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煩悶

夏目漱石が作家になるまで

夏目漱石、1867年(明治への改元の前年の慶応3年)、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれる。

1886年(明治19 年)に公布された帝国大学令によって帝国大学が設立される。

1889年(明治22年)、大学予備門予科の同窓生であった正岡子規と出会い、以後多大なる影響を受ける。

1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された。

1890年(明治23年)9月、帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科に入学。

創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。このころから厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

1892年(明治25年)4月 - 兵役逃れのために分家し、北海道に籍を移す。
         5月 - 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。

1893年(明治26年)3月、正岡子規が大学を中退する。

1893年(明治26年)7月 - 帝国大学卒業、大学院に入学。
         10月 - 高等師範学校(後の東京高等師範学校)の英語教師となる。

1894年(明治27年)2月 - 結核の徴候があり、療養に努める。

漱石は帝国大学を卒業し高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。

1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年) 4月17日、日清戦争。

1895年(明治28年) 4月 - 松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄(夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授)の口添えで赴任。松山は正岡子規の出身地でもあった。
         12月 - 貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子とお見合いをし、婚約成立。

1896年(明治29年) 4月 - 熊本県の第五高等学校講師となる。
          6月 - 中根鏡子と結婚。
          7月 - 教授となる。

親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。 (ヒステリー症とは解離性障害のこと。『アルプスの少女ハイジ』のクララの立てなかった原因の疾患の1つとして考えられるとして前述したことがある。精神あるいは身体的機能が意識から解離して意思によるコントロールが失われた状態となる。ストレスに満ちた出来事の記憶が欠落してしまう、身体的な疾患が認められないにも関わらず麻痺して立てない、歩けない、声が出ないなどの運動障害、けいれんや知覚麻痺などを生じる)

1900年(明治33年)5月 - 文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる(途上でパリ万国博覧会を訪問)。

1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。同年、12月に帰国。

1902年(明治35年)9月、友人である正岡子規が肺結核にて満34歳で死去。

1903年(明治36年) 4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
          5月、北海道出身の旧制一高の学生・藤村操が華厳滝で自殺した。

第一高等学校の受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。

1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9 月5日、日露戦争。

1904年(明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。

1905年(明治38年)1月 - 「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。

1906年(明治39年)4月 - 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。

1907年(明治40年) 1月 - 「野分」を『ホトトギス』に発表。
          4月 - 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。

1916年(大正5年)12月9日、胃潰瘍にて死去。享年49歳。


職業作家

この頃の職業作家とはフリーな個人事業主としての小説家なりライターではなく、会社に雇われて、その会社の出版する書物に書く事であったということになる。
夏目漱石は朝日新聞社に入社して、朝日新聞に小説を連載していた。
夏目漱石が職業作家になってから死ぬまでの小説は全て朝日新聞上で発表されたものである。


ある青年の自殺が広げた波紋

藤村操
1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日
北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。

1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日、華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された。

厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった。


藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。


悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。



自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった。
自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるものとする説に大別される。
「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している。

彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる。

当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった。


歪んだ恋愛論

夏目漱石が『野分』を発表したのは藤村操の自殺から約4年後のこと。
そしてそれからほどなくして、漱石は一切の教職を辞して朝日新聞に入社して「職業作家」となった。
おそらく昔は、教職(=作家=先生)、という感じだったのではないだろうか。
だからメインとなるべく教職を辞して物書きになるということは、それなりの覚悟が必要だったのだろうと思う。
でも夏目漱石は朝日新聞に入社したからこそ人気作家となり後世に名を残す(紙幣の肖像に選ばれるほど!)作家としての地位を獲得できたのかもしれない。

『野分』は夏目漱石自身を色濃く反映した作品。
前回私は『野分』の主題は恋愛論だと述べたが、夏目漱石は藤村操の自殺の原因が恋愛であってほしいと心底願ったゆえに、主題を恋愛論に置いたのだろうと思う。





by yumimi61 | 2019-05-03 15:57