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夕焼け小焼け

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『夕焼け小焼け』 中村雨紅作詞・草川信作曲

夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで 皆かえろ
烏と一緒に 帰りましょう

子供が帰った 後からは
丸い大きな お月さま
小鳥が夢を 見る頃は
空にはきらきら 金の星

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『赤とんぼ』 三木露風作詞・山田耕筰作曲

夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か

山の畑の桑の実を
小籠に摘んだはまぼろしか

十五で姐やは嫁に行き
お里のたよりも絶えはてた

夕焼け小焼けの赤とんぼ
とまっているよ竿の先

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●夕焼け小焼けの「小焼け」って何だろうということが話題になることがある。
「小焼け」という言葉は辞書にない。
現在だと、「夕焼け」に重ねて語呂合わせというか音合わせしたもので、響き重視だからそれ自体に意味はないというのが通説になっている。
だけど私は思う。「小焼け」は子供が焼けることだろうと。
子供が焼けると言っても火事で子供が焼けることでも、子供が日に焼けることでもない。
大空を真っ赤に染める夕焼けが、外で遊んでいる子供たちをも赤く染めあげるという意味。
子供は小児ともいうくらいで「小」で表すことが出来る。大人の「大」の対照となる。

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『大漁』 金子 みすゞ

朝焼小焼だ、大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の大漁だ
浜は祭りのようだけど、 
海のなかでは何万の、 
鰮(いわし)のとむらいするだろう
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●イワシ(鰯・鰛・鰮)は、狭義には魚類ニシン目ニシン亜目の複数種の小魚の総称である。
小魚の代名詞となるイワシだけど、大羽鰮(オオバイワシ)はイワシの中では大型。
そんな大型のイワシがたくさん収穫できたので、浜で人間は祭りのように喜んでいる。
だけど大型のイワシとはいえ、海の中に行けば小魚に過ぎない。
金子みすゞの詩は、夜郎自大な人間の滑稽さを映し出しながら、一方で人間という生態系の頂点を自負する者の弱さを垣間見ている。

弱肉強食の世界ではイワシは弱に属する小魚。
そのイワシを人間の漁によって一時に沢山失うということは、生態系が崩れるということになる。
イワシを食していた魚が飢えてしまうということだ。
だから金子みすゞは、それを海の中の悲しみとして、「何万のイワシの弔いをするだろう」と表現する。
しかしそれだけではない。
イワシの中では大型であるオオバイワシを人間の漁によって失ったことによって、代わりにもっと小さなイワシの沢山が他の魚たちに食されてしまうだろいうことを想像する。
この場合の「何万のイワシ」はオオバイワシの代わりに他の魚に食べられるイワシを意味する。
一種類を多少失ったところで飢えて死んだりはしない魚や弱肉強食の多様性や逞しさに思いを馳せる。
感傷的に振りながら、一方では現実を引き寄せる。

人間は長い期間子供を守り育てる生物である。弱い者を保護すると言い換えてもよい。
でも弱肉強食の世界では、弱い者は、たとえそれが子供であろうとも、食される運命にある。
全く別の性質を持つ、ある意味全く別の世界に生きている両者が、土足でその別の世界に踏み込むことの危うさを感じさせもする詩である。


●今日は「鬼は外~福は内~」という掛け声でお馴染みの節分ですね。
豆まきをしたり、イワシを食べたり、ヒイラギイワシを門戸に飾ったりしますね。
私が子供の頃には豆やイワシを食べる他にも、節分の豆と梅干に熱いお茶を注ぐ「福茶」を母が作ってくれて飲んでいました。

季節あるいは年を分ける「節目」である「節分」。
鬼という漢字は死者の首を持って踊る様子を形にした象形文字。
「鬼籍」という言葉もあるように、鬼は死を意味していることが分かる。
鬼籍とは死者(漢語で言う「鬼」)の籍であり、仏教や民間信仰などで地獄の閻魔大王の手元で管理されているとされる書類である。

子供は弱く怖がりであるというのは間違いない。しかし一方で子供という生き物は非常に怖いもの知らずでもある。
子供は死に近い場所にいる。子供ば大人よりもずっと簡単に別種のものと(それが死者であっても)仲良くなれる素質を持つ。
そんな子供を大人が見ると大層怖く感じてしまう。大人は「怖いもの知らず」に「怖さ」を見ているから。
子供の時には全く平気だった高所やスピード、水や太陽などが大人になると苦手になるという話はよく聞く。
この世には怖いものがあることを少しずつ知り、後先を考えるようになり、守るものができることによって、子供の頃には怖くなかったものを怖いと感じるようになる。
一方で子供が心底「怖い」と思っているものを、大人はそんなの全然「怖くない」と思っている。
大人と子供は別の生き物と言ってもよいくらいに異なる性質を持つ。

節分は、怖いもの知らずの子供に怖いものや痛いものがあることを教える。
節分は、大人が怖いと思っているもの(鬼の仮面や鬼役の人ではなくて死)(もっと純化すれば弱く保護すべきものの死)を遠ざけることを願う行事でもある。

弱いものの頭(鰯の頭)を差出し、トゲトゲが痛いヒイラギを飾って(ちなみにヒイラギというトゲのある小魚も存在する)、あの世から子供を迎えに来るのを防ぐ。
節分の豆は炒った大豆。
豆という漢字は、中国古来の高坏状の皿や鉢の上に穀物を載せた様子の象形文字。高坏状の皿や鉢は祭器でもあった。
現代において「豆」は小型や子供といった意味合いにする時に使われるが(例:豆電車・豆電球)、「大豆」にはそれと逆行するような「大」の字が付けられている。大いなる豆という意味だそうだ。
大豆は植物の中で唯一、動物や魚の肉に匹敵するだけのタンパク質を含有している。
人間の身体をつくったり、人間の生命維持にはタンパク質が必要である。
オオバイワシではないけれども、小型の代名詞である豆の中では大型というか大きな存在であるのが大豆。しかし炒ってしまった大豆が芽を出すことはない。いわば生命力(連鎖力)を失った大豆。
その大豆を自分達の代わりに鬼(死)にくれてやることで、生命力溢れる子供達を守る。
一方で私達人間は年相応に死を受け入れなければならない。それは連鎖のためでもある。だから生命力を失った大豆を年の数だけ食べる。





by yumimi61 | 2019-02-03 11:21