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1964五輪

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オリンピック選手団到着 羽田空港 昭和39年ー第18回オリンピックがアジアで初めて、東京で開催された。参加国数大会史上最高の94ヵ国、参加選手5558人。羽田空港と浜松町を結ぶ東京モノレールは開会式前1ヶ月を切って、この年9月17日に開通した。 熊切圭介


これ以上の説明はないけれど、「WELCOME to the TOKYO OLYMPICS」の下にアメリカ国旗とオリンピック旗と日本国旗があり、まるでアメリカと日本がホストのようである。
だから一瞬まだ占領中だったっけ?と思ったが、1952年に主権は回復している。
そもそもどうしてアメリカ国旗のサイズが日本国旗よりもオリンピック旗よりも大きいのだろうか?
写真はアメリカ選手団が到着した時のもので、お客様であるから大々的に歓迎の意を示したということ?

ところで今突然思いついたのだけれど・・・
「ほしはいつつのてんでえがく」(前に私は夢で聞いた言葉です)
 ほしは五つの転(ten)で描く。 五輪→十輪 蹂躙?
 ほしは五つの典で描く。 五輪(オリンピック)という祭典?
 ほしは五つの天で描く。 
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安川第五郎~オリンピックと原子力~

1964年東京オリンピックの組織委員会会長は、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力発電初代社長であった安川第五郎である。

安川第五郎
1886年(明治19年)6月2日 - 1976年(昭和51年)6月25日
日本の実業家。安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。玄洋社社員。

安川財閥創始者である安川敬一郎の五男として、福岡県遠賀郡芦屋に生まれる。1906年(明治39年)に福岡県立中学修猷館を卒業する。同期に緒方竹虎、一年先輩に中野正剛がおり、在学中は玄洋社の明道館で柔道を学ぶ。第一高等学校を経て、1912年7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、日立製作所に1年間勤務する。

米国ウェスティングハウスで研修の後、1915年(大正4年)7月に兄の清三郎とともに株式会社安川電機の前身である合資会社安川電機製作所を創設し、モーター・電動機に製品を絞り込んで発展して1936年(昭和11年)に社長に就任する。戦時中は大日本産業報国会理事となり、第二次世界大戦後は1946年(昭和21年)2月に石炭庁長官に就任するが、同年GHQにより公職追放を受けた。

1949年(昭和24年)に安川電機会長に復帰し、1955年(昭和30年)に日銀政策委員、1956年(昭和31年)6月に日本原子力研究所初代理事長、1957年(昭和32年)に日本原子力発電初代社長、1960年(昭和35年)に九州電力会長、1961年(昭和36年)に九州経済連合会初代会長、1963年(昭和38年)に東京オリンピック組織委員会会長、にそれぞれ就く。

1970年(昭和45年)に電力・原子力事業への貢献と1964年東京オリンピック運営に尽力した功績により勲一等旭日大綬章を授与される。


SankeiBiz 2014年5月21日
第五郎は財界随一の「原子力通」となった。31年1月、政府は原子力政策を担う原子力委員会を発足させ、同年6月には特殊法人日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)を設立。第五郎に初代理事長就任を要請した。
 同研究所は茨城県東海村に沸騰水型実験炉(出力50キロワット)を建設し、昭和32年8月27日午前5時23分に臨界を達成、日本に初めて「原子の火」が灯った。

 「この寒村にて数多くの困難を乗り越え、この成果に到達した関係者の苦労と努力に深い感謝と尊敬の念を新たにしております…」
 同年9月18日に開かれた祝賀会で第五郎は約700人の出席者を前に笑顔でこう語り、頭を下げた。

 2カ月後の11月には商業炉の建設・発電を担う日本原子力発電株式会社(日本原電)が設立された。第五郎は研究所理事長を辞任し、初代社長に就任した。各電力会社社員の寄り合い所帯となる日本原電で組織をまとめることができるのは、無私無欲の第五郎しかいなかったのだ。

 ある高名な経済評論家は「バカ者でなければこんな役目は引き受けない」と辛辣に批判したが、第五郎は「1人くらいバカがいなくては新事業は興せない」と開き直った。ちなみに、日本初の商業炉である東海原発建造に際し、安川電機製の電気機械は1台も採用しなかった。

 昭和51年6月25日、第五郎は東京・田園調布の自宅で静かに息を引き取った。享年90。葬儀委員長を務めた第五郎の甥で安川電機会長の安川寛(1903~1999)は弔辞でこう述べた。
 「私たちは、あなたが私心を捨てて尽くされた誠(まこと)が天に通じたことを心から喜び、安川電機を超えて、そびえる大樹を創業者に仰ぐことにひそかな誇りを抱いておりました…」


ウェスティングハウスという会社はアメリカの電機メーカーだった。
電機メーカーだったが放送黎明期に放送局を幾つか開局し、CBS放送(コロンビア放送)のオーナーになり、やがて巨大なメディア会社となり、製造部門は売り払ってしまっていた。その中でも唯一残っていた生産(製造)部門が原子力事業だったのだ。
1950年代以降は加圧水型原子炉(PWR)の開発・製造で独占的地位を占めたことで知られた。
東芝が巨額損失を出すことになったのはウェスティングハウス(原子力事業)の買収がきっかけである。
私はウェスティングハウスについても以前書いたことがある。こちらこちら


玄洋社

安川第五郎は玄洋社のメンバーでもあった。

玄洋社は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。日本で初めて誕生した右翼団体とも。

戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を支援した。ただし「玄洋社の連中がわしが半島に行って乱を起こしてやると吹聴していた」のは、東学党の綱領の中に「排日」があったので、ただの大言壮語であろうと陳舜臣たちは述べている。

玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。

玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。
他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。



ケネディ大統領のメッセージよりもセンセーショナルな放送

1963年11月22日(金曜日)12時30分(現地時間)にアメリカ・テキサス州にて現職大統領だったジョン・F・ケネディがオープンカーで演説会場に向かう途中で狙撃された。
ケネディ大統領は30分後に亡くなった。

日本時間で言えば、狙撃されたのが11月23日(土曜日・「勤労感謝の日」で祝日)の3時30分、死亡したのが4時ということになる。

日本時間11月23日朝、通信衛星を使った日米間初のテレビ宇宙中継(衛星放送)の実験を行うことが政府間で正式合意されていた。
実験放送はNHKとテレビ朝日(当時は東京教育テレビ)で行うこととされ、ケネディ大統領から日本へメッセージが届くはずだった。
実験放送は2回予定されていた。

①午前5時27分42秒~48分(20分間)
ここで予め録画してあったケネディ大統領から日本へのメッセージが送られるはずであった。(衛星放送なのに録画では・・)
ケネディ大統領が亡くなっても、録画なのでメッセージは送ろうと思えば送れたが、実験開始直前の5時14分、NASAは「実験は予定通り行うが大統領の録画は送らない」という連絡を入れてきた。
大統領のメッセージの代わりに送られてきたのは、カリフォルニア州にあるモハービー砂漠の風景など。
最初に送られた映像は砂漠の荒野にぽつんと立つサボテンだった・・・
日本では次のようにアナウンスされた。
「ただ今、砂漠の映像をお送りしています。砂漠の映像をご覧頂いております。どうやら ケネディ大統領がパレードの途中に何者かに狙撃されたようです。もしかしたらこの中継を送ることができなくなるかもしれません。もう一度繰り返します。ケネディ大統領が狙撃されたようです」

②午前8時58分~9時15分(17分間)
宇宙中継にてケネディ大統領の暗殺が報じられた。
「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。その電波にのせてこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのはまことに残念に思います」
実験放送でケネディ大統領暗殺事件をリポートしたのは毎日放送ニューヨーク特派員(当時)であった前田治郎(当時35歳)。貿易商社から毎日放送に入り、アナウンサーとプロデューサーを経て、1963年2月にニューヨーク支局の駐在員になっていた。
前田はニューヨークでケネディ狙撃を知り、情報収集のためABCの国際部に乗りこんだ。
そこで思いがけず、ABCの広報担当者から「2回目の実験放送でケネディ暗殺事件のニュースを日本語でリポートしてみないか」と持ちかけられたのだという。
だがアメリカで実験放送を担当していたのはNBCだった。
ABCの社長がNBCに電話して、NBCの映像にABCにいる日本人特派員(毎日放送)の音声を乗せて放送するように段取りをつけてくれた。

余談だが、ABC本社の所在地はニューヨーク・マンハッタンの西66丁目。現在はウォルト・ディズニーの傘下。


20世紀最大の謎?最大級の謎?

ケネディ大統領の暗殺は多くの謎にも包まれている。
オープンカーでパレードの最中に暗殺されるというテレビドラマか映画の中の出来事のようである。
容疑者が逮捕されたが本人は全面否認していたという。拘留中の尋問調書などは全く残っておらず、逮捕から2日後に警察署で実業家に銃撃されて死亡した。
マスコミが取り巻く中で射殺され、その瞬間も全米で生中継されることとなった。
劇場型犯罪という言葉があるが、この事件は大事件をリアルタイムで見せるという劇場型報道のはしりではないだろうか。

1時間後に逮捕され犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは2日後にダラス警察署でジャック・ルビーに銃撃されて死亡し、法廷に立つことはなかった。
また、翌年に出されたウォーレン委員会の公式調査報告は事件をオズワルドの単独犯行として大統領は後方から撃たれたと結論づけた。しかしこの調査報告に対して数々の疑惑が出るなど長年にわたって真相についての議論が続き、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による現職大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係もわからず多くの謎を残したまま捜査が終了したことから数々の陰謀説が出て、事件から半世紀が過ぎてもなお論議の的となっている。

ジャック・ルビーは1964年3月14日、ダラス地方裁判所で「悪意を備えた殺人」で有罪となり死刑判決を受けた。再審を待っている間、獄中のルビーは精神の安定を欠き「何者かに癌細胞を注射された」「ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す」など不可解な言動が見受けられたという。1967年1月3日、奇しくもケネディ、オズワルドが治療を受けたのと同じパークランド病院で肺癌による肺塞栓症により生涯を終えた。


日本時間11月26日の朝にも再度実験放送が2回行われて、これらのことが報道された。


1964東京五輪は世界初のテレビオリンピック

上記の通り1963年11月にケネディ大統領の暗殺事件で衛星放送の実験放送をしたわけだが、それが1964年10月の東京オリンピックに活かされた。
1964年東京オリンピックは通信衛星を使用した世界初の衛星生中継を成功させた。
とはいっても、実験放送で使われたのはNASAの「リレー1号」という低軌道衛星で、地球低軌道を回るため通信可能時間は3時間程度しかなかった。
オリンピックの時に使われたのはNASAにより1964年8月に打上げられたばかりの「シンコム3号」だった。
1号は故障により失敗、2号は完全には静止しなかった。3号が世界初の静止衛星となった。
ということで通信衛星の種類が違うので厳密に言えば実験放送が直接的にオリンピックに活かされたとは言い難いかもしれないが、劇場型報道となった実験放送が人々の興味を惹きつけたことは間違いないだろう。
そしてテレビオリンピックは、通信衛星の有用性を広く世界の放送・通信関係者に印象付けることにもなった。




by yumimi61 | 2019-05-14 16:25