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国家と民間のあいだ

神社本庁への流れ

教派神道の1つのはずなのに国家事業である神宮大麻の頒布を任されていたことを批判され、1899年(明治32年)に神宮教(伊勢神宮教)が解散する。
そもそも神宮教が出来たのは1882年に神職の布教活動が原則禁止されたためであり、その前は伊勢神宮として一体で活動していたのであって、神宮教が解散しても元のさやに納まっただけの話である。
同時にこの時、「財団法人神宮奉斎会」という法人(民間団体)も 組織された。

「財団法人神宮奉斎会」・・・1899年(明治32年設立)
伊勢神宮を崇敬し、 皇祖の遺訓を奉戴し、神典を講究し、国体を宣明(宣言して明らかにすること)することを目的とする団体。

「全国神職会」・・・1898年(明治31年設立)
国体を闡明して神社の興隆と神職の向上発展を図ることを目的とする団体である。のちに、「大日本神祇会」と改称。

「皇典講究所」・・・1882年(明治15年設立)
国典を研究し、国体の意義を明らかにし、日本的徳性を有する人材を育成することを目的として、山田顕義・岩下方平らにより 1882年東京に設立された財団法人。 1890年には、国史・国学を研究するための國學院を設立し、神職の養成も行なった。
●初代総裁は有栖川宮幟仁親王。
●初代所長は山田顕義(陸軍軍人・政治家。山口県生)
 1899年(明治22年)に日本大学の前身である日本法律学校を設立(当時司法大臣)、日大の学祖である。
・岩下方平(薩摩藩士・勤王家・子爵。薩摩鹿児島生)


第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)1月23日、上記の「神宮奉斎会」「大日本神祇会」「皇典講究所」の3団体が中心となり「神社本庁」が設立された。 


民間の崇敬団体

前述の愛国心の再生に安堵するという「伊勢神宮崇敬会」は1953年(昭和28年)年12月に「財団法人伊勢神宮奉賛会」の名称で設立している。

●初代総裁は神宮祭主(伊勢神宮の神官の長)や神社本庁の総裁でもあった北白川房子(明治天皇の第7皇女)。北白川房子は1947年に女性初の神宮祭主や「神社本庁」の総裁となり皇籍離脱をしている(北白川宮成久王は先に亡くなっていた)。

●初代会長は佐藤尚武
日本の外交官・政治家。林内閣(1937年2月2日~1937年6月4日)で外務大臣で、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。戦後には参議院議長等を歴任している。
フリーメイソンのメンバーであったと記録に残っている。


「財団法人伊勢神宮奉賛会」は各都道府県に地方本部を置き、事務局は神宮崇敬者参宿所(現在の『神宮会館』)に置かれた。1965年(昭和40年)に「財団法人伊勢神宮崇敬会」に改称した。

【伊勢神宮崇敬会の歴代会長】
●佐藤 尚武(昭和28年~昭和46年)前述

●中野種一郎(昭和47年~昭和49年)伏見市長を経て衆議院議員、京都放送会長、日本商工会議所副会頭、関西経済連合会副会長

●松下幸之助(昭和49年~昭和58年)パナソニック(旧:松下電器)創業者、PHP研究所や松下政経塾設立

●弘世  現(昭和58年~平成8年)日本生命社長、娘はサントリー名誉会長の妻、孫の夫はパナソニック副会長の松下正幸

●細川 護貞(平成8年~平成10年)旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。太平洋戦争前の内閣(第2次近衛内閣)で内閣総理大臣秘書官。

●東園 基文(平成10年~平成18年) 東園家14代当主。伊達邦宗伯爵三男として生まれ、東園基光子爵の相続人となった。妻は元皇族の東園佐和子。戦後、宮内庁掌典長や神社本庁統理などを務めた

●豊田章一郎(平成18年~平成29年)トヨタ自動車名誉会長、日本経済団体連合会名誉会長、トヨタ自動車創業者の息子で妻は三井家出身

●松下 正幸(平成29年~    )パナソニック(旧:松下電器)取締役副会長


吉田松陰と、「松下村塾」の怪

「皇典講究所」が設立された1882年(明治15年)の日本にはまだ内閣や首相は存在していない。
初代は1885年(明治18年)であり、初代首相は伊藤博文(1841年、山口生まれ。政治家)だった。
「皇典講究所」の初代所長の山田顕義(1844年、山口生まれ。陸軍軍人・政治家)や伊藤博文は吉田松陰の松下村塾に学んだ尊王攘夷派。

吉田松陰 1830年生まれ、1859年(29歳)没
幕末の勤王家・思想家・教育者。長州生。
山鹿流兵学師範吉田家を継ぐ。
一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。

京都市左京区の京都府立図書館前には吉田松陰山河襟帯詩碑がある。

長州藩士・杉百合之助の次男。幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士(二十一回猛子の「二十一」の由来は、杉の木を分解すると「十」と「八」で18、三が3で計21。吉田は士と十で21、ロと口で回という意味である)

叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり兵学を修める。1835年に叔父が亡くなったため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。
1857年(27歳)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られるが、松下村塾には「門人帳」のような明確な記録は残っていない

松下村塾は松陰の叔父の玉木文之進が自宅の一間で開いた私塾。
どこにあったかというと、現在の山口県萩市椿東(旧:山口県阿武郡椿東村松本)。

明治時代より以前にはその地域は「松本村」と呼ばれていたらしい。
萩市には松本川という名の川がある。
「松下村塾」という名は「松本」にちなんで付けられたそう。
でもだったら「松本村塾」では?
どうして皆さん不思議に思わないのでしょうか。
吉田松陰にも叔父の玉木文之進にも関連する名の中に「松下」は存在していないのだが。


吉田松陰の国家論

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。

一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。
天下は万民の天下なり、という国家は国民の共有であるし、君主はその国民に支えられて存在するという点からすれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判もある。





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by yumimi61 | 2018-11-17 00:46