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やがてそこに。


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主義

昨日の記事で、Men always want to be a woman’s first love. Women like to be a man’s last romance.(男は女の最初の恋人になりたがるが、女は男の最後の恋人になりたがる)という名言を引用して、国家にも通じるところがあるのではないかと思うと書いた。

・日本の神道や国学における古神道(復古神道)は、女の最初の恋人になりたがる男なのではないかと。
要するに世界で最初の国になりたい。世界の最初の恋人になって永遠を刻みたいと思っているわけである。

・ロマンスを求める国家とはすなわち交感神経を優位にさせてアドレナリンを溢れさせたい国家。
国家の大恋愛といえば、やっぱり外交関係とかになるのかなあ。
国民の交感神経が優位となりアドレナリンが溢れる状態は、やっぱり災害とか戦争じゃないかなあと思う。スポーツの国際大会なんかもそうかな。なんとかランキングとかもそうなのかなぁ。


国粋主義と国際主義

すごく雑な分け方をすれば、前者が国粋主義(ナショナリズム)、後者が国際主義(インターナショナリズム)。
両者は対立する主義である。この対立が顕著となったのが幕末から明治期である。
尊王攘夷派(君主を尊び、外敵を斥けようとする思想。水戸学や国学に影響を受けている)は前者の国粋主義である。幕府の貿易解禁(開港)に反対したのもこちらの派閥。国学者や神学者なども多くがこちら側の立場に立った。

国粋主義(ナショナリズム)と国際主義(インターナショナリズム)は対立する主義と書いたが、一方でどちらにも共通するのはやはり「愛国心」というか「優越感」というか、他者(他国)に一目置かれたい、認められたいという欲求である。
それは、国や民族というものが、多くの国家や民族の中で独立して存在するために必要なものでもあった。
航海の時代がやってきて世界が開かれ始めたわけだが、世界が開かれる中で自分というものを保つには依拠する何かが必要なのだ。ひとつ間違えば呑み込まれて自分(自国)を失うという恐怖が存在するから。新しいものへの好奇心と恐怖、どちらもアドレナリンが関係している。

現在の憲法には「個人の尊厳」が謳われているが、「尊厳」と「権利」は同じではない。「個人の尊厳」は各々が感じるものであり、感じ方には差があるので、明文化して憲法に載せたところで平等に尊厳は存在しない。
個人をもっと大きな単位にすると「国家の尊厳」や「民族の尊厳」ということになる。プライドや威信を守るためには、立脚する、依拠する「何か」が必要。国や民族という大きな単位になれば尚の事。

その「何か」は手段とも言える。
手段によって「国家の尊厳」という目標が達せられた先には幸福感(見返り)がある。
このように実は国粋主義(ナショナリズム)と国際主義(インターナショナリズム)は、見返り(幸福感)を求めるという点で共通する。
それを得るために手段(国粋か国際か)が少し違うのだが、手段ではなく目的に重点を置けば、手段は何でも良いということになり、明治維新派の掌返し(国粋派から国際派)はまさにこれだった。
国粋主義派の国学者や神学者らは明治新政府の掌返しに失望していった。手段に拘るタイプである。それはひとつの美学であるのかもしれない。文学や芸術を含む文化的な要素を多く持つ。
島崎藤村の父親は失望した1人だった。その影響は藤村にも及んでいる。
国際主義派は経済活動や戦争を含む運動的要素を多く持つ。
これまたかなり大ざっぱに分ければ、国粋主義は文化部で、国際主義は運動部ということになる。


右翼と左翼

本当は次のように分けたい。話が早いから。
  右翼・・・国粋主義(ナショナリズム)(文化部)
  左翼・・・国際主義(インターナショナル)(運動部)
だけど残念ながらそうとはいかない。

現代人は、戦争など軍国主義や漢字を並べた街宣車など右翼に国際主義(運動部)を見る。
漢字は中国から入ってきた字なので(だからといって当時日本独自の文字が存在していたわけではなく、平仮名も結局のところ漢字由来なのだが)真の国粋主義者は漢字も外来物として嫌うので、漢字を好んで使用しているということは真の国粋主義者ではないと考えられる。

権利とか平等とか世界平和(戦争反対)など主張している国際派であるはずの左翼が同盟関係を嫌い国際派の申し子のようなアメリカには対立的だったりする。アジア諸国にはわりと親和的であるが。

 右翼・・・国粋主義?(ナショナリズム?)(運動部)、軍国主義
 左翼・・・国際主義?(インターナショナル?)(文化部)、平和主義

こうなると次のように考えると分かりやすいのかもしれない。
 右翼・・・親大国・親強者
 左翼・・・親小国・親弱者

「親大国・親強者」は大国や強者の影響下にあったほうが便宜を図ってもらえるなど何かと有利であり、大国に認められやすいという考え方が出来る。
「小大国・親弱者」では小国や弱者を影響下に入れたほうが自分が優位に立てて有利であり、優越感に浸れるという考え方が出来る。
そこに共通してあるのはやはり他者(他国)に一目置かれたい、認められたいという欲求なのではないだろうか。手段が違うだけで。


格差社会

承認欲求で成り立つ社会は、承認する側と承認を求める側が出来てしまい、自ずと階級社会を作ってしまう。

 大国・強者 < 中くらいの国・中くらいの者 < 小国・弱者

認められたいという強い欲求は却って格差社会を助長してしまう。
承認欲求に支えられた国際主義が発展し、世界規模でグローバル化が進み、相互依存度が非常に高まっていった。
大国であろうと小国であろうと、他者(他国)無しには自分(自国)が存在出来ない状況。他者(他国)無しには自分(自国)の存在意義を感じられない状況。
何をもってして大国・強者というか、その価値観は時代によって多少変わるが、長い間その基準となってきたのは経済であり、グローバル資本主義が巨大に発達した。
格差によって支えられる社会システムであるからして当然格差は広がる一方。
人々のやる気はだんだんと怒りに置き換わり世界各地で不満が噴出したり、虚無感や厭世観が充満し秩序の不安定さを露出してくる。
少しずつカオスな状態になっていくのだ。
そうとなると今度はコスモポリタニズムが注目されるようになる。


倫理・道徳

コスモポリタニズムとは
個人を国家・民族を超越した直接普遍的世界の一員として位置づける世界観。また,その立場に立って一つの世界国家を実現しようとする思想。 世界主義。

個人を直接的に世界の一員として位置づける世界観とあるが、言うほど簡単ではない。
世界中を旅行して見識を広めた、スポーツ選手として世界を転戦している、グローバル企業のトップとして世界各地に会社を置いて従業員を使っている、だから「国家・民族を超越した直接普遍的世界の一員」とは言えない。
「日本人として誇りに思う」とか言った段階でアウトだし、日の丸背負った大会が好きな人もアウトだし、喜んでオリンピックを開催したり出場したり国籍を問題にしたりしている段階でダメだろうと思う。
特定の国の好き嫌いがある場合も(例えばアメリカや朝鮮が嫌いとか)「国家・民族を超越した直接普遍的世界の一員」とは言えそうにない。
深く根付いている国家や民族を超越するってとても難しい。
見た目や言葉の違いからも超越しにくい。

ではコスモポリタニズムとは何なのか?
国家・民族を超越した問題を作り出せばよいのである。
要するに「地球がやばいよ」という話にすれば、国家・民族の上に立つ。
「国家や民族で争っていても、地球が無くなったら元も子もないでしょう。問題解決のために一致団結しましょう」ということで、国家・民族を超越することが出来る。
結局さらに単位を広げるわけである。(これ以上単位が広がらないためには宇宙の他の星に生命体がいないことを願うしかないですね)
地球温暖化や資源・環境問題などはコスモポリタニズムに利用されてきた。

だけど地球温暖化や資源・環境問題などは経済に直結しており各国の利害が絡むので思うほどスムーズに事が運ばない。
また「地球がやばい」と言われても、実際にやばい状況が見えないと緊迫感が感じられない。
気温が云々、災害が云々行っても、人は忘れる生き物だし、実際被害を被るのは全体からみれば一部でしかないわけで、なかなか身に迫らない。人間は永久の命を持っていないのでいずれ死んでしまうという無責任さと無力感を持ってもいる。

そこで注目するのが倫理や道徳である。
明治政府は宗教の上に道徳的な「国家神道」を乗せて、中央集権を果たした。
倫理や道徳を前面に出して個人の尊厳を重視するようでありながら、天皇や政府の意に沿わないものは排斥したわけだが、バラバラなものをまとめる手法として「倫理や道徳」が有効であることがある程度証明されている。
地球環境問題が遠い話でも、道徳というのは極めて身近な事柄を扱うので身に迫りやすく、道徳には弱者を守ろう的な側面も多分にあるため共感者の数も集めやすいということもある。
近年非常にこの「倫理や道徳」が利用されているような印象を抱く。

コスモポリタニズムは排他を嫌う思想でありながら、一面においては非常に排他的なのだ。









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by yumimi61 | 2018-11-05 12:36