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やがてそこに。


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大人(うし)

178.png2008年12月までのカテゴリーとタグ付完了しています。

明治政府の神仏習合禁止と国学

国粋主義(ナショナリズム)と国際主義(インターナショナリズム)。
両者は対立する主義である。この対立が顕著となったのが幕末から明治期である。
尊王攘夷派(君主を尊び、外敵を斥けようとする思想。水戸学や国学に影響を受けている)は前者の国粋主義である。幕府の貿易解禁(開港)に反対したのもこちらの派閥。国学者や神学者なども多くがこちら側の立場に立った。


明治新政府が推し進める神道国教化のために神仏習合は禁止された。いち早く神仏習合の形態を採っていた修験道はこの時に目の敵にされ排他の対象となった。
修験道の発祥の地(聖地)は現在の世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にも含まれていない。

神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった。
ということで、私は2018年10月4日に平田篤胤について書いている。
平田篤胤は本居宣長没後に滑り込みで弟子に加わったとし、弟子と自称した。

しかし平田篤胤の著作の中には、本居宣長門下としては邪道と見做されるものも少なくなかった。
特に本居の弟子らは後に平田の代表作となる『霊能真柱』(1813年)という著作が本居宣長を冒涜しているとして激しく非難し「山師」と吐き捨てた。


余談ですが、2018年10月4日の記事に、私はフロントガラスの下の部分に「口は弁護士 心は詐欺師」という大きな文字が掲げられているトラックをよく見ると書いたのですが、それ以降パタリと出会わなくなり一度も見ていません。

平田篤胤の論考は本居派からは受け入れられなかったが、出雲神道として取り入れられ、その後の神道のあり方に強く影響を与えることになる。
出雲神道というのは出雲大社(出雲大社教)のことである。ここもかつては神仏習合であったが、明治維新よりもだいぶ早い1667年にはすでに神仏分離・廃仏毀釈を主張し、仏堂や仏塔は撤去したり経典(仏教の聖典)を破却した。

平田は後に「国学の四大人(しうし)」の一人として本居宣長と名を並べるようにもなった。


この「国学の四大人(しうし)」の4人はみな師弟関係にある。(もっとも平田は自称であるが)
 荷田春満ー賀茂真淵ー本居宣長ー平田篤胤


荷田 春満(かだ の あずままろ、寛文9年1月3日(1669年2月3日)- 元文元年7月2日(1736年8月8日))
荷田春満の父は伏見稲荷神社(現在の伏見稲荷大社)の社家で御殿預職の羽倉信詮であり、母は細川忠興の家臣深尾氏の娘貝子である。
荷田春満は契沖の『万葉代匠記』などを学び、国家意識を強くして古典及び国史を学び古道の解明を試みた結果、『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築き、復古神道を提唱するなどの業績を残した。


賀茂 真淵(かも の まぶち、元禄10年3月4日(1697年4月24日)- 明和6年10月30日(1769年11月27日))
遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)に岡部政信の三男として生まれた。岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で、父政信は分家筋で農を業とした。
荷田春満を師とし、『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿であるとして、古道説を確立した。
弟子の加藤千蔭の伝えるところによれば「外見は普通の人とかなり異なっており、ややもすると明敏さに欠ける頭の回転の鈍い人とも見受けられそうだったが、時々彼の言葉には日本人の真の心が突如として迸(ほとばし)りでた。その時には非の打ちどころのないほど雄弁になった。」という。



国学の祖よりも早く

荷田春満と賀茂真淵は江戸時代の人物で両者とも神職に関わる家系に生まれている。
神職筋から国学者が誕生してきたことはなるほどと思わせる点もあるが、江戸時代にはすでに1000年近く積み重ねてきた神仏習合の歴史がある。
国学の祖が江戸時代の中期の人物ということは、国学の歴史自体それほど古いものではない。
しかも国学が起こるより早い時期に神仏分離・廃仏毀釈を主張していた神社がある。それが島根県の出雲大社。1667年には仏堂や仏塔は撤去したり経典(仏教の聖典)を破却したりしている。
これは明治維新よりも黒船来航よりもずっと早い。
だが日本にキリスト教の宣教師がやってきたのはもっと早い時期。

フランシスコ・デ・ザビエル(スペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)
スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。
ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。


都や政治中心部から遠く離れた九州などで目に余る行為が横行したため、地方分権が進んでいた日本だったがキリスト教の布教や貿易に規制をかけたり直接管理に乗り出した。
結局、日本に来て日本と貿易関係を結びたいという意志があり、それを日本から許可されたのはオランダと中国になっていった。イギリスは自ら撤退した。
これを宗教という側面で、特に布教禁止されたカトリック(イエズス会)から見れば、「プロテスタントと仏教は許してカトリックは許さないのか」ということになるのだろうと思う。(当時のオランダや中国の貿易は宗教の布教を目的とはしておらず問題行動も別になかったから許されたということなのだが)
(当時オランダはカトリック支配のスペインから独立したこともあって反カトリックのプロテスタントが主流だった。現在は無宗教を除けばカトリック信徒の割合が一番多いとか)
カトリック(イエズス会)にしたら「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」じゃないけれども、仏教も仏教を信仰している日本も憎い状態。
ちなみに荷田春満の母は細川忠興の家臣深尾氏の娘とあるが、細川忠興の妻はキリスト教(カトリック教徒)で有名な人物(細川ガラシャ)である。


仏教・真言宗(高野山)が国学の祖!?

実は国学の祖は神職関係者ではなく、仏教である真言宗(高野山)の僧だったというのだ。
ということは明治新政府の神仏分離・廃仏毀釈のルーツは真言宗(高野山)にありということになる。だから天皇が「献花」していたのではないでしょうか。
高野山は神仏習合の祖とも言える修験道の発祥の地(聖地)が含まれない世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にも含まれている。

 契沖ー荷田春満ー賀茂真淵ー本居宣長ー平田篤胤

契沖(寛永17年(1640年) - 元禄14年1月25日(1701年3月4日))
江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。
摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。祖父・下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父・元全は尼崎藩士から牢人(浪人)となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざるを得なかった。
契沖は、幼くして摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る。



大人(うし)の考察

四大人で「しうし」。
なんで「大人」を「うし」と読むのだろうか。

大人(うし)の意味
1 学者や師匠を敬っていう語。先生。たいじん.
2 領主、また、主人や貴人の尊称。


これは特別の「特」の字から来ているのではないだろうか。
特という漢字は、「牛」と「寺」で出来ている。
特別なのが寺はおかしいだろ、寺はいらないだろー。ということで寺を排斥した人がいた。
残るは牛(うし)だけである。大きく立派な人に寺は関係なしということで、「大人」に「うし」という読みをあてた。
どうでしょうか、この推理は。

ちなみに私、漢数字の「四」は夢で見たことがあります。
それはこちらに書いています




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by yumimi61 | 2018-11-06 15:25