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コンセッション②

1930年  創価学会創立
1937年7月~ 日中戦争
1938年 立正佼成会創立
1941年12月 太平洋戦争勃発
1945年8月 戦争終結

1948年 立正佼成会が宗教法人として認証される
1952年 創価学会が宗教法人として認証される

創価学会の2代目会長時代の出来事

1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖が創価学会第2代会長に就任した。
戸田は就任挨拶の中で、自分の存命中に75万世帯を学会に入信させるとの拡大目標を打ち出した。


就任した1951年には51歳だった。1951年の日本の男性の平均寿命は60歳だったので、あと10年くらいは生きるだろうと思っていただろうか。
その場合、存命中に75万世帯を入信させるということは、1年に7.5万世帯ペースになる。

(2代目会長が就任した)当時の当時の創価学会はまだ会員数3,000世帯程度の日蓮正宗内でも小さな講中で、挨拶を聞いた当時の学会幹部は「75万世帯などとは途方もない数字だ」と述べるなど、達成できるとは到底信じられなかったという。

しかし戸田城聖の下で、75万世帯を目標にした「折伏大行進」という名の大規模な布教活動が行われ、日本国内での創価学会の勢力は急拡大したが、強引な勧誘の手法は批判を呼び、社会問題化した。 

当時の「折伏」の対象、また入会者は、貧しい人や病人、都会に出てきたばかりの若者が多かったという。
折伏大行進の過程では、学会に入会しようとした家庭に他宗派の仏壇や神棚が置かれていると、それを焼却(謗法払い)するといった行為が、創価学会以外からは奇異に写り、時として大人数で対象者を取り囲むと言った強引さを伴った。長崎県では入信を強要された19歳の少年が飛び込み自殺をするなどした。
1957年(昭和32年)12月の本部幹部会で、戸田は自ら掲げた75万世帯の目標が達成されたと発表した。



当初は創価学会より勢いがあった立正佼成会

立正佼成会は、1948年に18,000世帯の信者がいたそうなので、1951年に3000世帯しか信者のいなかった創価学会の6倍も信者を獲得していたことになる。
また前述したように、宗教法人として認証されたのも立正佼成会の方が4年ほど早かった。

その後も立正佼成会はかなり勢いがあったようで、読売新聞が国会を巻きこんで批判キャンペーンを繰り広げた1956年頃の信者数は33万世帯だった。(それが報道などのダメージを受けて30万に減った)
だが驚くべきことに、創価学会は同じ頃(1957年)に75万世帯という目標を達成したと発表したのだという。
立正佼成会が急速に発展したためにマスコミの餌食となったということだが、創価学会の発表を信じれば、創価学会はそれ以上に急激に発展したことになる。
よってこの数字は俄かには信じ難いし、もしそれが本当ならば、立正佼成会のみならず創価学会の調査もして通告文を発行すべきだっただろう。

1956年の報道などにより教勢にダメージを受けたという立正佼成会だが、杉並区に一大拠点を築いていくのは結局のところその後であり(大聖堂完成1964年、普門館完成1970年)、庭野開祖会長は国際的な活動にも参加するようになる。


立正佼成会と政治(自民党)

庭野開祖会長は1956年に国会に参考人招致されたりもしたが、立正佼成会は自民党との繋がりを強くしていく。
そもそも大規模に土地取得したり、ぎりぎりなところでホールを建設したり、土地取得に不正疑惑があったということならば、政治家との繋がりが疑われる。
立正佼成会問題の国会での追及の急先鋒が社会党の議員だったということからも、立正佼成会には与党である自民党がバックにいた可能性が高い。

自民党は1955年に、鳩山由紀夫元首相の祖父である鳩山一郎によって設立された保守合同政党で、これが今日まで続く自民党の始まりである。
野党第一党であった日本社会党と対立する政治構造は1993年まで続いた。

自民党

1955年(昭和30年)に自由党と日本民主党の保守合同により結成された保守政党。立憲政友会、立憲民政党を遠い起源とし、翼賛体制の中核を担った会派である翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会(以上3会派は日本進歩党の前身)および翼賛体制に批判的な会派である同交会(日本自由党の前身)、護国同志会(日本協同党の前身)、日本自由党、日本進歩党、日本協同党の流れを汲む。

早い話、戦争前夜から戦時中、すべて政党を解党して結成された大政翼賛会という政治結社の流れを汲むということである。


創価学会2代目会長の死と3代目会長の就任

創価学会の2代目会長が亡くなったのは1958年4月、58歳の時。75万世帯の目標が達成されたと発表した僅か4か月後のこと。突然死で、創価学会は「急性心衰弱」と発表したそうである。

池田大作が3代目の会長に就任したのは1960年5月だった。


読売新聞社の立ち位置

読売新聞が立正佼成会の批判キャンペーンを繰り広げたという1956年の社長は正力松太郎である。

東京帝国大学を卒業後に内務官僚になり警視庁へ。
1924年に読売新聞の社長に就任。
1941年の開戦時は大政翼賛会の総務であった。
戦時中の1944年から戦後1946年まで貴族院議員だった。
1955~1969年までは衆議院議員でもあり、鳩山一郎設立の自民党に所属していた。


戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたるアメリカ中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、アメリカで保管されている公文書により判明している。また、自由民主党総裁の座も狙っており、渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役にしていた。
駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。

(駒澤大学は禅宗の1つである曹洞宗がルーツにある)

正力は日本テレビ放送網の設立者でもある。
プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。

立正佼成会を批判した読売新聞のトップ正力松太郎も自民党だったのだ。

「私達はあなたたち(立正佼成会)を握りつぶすくらい簡単だけれども、戦後のこの時代にそんな野暮なことはしない。そこでだ、私達と手を組むというのはどうだろうか。あなたたちにはぜひとも我が党の選挙に協力してもらいたい」←まったくの想像で、私が作った文です。

でもそんな感じで立正佼成会は改めて自民党と手を組むことになったのではないだろうか。

この正力という人がなかなか分かりにくい。
警察、読売新聞の社長、大政翼賛会の総務、貴族院議員、自民党所属の衆議院議員、プロ野球、テレビ、原子力、、、、そしてCIA。
この人が見こんだ渡邉恒雄、読売新聞入社は1950年。でも本当は朝日新聞に入りたかったとか言っている。戦後の1945~1947年、大学生時代であるが、共産党に入党していた。しかしレッドパージ(赤狩り)が吹き荒れる前に自ら離党。


鳩山一郎の次の自民党総裁・総理大臣を狙っていた正力松太郎が、中曽根康弘を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり、中曽根と親密になった。
1982年(昭和57年)の自民党総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた。
早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党員だった。
1966年(昭和41年)の大手町にある国有地払い下げ問題でも、大きな役割を果たしている。


渡邊恒雄が読売新聞社の幹部になった1977年。
1977年というのは偶然にも、朝日新聞社主催の全日本吹奏楽コンクールの中学・高校部門が普門館に固定された年であり、カラヤンが初めて普門館のステージに立ち、ベートーヴェン・チクルスを演奏した年でもある。
読売新聞社の社長就任は1991年。
55年体制が終わりを告げたのは1993年。
細川護煕・非自民党8党連立内閣が成立。この政権に創価学会の公明党が参加しており、国務大臣まで輩出することになった。
1950年代までは立正佼成会にも及ばなかった創価学会だったが、池田3代目会長就任から33年の月日が流れ、創価学会は名実ともに巨大な団体になっていた。





by yumimi61 | 2019-08-29 21:37