(女天皇)の持統天皇(第41代)の時代で、『古事記』もやはり女帝(女天皇)の推古天皇(第33代)までの時代が綴られた。
しかし『古事記』では第24代から第33代までの10人の天皇については系譜のみ記されただけで、詳しい事績について記されていない。よって「欠史十代」とも言われる。

日本史の終わりが女なので、近代日本ではそれを日本の終わりと考え不吉だと思い、女性天皇を受け付けようとしないのかも。


古いものと新しいものには目が無いのです?

先に述べたように『日本書紀』も原本(原書)が存在していない。写本のみである。
しかもその写本も30巻全てが揃っているというのは比較的新しい時代のものである。
全ての写本が可能だったということは、その時点ではそれより古い時代の本が全巻が揃っていたということなのに、古い時代の本が消失し写本だけが生き残っているのは不思議。
古いものや継続に価値を置くことが良いか悪いかは別として、それまでの歴史書を積極的に残す努力をしなかったということは、その時代においては特段価値あるものとは見做していなかったという証拠である。
あるいは、写本というのは嘘で、その時代に新たに創作したり、大幅に付け加えたものか。
(歴史建造物なども容易にメンテナンスしてしまうけれども、それをしたら本来の意味においては、古い物であるという価値は半減、あるいは全く無くなると思う。歴史的な意味が変わってしまうから。文字通り、歴史は塗り替えられる。建造物は安全性などの問題があるのだろうとは思うけれども)

そもそも天皇が大いに歴史を意識して命じ書かせた書物が何故に天皇家に保存されていないのか。
皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて重要な書物が、日本の最高権威者で、日本が自慢する万世一系の天皇家にどうして代々引き継がれてこなかったのか。
また非常に時間をかけて苦労して作った重要な書物なのだから、災難などに備えて予め写本を「正本の印」でも付けて幾つか作らせ、別所に保存しておくべきであったろう。どうしてそうしなかったのか。


鎌倉時代の占い発

次の表は、八木書店グループのホームページの「日本書紀の写本一覧と複製出版・Web公開をまとめてみた」の写本一覧表の一部の写しである。
該当ページはコチラ
非常に見やすく一覧表にまとめてある。ダイレクトに「日本書紀の主な写本一覧(PDF)
(表は)かつて前田育徳会尊経閣文庫編『尊経閣善本影印集成26 日本書紀』(八木書店、2002年)に収録した、石上英一先生「尊経閣文庫所蔵『日本書紀』の書誌」の付表をもとに、加筆し作成したもの、だそうです。
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私はまず、第1巻神代上、第2巻神代下、初代天皇の第3巻に注目してみたわけである。
日本書紀の完成から100年後くらいの800年代(平安時代初期)に書き写したと推測される写本が幾つかあるが(元は同じ本だったとみられる)、どれも断簡。
※断簡(ダンカン)ーきれぎれになって残っている文書・書簡。文書の切れはし。

断簡な写本しか残っていない時代から500年後の1300年前後の時代に書き写された写本は断簡なく残っている。
その間の写本は何一つ残っていない。

1300年前後の写本は、分類のところに「卜部本系統」と書いてある。
卜部本系統とは卜部氏一族が書き写したとされる写本である。

卜部(うらべ)氏
卜部とは亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を職業とした諸氏の総称。平安時代前期の卜部平麻呂(神祇権大佑)を実質的な祖とするが、平麻呂以前は明確ではない。
伊豆・壱岐・対馬などの卜部氏が著名で、このうち伊豆の卜部氏が最も栄え、後世有名な神道家や僧侶を輩出した。鎌倉時代末期より吉田姓を称した。


占いが本職なだけに、完全ではない文章を得意の占いでもって補い文章を完成させたのではないだろうか。
あるいは神が憑依してすらすらと筆が進んだとか、霊に字を選んでもらったとか。(昔コックリさんなるものが流行って、私も中学生時代には友達と教室でよくやったものである)

そうとなれば、日本書紀の神代上下巻(1・2巻)本文は、鎌倉時代に占いに頼って書かれたものとも言える。

初代天皇(初期の天皇も同様に)はもっと悲惨な状況で、熱田神宮蔵の熱田本まで写本も何一つ残っていない。
従って唐突感は否めない。




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by yumimi61 | 2018-11-01 15:07