人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

渡し

佃渡しで 吉本隆明

佃渡しで娘がいった
〈水がきれいね 夏に行った海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまって揺れてるのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった
〈これからは娘に聴こえぬ胸のなかでいう〉
水は𪐷*くてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ堀割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてとりに行った
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいった
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢のなかで堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘には云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる



𪐷* ’くろ’と読む。黒味を帯びた黒、真っ黒という意味らしい。吉本の作った個人文字らしいが、詩が教科書に掲載されたことでJISコードなどに採用された。黝’くろ’(青みを帯びた黒)を意識した字ではないかと思われる。


佃渡しとは

佃渡しとは隅田川に存在した渡し(場・船)のこと。

徳川家康が江戸へと移封されると江戸の町は大きく発展を見せたが、防備上の関係で橋の架橋が制限されたこともあり、市街地を南北に分断する隅田川を渡河するために多くの渡しが誕生した。
関東大震災以後、震災復興事業に伴う新規の架橋も自動車や市電の通行も可能な橋も増え、1966年(昭和41年)に廃止された「汐入の渡し」を最後に、公道の一部としての隅田川の渡しは姿を消した。
現在では東京都北区志茂にある日本化薬東京工場と、対岸の足立区新田にある日本化薬東京を結ぶ従業員専用の渡船のみが存在する。


佃の渡しは隅田川でも海に近い下流(河口)にあった。

現在の佃大橋付近にあった渡し。はじめは佃島の漁民たちと湊町(湊)とを結ぶ私的な渡しであった。佃島は漁村のほか、藤の花の名所でもあったため、江戸期には不定期に渡船が運行されていたが、日常的に運行されることはなかった。
明治期に入り、佃島や石川島、月島に造船所などが生まれると従業員のための重要な交通機関として発展し、明治9年の運賃記録によると1人5厘の料金だったようである。1883年(明治16年)には定期船の運行が開始、1926年(大正15年)に運営が東京市に移管された。翌昭和2年3月には無料の曳船渡船となった。一日に70往復という賑わった渡しであったが、1964年(昭和39年)8月27日、佃大橋(約800メートル)架橋に伴い廃された。
架橋後は造船所を中心に更に大きく賑わい、混雑した。



隅田川の河口部にはもともと島が存在していた。その島は江戸時代に石川島と呼ばれるようになる。
徳川家康と同時期に江戸に移住した摂津国の漁夫たちが、1645年、石川島近くの砂州に築島して定住することとなり、この島を故郷である佃村にちなんで「佃島」と命名した。
江戸(現在の東京)の佃島の漁民の故郷は大阪の佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)である。徳川家康が命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えたのである。


佃は佃煮の発祥の地である。
佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれる。 

明治時代に佃島の南を拡張し、造船所が作られた。
現在の佃大橋の東側の部分である。
そんな佃だが1980年代後半からは「大川端リバーシティ21」が整備され、東京都心に至近の高級タワーマンション街の先駆けとなった。
佃大橋の西側部分も明治時代に埋め立てられ、富国強兵の国策に伴い重工業地帯とされ、造船所に関連する鉄工所や機械工場が多数造られた。これが月島である。
吉本隆明は月島の出身であるが、実家は熊本県から転居してきた船大工だったという。
月島の反対岸は聖路加国際病院などがある所。

東京の中心部にあり、造船所や鉄工所など軍事産業を抱え、さらに家屋も密集していながら、佃と月島一帯は戦時中の東京大空襲の被害を受けなかった。
運河が延焼を食い止めたと言われることもあるが、延焼被害でなくとも狙われたら被害がでるだろう。要するにその地はターゲットにならなかった。それはアメリカ公使館や居住地が聖路加国際病院近くにあったからだとも言われる。


作者の娘

上に載せた詩はまだ佃渡しが存在していた時代ということになる。
詩は橋が出来る直前頃に書かれた(あるいはその頃の出来事)のようだ。
作者の吉本隆明は1924年生まれなので、子供時代は戦前であり、思春期~青年期が戦争真っ只中にあったという世代で、佃大橋が架かった1964年には40歳だった。
2人の娘がいて、1957年と1964年生まれらしいので、詩の中の娘は長女ということになりそうだ。

佃大橋が架かった1964年に生まれた次女は、1987年に『キッチン』で鮮烈デビューして「ばなな現象」と呼ばれるブームまで起こした作家のよしもとばななさんである。『キッチン』の他、『TUGUMI』『アムリタ』などの代表作がある。


解説求む

作者が思想家であったという先入観が邪魔するのか、思想家ゆえの難解さや拘りなのか、分かりそうで分からないなかなかに難しい詩であると思う。

まず〈 〉の使い方に躓く。
娘がいった、という後に続く〈水がきれいね 夏に行った海岸のように〉は話し言葉(会話文)のように思う。
しかしその直後の会話文ともとれる部分に〈 〉は付いていない。
さらに〈これからは娘に聴こえぬ胸のなかでいう〉が会話文だとも思えない。
そもそも詩であるならば会話文にカッコを付けなくても成立させることは出来る。
意味なく〈 〉を付けたとも思えないが、そこにどんな意味を持たせているのだろう。
誰か分かる方いらっしゃいますか?


紡ぐと噤む

私は、’娘に聴こえぬ’の前の部分を娘との会話だったと考えている。
娘と会話したけれど幼い娘には届かなかった言葉があった。
「そんなことはない、みてみな。繋がれた河蒸気のとものところに芥がたまって揺れてるのがみえるだろう。 ずっと昔からそうだった」
「あれは鳶だろう。むかしもそれはいた。流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)をついばむためにかもめの仲間で舞っていた」
届かないというのは分かりようもないことであったり、理解を得たり共通認識を持つことが不可能であること。

娘は風景を見て感じたことや興味を持ったことがあった。
作者は娘の興味や関心に応えてあげたかったが、残念ながら娘と意思疎通することはできなかった。
だから言葉に出すことを諦めて自分の胸の中で言うことにした。

3連目は、作者の方から娘に話しかけたこと。
「あれが住吉神社だ。佃祭りをやるところだ。あれが小学校、ちいさいだろう」
しかし娘からはこれといった返答がなかったのではないだろうか。
だからそれ以上は口を噤んだ。⇒これからさきは娘には云えぬ

男の女の間には暗くて深い川があると言われるが、哀しいかな、父と娘、世代の違う大人と子供の間にもまた、暗い黒い川がある。

2人の間に無言の時間が流れる。
それは一方、無言が許容されるほど打ち解けた関係とも言える。
言葉にはならないありふれた愛情。

作者は、2人を分かつ川と、その川にかかる愛情に、嵌りこんでしまった。
また作者の人生を2つに分けたのが戦争だった。
消失してしまったものと、消失しなかったもの。
消失していくだろうものと、消失しないであろうもの。
その間を行き来しつつ、抜け出したいと思いながら、抜け出せないでもいる。


~掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪み~

手を繋いだ娘への愛情、拳を握り締めるほどの怒りの感情、勉学と精神活動、生きるか死ぬか、肉体的死と精神的死。

大きく見えたものが小さくなった。自分の成長であったり立身出世によって小さく見えることもあれば、認識やそれによる失望によって小さく見えることもあるだろう。

知らないで、分からないでいることの、幸福。
知ることの、分かることの、分かち合うことの、幸福。





by yumimi61 | 2019-04-09 14:23