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往古来今

無駄骨を折る?

「芥川賞」で名高い芥川龍之介は日本一有名な作家であろう。
ではあなたはその著作をどれくらい読んだことがありますか?
おおかた、タイトルが挙がるのは、教科書に掲載されたこともある定番作品(有名作品)『羅生門』『鼻』『蜘蛛の糸』程度ではないだろうか。
しかも、それがどういう話だったかと訊かれれば、これまた(さてどういう話だったっけ・・?)というような感じになるではないだろうか。

私は読書が足りないとか覚えが悪すぎるとか言いたいわけではない。
私自身はたぶん上に挙げた定番作品よりもう少し読んだことがあると思う。
でも私も、1つ1つどういう内容だったかと訊かれれば、ほぼ即答は出来ない。
なにも芥川作品だけではない。
私が買って今なお家の本棚に収まっている、芥川より新しい時代の作家の小説だって、どんな話だった?と訊かれれば、どれもこれも答えることは出来ないと思う。
つまり読んだ本の大部分は、その内容をことごとく忘れていく。

だとしたら、身を削りながら(?)、話を組み立て言葉を選び、推敲を重ねて完成させた小説に、いったいどれほどの意義があるのかという話にもなりかねない。
このことは、「学校の勉強が将来何の役に立つのさ」という話にも通じるものがあるかもしれない。


記憶(記録)と意識の関係

テレビでドラマを観ていたら、「刑事さんたちは保育園や幼稚園の先生のことをどれほど覚えていますか?覚えていないでしょ。私達はその程度のもなんです」というようなセリフ(保育園の先生役)があって、私はその言葉が胸に刺さった。
自分が保育園や幼稚園の時だった時の先生を覚えていますか?
確かに誰一人覚えていない。
名前、顔の輪郭、人物像、何もないに等しい。先生に教えてもらったこと、先生と遊んだこと、全く記憶にない。
ただ私はその時代に病気で入院をしたことがあり、何か月か園を休んでいた。復帰した時に園の先生の1人が私の登園手帳(出席ノート)にシールをいっぱい貼ってくれた出来事は覚えている。でもその先生の名前も顔も覚えていない。
登園していないのでシールが貼られなかった白いだけのカレンダーページがあったのだけれど、そこをどんどんシールで埋めてくれたのである。
今思えば、そんなことをしたら登園手帳の意味が全くないと言えばないんですけどね(笑)。
小中校だと誰一人覚えていないということはないけれど、覚えていない先生の方が多いと思う。

では何がどうやって強固な記憶に繋がるのだろう。
英語の覚え方ではないけれど、動きか、単純な反復か。それとも意外性か。個人の精神や感情と関係があるのかないのか。記憶もまた誰もが等しく経年劣化していくに過ぎないのか。

どちらにしても人は記憶というものにやや信頼を置きすぎなのかもしれないと思う。
人間の記憶なんて’その程度のもの’である。
だからこそ記憶媒体(記録媒体)が発達したとも言える。
記憶媒体(記録媒体)は人間が記憶を失うことを防ぐ。
だけどもともとが「その程度の記憶力しかない人間」だから、当然のことながら記憶媒体(記録媒体)によって人間の記憶は大きく左右されてしまう。
そのうえ人間は、記憶媒体(記録媒体)を用いて、いかようにも出来事を作り込んでいくことが可能である。
よって記憶媒体の出来事が事実と言えるかどうか、記憶媒体によって補強されている人間の記憶が正しいものかどうかと言えば、怪しいと言わざるを得ない。
少し前に、悲しみという実体のない意識が創り出した世界について書いたけれど、事実(記憶・記録)と意識の世界もボーダレスである。


河童には耳がない?

私は今回、芥川龍之介と河童について書くために、『河童』を読み直した。
そして大変驚いたことがあった。
河童には耳がないと書かれていたのだ。
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耳がない?
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耳がないと書かれていたのは、河童の国に迷い込んだ主人公が詩人の河童と音楽会に行く場面である。17に分かれた章の7章目。

(略)
 クラバツクは盛んな拍手の中にちよつと我々へ一礼した後、静にピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に自作のリイドを弾きはじめました。クラバツクはトツクの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才ださうです。僕はクラバツクの音楽は勿論、その又余技の抒情詩にも興味を持つてゐましたから、大きい弓なりのピアノの音に熱心に耳を傾けてゐました。トツクやマツグも恍惚うつとりとしてゐたことは或は僕よりも勝つてゐたでせう。
(略)
 クラバツクは全身に情熱をこめ、戦ふやうにピアノを弾きつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのやうに響渡つたのは「演奏禁止」と云ふ声です。僕はこの声にびつくりし、思はず後をふり返りました。声の主は紛れもない、一番後の席にゐる身の丈抜群の巡査です。巡査は僕がふり向いた時、悠然と腰をおろしたまま、もう一度前よりもおほ声に「演奏禁止」と怒鳴りました。それから、――
 それから先は大混乱です。「警官横暴!」「クラバツク、弾け! 弾け!」「莫迦!」「畜生!」「ひつこめ!」「負けるな!」――かう云ふ声の湧き上つた中に椅子は倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけに誰が投げるのか、サイダアの空罎や石ころや噛ぢりかけの胡瓜さへ降つて来るのです。僕は呆つ気にとられましたから、トツクにその理由を尋ねようとしました。が、トツクも興奮したと見え、椅子の上に突つ立ちながら、「クラバツク、弾け! 弾け!」と喚きつづけてゐます。のみならずトツクの雌の河童もいつの間に敵意を忘れたのか、「警官横暴」と叫んでゐることは少しもトツクに変りません。僕はやむを得ずマツグに向かひ、「どうしたのです?」と尋ねて見ました。
「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来画だの文芸だのは……」
 マツグは何か飛んで来る度にちよつと頸を縮めながら、不相変静に説明しました。
元来画だの文芸だのは誰の目にも何を表はしてゐるかは兎に角ちやんとわかる筈ですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行はれません。その代りにあるのが演奏禁止です。何しろ音楽と云ふものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。
「しかしあの巡査は耳があるのですか?」
「さあ、それは疑問ですね。多分今の旋律を聞いてゐるうちに細君と一しよに寝てゐる時の心臓の鼓動でも思ひ出したのでせう。」
(後略)


これはいったいどういうことか。
河童という生き物には耳がないということなのか。
それとも、音楽を聴く耳を持たない河童もいるという意味か。
あるいは作曲者や演奏者など音楽家の中には耳がない者がいて、ひどい演奏がされることもあるから、演奏禁止があるという意味か。
河童と主人公の会話が成立しているということは、河童という生物に耳(聴力)が全くないとは思えない。
ということは、聴く耳のない河童がいる、誰にでも分かる良い音楽を提供できる耳を持たない河童の音楽家がいるということか・・・
でもそうだとしたら、画や文芸を見る目がない河童がいたっておかしくないと思うのだけれど・・・
ならば、耳を持たない音楽家はいるけれど、目を持たない画家や文芸家はいないということ?


何のために、誰のために、書くのだろうか

芥川龍之介が執筆活動を始めたのは1914年。東京帝国大学在学中のことである。
そして翌年1915年には『羅生門』を発表した。
上に教科書にも掲載される定番作品(有名作品)として挙げた芥川龍之介の代表作は初期のものである。

『羅生門』 1915年10月
(1915年12月に夏目漱石門下生となる)
『鼻』   1916年1月  ←この作品を夏目漱石が絶賛
『蜘蛛の糸』 1918年
 ・
 ・
 ・
『河童』 1927年
『蜃気楼』『歯車』『或阿呆の一生』『西方の人』『続西方の人』 1927年
自殺 1927年

※1922年には自殺を決心したことを小穴隆一に打ち明けようと思っていた。
1925年に実際に打ち明けた。


書いたからといって読まれるかどうか分からず、読んだからといって理解されているかどうかは不明で、読んだと言っても記憶には残らない。
いったい何のために、誰のために書くのか、そう思っても不思議はない。


夏目漱石なくして芥川龍之介なし

夏目漱石の門下生になった後に発表した最初の作品を夏目漱石が絶賛したという。
ではどのように絶賛したのか見てみよう。

サライ
夏目漱石、無名の文学青年・芥川龍之介の短編小説に仰天する【日めくり漱石/2月19日】
より
《あなたのものは大変面白いと思います。落ち着きがあって巫山戯(ふざけ)ていなくって、自然そのままの可笑味(おかしみ)がおっとり出ている所に上品な趣があります。それから材料が非常に新らしいのが眼につきます。文章が要領を得てよく整っています。敬服しました。ああいうものをこれから二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。しかし「鼻」だけでは恐らく多数の人の眼に触れないでしょう。触れてもみんなが黙過するでしょう。そんな事に頓着しないで、ずんずん御進みなさい。群衆は眼中に置かない方が身体の薬です》

芥川龍之介の短編小説『鼻』を激賞する、日本文学史上、不可欠の手紙である。


『鼻』を読んだ夏目漱石が芥川龍之介に宛てた手紙だそうだが、大衆受けしないということが思いのほかはっきりと書かれており、私はこれを一般的な意味での絶賛や激賞と捉えるには少し抵抗があるが、いかがでしょうか。

この手紙によって、まだ一介の文学青年に過ぎなかった龍之介は大きな自信を得た。創作に取り組む心構えというものも教えられた。加えて、このあと続けて、一流雑誌の『新小説』や『中央公論』から龍之介のもとに執筆依頼が舞い込む。これも漱石の推薦があったことは想像に難くない。前者は漱石門下の鈴木三重吉が編集顧問に名を連ね、後者は漱石山房に頻繁に出入りしていた滝田樗陰(たきた・ちょいん)が編集長をつとめていた。

こうして、まもなく龍之介は大正文壇の寵児となっていく。のちに、この時期のことを回想し、龍之介は次のように書いている。

《夜は次第に明けて行った。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡していた。市場に群(むらが)った人々や車はいづれも薔薇色に染まり出した》(『或阿呆の一生』)

漱石のもとに出入りする前の龍之介は、『羅生門』などの佳作を発表しても、仲間うちからもまったく評価されなかった。それどころか、かえって「小説を書くのはもうやめたらどうか」と意見の手紙を出してくる者まであったのである。


素晴らしい作品であるが大衆受けはしないと断言し、しかしそんなことは気にせずに邁進すべきとアドバイスしておきながら、広い市場に引っ張り出したのもまた夏目漱石だった。
「私は作品を評価しないし、大衆受けもしないであろう」、そう言われれば諦めが付いたかもしれないし、あるいは反発心がバネになったかもしれない。
でもそうではなかった。ある意味、生殺し、生煮え状態に置いたのである。
群衆は眼中に置かない方が身体の薬です、そう書いておきながら、群衆の目前に引きずり出した。
そのことをどのように受け取ったらよいのか、若い青年はどう感じただろう。
そしてその夏目漱石は、芥川が市場デビューしたその年、つまり1916年12月には亡くなる。
船頭もいないオールもない船は、徒広い海を彷徨うしかなかったのではないか。


感性を仕事にすること、個人の幸せを追求することの難しさ

――彷徨う作家、芥川は煩悶したはずだ。

大衆に受けずとも、大衆に嫌われても、自分の書きたいものを書いていくべきなのか。
命を削って、お金にも名誉にもならないものを、なぜ書く必要があるのだろう。はたして書き続けることが出来るんだろうか。
いやそうではなくて、命を灯し続けるために書かずにはいられないということか。

それともやはり大衆に迎合すべきだろうか。
お金も名誉も手に入れれば、幸せな人生が待っているのではなかろうか。
大衆に歓迎されないものは自己陶酔と自己満足にしか過ぎない霞のようなものかもしれない。
そもそも生活していくにはお金や物質が必要であろう。それを得るために書くならば結局、大衆に迎合しても己のために書くということに他ならない。
いや違うかもしれない、一人ならもっと気楽であろう。家族を養うために稼がなければならないのだ。
書くことは信念でも思想でも風刺でも批判でも評論でもない、ただ単に仕事であるということかもしれない。




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by yumimi61 | 2019-09-15 11:07