by and by yumimi61.exblog.jp

やがてそこに。


by yumimi61
プロフィールを見る
画像一覧

生まれ(遺伝)と育ち(環境)

神仏分離の歴史

江戸幕府倒幕の志士たちは尊王攘夷派(君主を尊び、外敵を斥けようとする思想。水戸学や国学に影響を受けている)であった。
国粋主義を掲げ明治維新を成功させ政権を奪った後には、明治新政府は全国的に神仏分離・廃仏毀釈を敢行した。
明治元年は1868年である。
出雲大社はそれよりずっと前の1667年に自社(及び近隣の寺社?)の神仏分離・廃仏毀釈を実行している。
徳川光圀も隠居時代に(1693年からの数年間)水戸藩内で神仏分離を行っている。


徳川光圀のアイデンティティ

元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、八幡改めまたは八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。神仏習合神である八幡社を整理し、神仏分離を図ったものである。藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。

徳川光圀は神仏習合神である八幡社が憎かったらしい。

八幡神は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた
早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。


神仏習合の八幡神は清和源氏などの武家が信奉していた。
同じ後醍醐天皇に付いた武将でありながら、実際に倒幕を果たした新田義貞ではなく、楠木正成だけを讃えたということから考えると、徳川光圀は新田義貞が嫌いだったのかもしれない。(新田義貞は清和源氏)
とはいっても、鎌倉時代~室町時代の武将と、江戸時代初期の徳川光圀には直接接点はない。
となれば清和源氏が嫌いだったということになるが、光圀の祖父にあたる徳川家康も清和源氏なので、徳川一族は結局みな清和源氏ということになり自分だって一員である。
武家というアイデンティティが受け入れがたかったという推測も成り立つが、江戸時代は戦争をしない平和な時代であるからして、武家や武道に馴染まなかったのならば良い時代に生まれたと言え、武家を拒絶する理由は薄れる。
そうとなればやはり逆なのだ。武道に恋い焦がれるがゆえ、それを封印した徳川家康を受け入れにくかったのではないだろうか。
新田義貞も鎌倉幕府滅亡をさせたものの足利尊氏などに比べると当初戦いには積極的ではなかった。
德川光圀は武家の家に生まれたがゆえに、戦わない世で上手くアイデンティティを確立出来ず、戦わない者たちに不満を募らせていった。
・幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。
しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる。19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話している。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。


兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたとあるが、この世子とは水戸藩主の後継者のことである。
幼い頃は兄ではなくて自身が後継者と決められたことを複雑に思っていたらしい。


「たたかう」も使いよう

戦わない者と書いて、この歌を思い出した。

『ファイト!』(歌詞:中島みゆき)より
ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
あたし男だったらよかったわ 力ずくで男の思うままに
ならずにすんだかもしれないだけ あたし男に生まれればよかったわ
ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく
諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく
ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ


闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう。
戦いたかった徳川光圀?戦わない徳川家康?
作品というものは少し角度を変えると違うものが見えてくることがある。
前にも書いたけれど、よくアーティストが言う。
「どんなふうに解釈してもらっても構いません」と。受け取る人の数だけ答えがある、というような感じで。
ところが一度何か問題視されると「そんな意味で書いたつもりは全くありません」的なことを言う。
いやいやいやいや、どんなふうに解釈しても構わないと覚悟して書いたのでは?


自己矛盾、自家撞着

徳川光圀の話に戻れば、戦わない者たちに不満を募らせていったであろう徳川光圀であったが、大人になった光圀は武力でもって憂さを晴らしてやろうとか、クーデターを起こそうとか、そういう道には進まなかった。
そこは武家の出身であるからして、自分が有する武力を冷静に見極めたのかもしれない。
光圀は文事に傾倒していくのである。
自分に出来ることがあるとしたらそれは武事ではなくて文事なのではないか、そんな気持ちが芽生えたのだろうか。
「自分に出来ること」の意味。「今この平和な時代に自分が出来ること」という考え方もできるし、「自分の能力と自分のいる環境で自分に出来ること」という考え方も出来る。

そんな德川光圀であったが、隠居後にとある事件を起こしている。

元禄7年(1694年)3月、5代将軍・徳川綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後突然刺したという。現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。翌元禄8年(1695年)1月、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った。

殺害か処罰かーこの問いは徳川光圀が元藩主だからこそ成立する問いであり、下にいる者ならばそれが問われることはまずないだろう。
処罰という絶対的権利を持つ権力者がいた場合、その権力者を処罰することは可能なのか、可能とするならばそれはいったい誰なのか。
権力者が罪を犯すことはないと言えるのか。それとも、ないという前提なのか。
殺害は許されず処罰なら許されるとするならば、戦によって死んでゆく人々、殺されてゆく人々はいったい何なのか。みな処罰されるに相応しい人間だというのか。
德川光圀のこの事件は、それを突きつける。


能舞と能楽

德川光圀が事件を起こしたのは能舞興行の舞台裏だったと書いてある。
能には「能舞」と「能楽(猿楽)」の2種類あるが、「能舞」だったということだ。
あえてその場を選んだのか、何かの因果だろうか。

「能舞」
修験道の修行者(山伏)が演じた芸能。別名「修験能」。
長らく修験道の修行者(山伏)によって演じ継がれてきたものが、村里に伝承され、地元の神職による神楽に移行したり、村人が行ったりして各地に広まった。
しかし明治政府によって修験道は排斥されたため能舞も影を潜め、現在は東北地方に細々と伝承されているくらいである。

「能楽(猿楽)」
猿楽は平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。
「猿楽」のルーツは古代に中国から伝わった「散楽」である。滑稽な物まねや寸劇・曲芸・奇術・幻術などの大衆芸能で徐々に民衆の中へ広がっていった。
平安時代に散楽と土着の芸能が融合した多彩な芸能が生まれ、そのうちの1つが猿楽であった。農耕行事から発生した田楽という芸能も盛んに行われていた。猿楽や田楽は修験道の能舞も取り入れた。
猿楽の能が大きな発展を遂げたのは室町時代の南北朝期。天皇が2人いて朝廷が2つ(京都と奈良)あった時代だが、南朝(奈良)が後醍醐天皇である。
この時期に芸術的に洗練された猿楽の座が奈良を中心に台頭した。
この猿楽の能は武士にも広まって非常に繁栄した。
ところがこれも明治維新により衰亡の危機を迎え、実際に幾つかの流儀は断絶してしまった。
その後、「猿楽」から「能楽」と名を改め、より大衆的な芸能として現在に至る基盤が作られた。
ここにも大きな変化があり、上に書いた通り、能の原点とも言える修験道の能舞はほぼ忘れ去られたが、能楽は日本の誇るべき大切な芸能としてユネスコの世界無形遺産に指定されている。


德川光圀の水戸学の功罪

光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきだが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。結果的には“愛民”の理想からは逸脱してしまった側面も存在し、単純に「名君」として評することはできない。

光圀が彰考館の学者たちを優遇したことにより、水戸藩の士や領民から、学問によって立身・出世を目指す者を他藩より多く出すことになる。低い身分の出身であっても、彰考館の総裁となれば、200石から300石の禄高とそれに見合う役職がつけられた。光圀時代には他藩からの招聘者がほとんどを占めたが、那珂湊の船手方という低い身分から14歳の時光圀に認められ、後に総裁になった打越樸斎がいる。
他藩から招聘者のなくなった後期の彰考館員、後期水戸学の学者は、ほとんどが下級武士や武士外の身分から出た者たちであり、藤田幽谷や会沢正志斎は彰考館を経て立身した典型的な例である。彼ら後期水戸学者にとって光圀は絶大な人気があり、彼らの著作を通じて、光圀の勤皇思想が実態より大きく広められたとの見方もある。




..... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。(yumimi61)

[PR]
by yumimi61 | 2018-11-09 16:18