by and by yumimi61.exblog.jp

やがてそこに。


by yumimi61
プロフィールを見る
画像一覧

ⅢとⅣ

・『グル』の記事に載せた写真の前を走るトラックが何気に気になる?

e0126350_10562879.jpg



アイデンティティの歪み

德川光圀→(万葉集の校訂本の注釈を依頼)→下河辺長流→(病気のため代理を依頼)→契沖

●徳川光圀
武家に生まれ、幼いうちに水戸藩主の後継者に決定したが、兄がいたことや戦わない世だったこともあり、アイデンティティの確立が難しかった。藩主になると文事に注力し水戸学の基礎を作ったものの、最晩年まで心の葛藤はあったと思われる。

●下河辺長流
父方は清和源氏の傍流で信濃国に土着した片桐氏の家臣・小崎氏であったが、母方の姓を名乗っていた歌人。名乗っている姓や光圀が依頼したことから、やはりアイデンティティの歪みを感じさせるものがある。

●契沖
真言宗(高野山)の僧であるので、当然中国由来の仏教を学んでいる。祖父は加藤清正(熊本藩の初代藩主)の家臣で、父は尼崎藩士から牢人(浪人)となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざるを得なかった。

万葉集を通した関係であるが、歌人であり和学者だったのは実際に校訂や注釈に携わらなかった下河辺長流だけであり、徳川光圀は儒学(朱子学)を、契沖は仏教を、学び推奨した側である。


浦と心

ここで国学の祖と言われる契沖が詠んだというある歌に注目してみたい。

和歌の浦に至らぬ迄もきの國や 心なくさのやまと言の葉

わかのうらに いたらぬまでも きのくにや こころなくさの やまとことのは ←この読みでは頭の部分が6音で字余りである。従って浦は音読みでホと読ませるのであろう。

わかのほに いたらぬまでも きのくにや こころなくさの やまとことのは

この歌では漢字2文字にある言葉が隠されている。それは「うら」である。
「浦」の訓読みが「うら」。
「心」は歌語で「うら」と読む。
「心(うら)」は「裏(うら)」と同語源。表に見えないものという意味で、辞書にも掲載されている読みである。
歌語としては「心悲し(うらかなし)」「心若し(うらわかし)」「心無し(うらなし)」などとして用いる。
また占いの「うら」も同語源とされている。

和歌の「浦」に至らぬ迄もきの國や 「心」なくさのやまと言の葉


若野浦から和歌浦へ

「和歌の浦」とは地名のこと。
和歌浦(わかのうら)は和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称。国指定の名勝。
『万葉集』にも詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られないが2011年に漸く国の名勝に指定され、また自然海岸を残す西部の雑賀崎周辺は瀬戸内海国立公園の特別地域に指定されており、其々保護されている。


現在の和歌浦は和歌山県の北西部にある和歌山市に属する。和歌山市は大阪府に隣接する。
熊野三山は和歌山県の南東部にあるので、和歌山県という単位では和歌浦とは反対に位置することになる。三重県熊野市の花窟神社も和歌浦とは反対方向。
ただこれら全て紀伊国(きの國)ではある。

和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が『万葉集』巻六の919番歌に、

若浦爾 鹽滿來者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
(若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る)

と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている。和歌浦には明光商店街があるが、これは続日本紀の明光浦の呼称にちなんでいるものである。


よく和歌の題材にされる地を歌枕と言う。影響力のある人が地名を織りこめば、その地名はよく使われるようになる。
若野浦が歌に詠まれたことにちなんで「和歌浦」と表記した。


歌の意味

和歌の浦に至らぬ迄もきの國や 心なくさのやまと言の葉

和歌の浦(和歌浦)には至らないけれど、紀野国は紀野国である。←これが上の句の意である。
心(こころ・うら)がない有様の大和言葉。←これが下の句の意である。

これを紀野国(和歌山県)内の高野山で学び阿闍梨の位を得た僧の契沖が詠んだからこそ意義深い。


商家の生まれ

契沖の『万葉代匠記』により国学に興味を持った本居宣長は、伊勢松坂(三重県松阪市)の出身。その名の通り、松坂牛の産地。伊勢神宮のある伊勢市と隣り合う市である。
伊勢市や松坂市は古くは伊勢国である。江戸時代には伊勢国の津藩と松坂藩となり、松坂藩はまもなく紀州藩の領地(飛び領)となった。
明治以降、国家神道の中枢に置かれた伊勢神宮であるが、伊勢神宮の領地は紀伊国や紀州藩(紀州徳川家)には含まれない。

尾張・紀伊・水戸は徳川御三家と呼ばれ、江戸時代においては将軍家に次ぐ地位を持っていた。徳川光圀はそのうちの1つ水戸の藩主だったわけだが、前述のように葛藤があった。同じ御三家の尾張や紀伊を意識することも多分にあったらしい。

本居宣長は武家生まれではなく武士でもない。
実家は豪商。松坂市は商業町。伊勢国の商人(伊勢商人)は、大阪商人・近江商人とともに日本3大商人の1つに数えられる。
だが本居宣長は商売に興味がなかった。
戦わない世にて武家に生まれてアイデンティティの確立が難しかったのが水戸光圀ならば、伊勢商人の町で豪商の家に生まれ、商売をするには恵まれた環境にありながら商売に馴染めなかったのが本居宣長である。
本を読むのが好きで医師になることにし京都へ出る。生涯、本を読むことは好きだったらしい。
「本なんか読んでる暇があったら、そろばん弾け」とでも言われたのかなぁ。
今で言えば、理数系ではなくて文系ということになりそうだが、そうなると漢方医学は文系寄りってことになるのでしょうか。
そう言えば現代においても経済学って文系に分類されますよね。
学問と実務の違い? 世の中って難しいですね。


シンパシー

紀の国や花の窟にひく縄の ながき世絶えぬ里の神わざ

本居宣長が詠んだ歌である。

「花の窟」とは三重県熊野市有馬の現在で言うところの「花窟神社」。
すでに書いてきたように日本書紀の本文ではなくて、異説・異書を意味する「一書」の中の1つに登場する記述である。
『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。
神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。


上記の歌の意味は次の2つの意味が合わさっている。
 ・紀の国の花の窟に引く縄によって長く絶えない里
 ・紀の国の花の窟に引く縄は絶えずに長く続くための里の神わざ

通常、神は天にいると考えられている。
古事記などでは、高天原が天上の神の国とされる。それに対して地上の人間が住む世界を葦原中国、地中にあり死者が行く場所とされているのが根の国(黄泉・夜見)。
これらを踏まえれば「里の神わざ」は「人間の技」という意味にとれる。
同じ「わざ」でも「業」ではなくて「技」。

紀の国の里が長く続いているのは、神の思し召しではなく、人間の技によるもの。
本居宣長はその地が選ばれし地的なものであることを肯定しているわけではない。不可侵なものであるとも思っていない。しかしながら人間の技を否定しているわけでもない。むしろ、終わりある人間界にて、死者を埋葬した黄泉を抱えながら、どんな手を使っても長く続いてきたことにシンパシーを感じているのだ。
本居宣長は、死後は黄泉へ行くとした。その黄泉とは汚き他界、現世こそ素晴らしいと説いた。だから人間にとって死は恐怖で悲しいものなのだと。ごく普通に考えても彼は傷病を治す側に立つ医師でもあるので、「死を恐れることはなし、大いに死にたまえ」と言うのではやっぱりちょっと問題があるというか都合が悪いだろう


僕らを繋ぐもの

縄は英語でいうところの rope 。
綱引きの綱と何が違うのかと言えば、綱のほうが太くて頑丈。引きちぎれたりしないのが綱。
一方の縄は細いもの。引きちぎれない保証はない。

その「縄」は、直線を引くための大工道具の一つでもあり、また、正しさの規準でもある。標準や法則のこと。
すなわち、引き縄や手縄は、基準や法則に縛られ、まっすぐに進むことを意味する。
それが、「綱」ではなくて「縄」であることが、ほんの少し、心を揺する。

花の窟には縄が引かれた。
e0126350_22033259.gif


e0126350_22043631.jpg
道の駅スタンプラリー部 
Thunderaceさんの投稿写真

上の絵に似ているが、これは三重県熊野市の花窟ではない。
群馬県中之条町の霊山たけやま(嵩山)に引かれるワイヤーである。沢山の鯉のぼりが泳ぐ。うちの次男が石を拾ってきた山。
向かい側に親都(ちかと) 神社がある。




[PR]
by yumimi61 | 2018-11-11 10:55