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やがてそこに。


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後継

契沖ー荷田春満ー賀茂真淵ー本居宣長ー平田篤胤

起承転結ならば転

国学の祖は契沖で、契沖以降の4人を「国学の四大人(しうし)」と言う。みな師弟関係にある。(平田は自称)
契沖は真言宗(高野山)の僧で、荷田春満と賀茂真淵は神職一族の一員、3人は宗教が身近な人物だった。
本居宣長はそうではない。実家は豪商であり、自身は医師となった。

本居宣長
(享保15年5月7日(1730年6月21日)- 享和元年9月29日(1801年11月5日) )
江戸時代の国学者・文献学者・医師。
伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。
契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。

本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。

また、本居宣長は、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」とその背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。



人々から頼りにされ信頼されるであろう医師の本居宣長が、中国の思想を否定し古事記や日本書紀など古い書物にお墨付きを与えて国粋主義に傾いたことが、結果的に古神道(復古神道)ひいては尊王攘夷をもたらし、古代からの日本の長い歴史を葬り去る手助けをしてしまったのではないだろうか。皮肉なことではあるが。


江戸にも店を持つ木綿仲買商を営む豪商に生まれたものの自身は商売に興味なし。
医師になることを目指して22歳で京都へ出て、漢方医学・後世方派の医師である堀元厚や武川幸順(師弟関係)に師事し学んだ。
後世方派は先日書いた陰陽五行説を重視した治療(投薬)を行う。
日本に入ってきて多少変化した部分もあると思うが、ルーツは中国にある中国医学を学んで本居宣長は医師となり終生医師としても従事した。

本居は医学だけでなく儒学(朱子学)も学んでいる。こちらの師匠は堀景山。
一家代々儒学者(朱子学者)であり、堀景山の父親や曽祖父は儒学者であると同時に医師でもあった。
堀景山は同じ儒学者であるが派閥違う(古学派)荻生徂徠とも親しくしており(議論を戦わせることも好んだ)、さらに契沖(真言宗の僧)の学問にも非常に興味を持っていた。
堀景山は荻生徂徠より22歳年下で、契沖よりは46歳も年下であり、同年代の仲間というよりは学問の先輩方ということになろう。
本居宣長は堀景山よりもさらに42歳年下である。
師弟関係があるような世界では当然に人間関係は濃密であり、亀の甲より年の功という言葉もあるように、多少派閥や領域が違っても長年の経験や学びは重んじられる世界であろうと想像できる。
後の者が右であるものを左と言い、左を大成させるのは容易なことではない。

堀景山は本居宣長を数年間自宅に寄宿させて儒学を教えていたらしいが、本居はこの時に契沖の『万葉代匠記』などを教えてもらっていた。
これが国学に傾倒する1つのきっかけでもあったという。


万葉集の校訂本と契沖と徳川光圀

『万葉代匠記』
江戸時代の国学者・契沖が著した『万葉集』の注釈・研究書。
「代匠」という語は、『老子』下篇と『文選』第46巻豪士賦の中に出典があり、「本来これを為すべき者に代わって作るのであるから誤りがあるだろう」という意味である。
当時、水戸徳川家では、主君の光圀の志により、『万葉集』の諸本を集め校訂する事業を行っており、寛文・延宝年間に下河邊長流が註釈の仕事を託された。長流が病でこの依頼を果たせなくなったときに、同好の士である契沖を推挙した。


下河邊長流は、江戸時代前期の歌人・和学者。

やるべき者でない者が行ったせいか、『多くの時代が誤ってるだろう記』なんて大胆な(?)謙虚な(?)タイトルを付けた国学の祖・契沖さん。
その書物に魅せれた堀景山と本居宣長!?

時代はだいぶ下り、万葉集時代からは1000年の時を優に超えて、もはや江戸時代まで来ている。
そもそも『万葉集』は歌の寄せ集めである。
あちこちから寄せ集めて完成した『万葉集』も原書(原本)は残っていない。
すでに幾つかの『万葉集』が存在していたか、これぞという『万葉集』に物足りなさか心許なさを感じたのだろう。
幾つかの万葉集、さらには他の伝本や異本などと比べ合わせ、語学的な検討を加えたりして、よりよいと思われる形に訂正する校訂という作業を水戸藩の徳川光圀が行わせたというのだ。

水戸德川家の徳川光圀(1628-1701年)は水戸藩の第2代藩主。後世において「水戸黄門」として有名になった人である。徳川家康の孫にあたる。
儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎を作った人物として知られている。
幕末の尊王攘夷という思想(君主を尊び、外敵を斥けようとする思想)は水戸学や国学に影響を受けており、国粋主義にも繋がった。
すなわち、これも皮肉なことだが、大きく見れば水戸黄門(徳川光圀)が討幕(倒幕)の基礎を作ったとも言えてしまうのだ。

しかしながら徳川光圀は儒学を奨励していたのだ。
儒学は中国の思想・学問であり、朱子学や古学というのは儒学の中の一系統ということになる。
中国は非常に歴史が古く、儒学の思想も紀元前に興っている。
体系化し儒教の始祖と言われる孔子も紀元前500年頃の人物である。

儒学を奨励したということは、中国で興ったものが日本に入って来たことが気に入らないとか、外来物が嫌だととか、そういう発想にはなく、「契沖ー荷田春満ー賀茂真淵ー本居宣長という子弟関係」で興った復古神道や日本固有の情緒こそ文学の本質などという考えも毛頭なかった。


眩しかった朱子学?

後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけての彼らの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。
鎌倉幕府を滅ぼした武将・新田義貞が付いた天皇が後醍醐天皇である。
楠木正成は後醍醐天皇の夢のお告げから後醍醐天皇に付く武将となった人物。修験道の聖地の西側に本拠(城)を構えていたことは以前書いた通り。
江戸幕府も儒学(朱子学)を正学として採用していた。

徳川光圀は1690年(62歳)より隠居に入った。
時代劇と違って隠居時代に全国行脚はしていなかったらしい。
水戸藩領の那須にあった古墳の発掘調査をさせた。これが日本初の学術的着想による発掘だという。
発掘調査に感化されたのか、水戸光圀は楠木正成を讃える墓を建造させた。
古墳の調査を終えた1693年4月、佐々を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川に派遣し、楠木正成を讃える墓を建造させた(湊川神社)。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。

以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。


外来物を嫌った国粋主義者が儒学(朱子学)を信奉していた者を崇敬し祀り上げた。そこには明治天皇も含まれる。


徳川光圀の野望

儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎を作った人物、徳川光圀。
水戸黄門こと徳川光圀の修史事業の目的は名声を得るためだったという。
世が平和に治まっており穏やかすぎて、武士が活躍した時代のように武道では名を残すことが出来ないから。
徳川家康の孫といえど、父は家康の11男。将軍が世襲だとしても後継者になれるような順位ではない。光圀の父親は初代水戸藩主。
藩主では物足りなかったのか。藩主では後世に名が残ることはないと思ったのか、いずれにしても哀しき性である。
水戸黄門として有名になった後には天で喜んだのかな。(水戸代匠記か、とか言ってるかも)

遣迎院応空宛の書簡には、武家に生まれたが、太平の世のため武名が立てられないので、書物を編纂すれば後世に名が残るかもしれない、とも書かれており、後世に名を残すことも目的だったようである。


ねじれ減少?ねじれ現象?

後世に名を残すという野望を持った徳川光圀が万葉集の校訂本の註釈を依頼した歌人の下河辺長流は母方の姓を名乗っていた。本姓は小崎。
小崎氏は清和源氏の傍流で信濃国に土着した片桐氏の家臣であった。

その下河辺長流が病気で出来なくなった水戸藩依頼の仕事を振った先が、真言宗(高野山)の僧の契沖。
何度も言うようだが、徳川光圀は儒学(朱子学)を信奉していた。
真言宗(高野山)も仏教であり中国に学んでいる。

中国の思想を取り入れた人達のした仕事に多大な影響を受けて、外来物を嫌う国粋主義が誕生してくる不思議。





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by yumimi61 | 2018-11-08 17:29