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混迷

太宰ふたたび

芥川龍之介の有名な作品は、東京帝国大学在籍中含め初期に書かれたものが多い。
一方の太宰治の有名な作品は、井伏鱒二の伝手で教師と結婚(1939年、29歳の時)した以後の後期に書かれたものが多い。
現代の教科書に掲載される非常に優等生的な作品にして超有名作品『走れメロス』は1940年に発表された作品である。
時代的にはすでに日中戦争の最中で、太平洋戦争勃発の1年半ほど前。

以前も書いたが復習。
太宰治の実家は青森県の大地主で、父親は政治家でもあった。金も権力もそこそこある恵まれた家庭に生まれ育った。
芥川龍之介の書物などを愛読する文学少年で、自身も小説家を目指し、旧制中学時代には同人誌を発行していた
東京の旧制一高には行けず、旧制弘前高校に進学するも、この学校は左翼の活動が盛んだった。
太宰は芥川の自殺に衝撃を受け様々な面で変質する。花柳界(芸者・遊女などの社会)に出入りしたり、左翼の活動に足を突っ込み、小説も左翼的なものを書いたり、自殺未遂も起こした。
しかし何事もなかったかのようにロスなく東京帝国大学へ進学し、小説家・井伏鱒二の弟子になったのが1930年。

太宰は旧制高校時代に出入りした花柳界で出会った芸者と恋仲になり結婚を前提でずっと付き合っていたが、芸者との結婚は実家が猛反対していた。
自身が上京後は呼び寄せて同棲を始め、2人は非合法左翼活動にも関わっている。
この活動がばれて太宰は実家から除籍されて、2人は引き離される。
その後、太宰は3回しか会ったことのないカフェの女性と自殺。
女性は死んで、太宰だけが生き残る。
しかしその自殺未遂をきかっけに引き離された2人は再会し、仮祝言(内輪の結婚式)に漕ぎ着ける。但し入籍は認められなかった。これも1930年の出来事である。

大学卒業が怪しくなってきた太宰は1935年3月に都新聞社(現:東京新聞)の入社試験を受けるが不合格となり、また自殺未遂を起こす。
結局大学は1935年9月に学費未納のため除籍となった。
第1回芥川賞は1935年。太宰治は『逆行』と『道化の華』の2作品が予選候補になっていた。どちらも1935年上期にに発表された作品である。
しかしながら芥川賞は取れなかった。選考委員の川端康成から私生活問題発言もなされた。そしてまた不安定になり、鎮痛剤中毒になり、1936年には精神病院にも入院させられることになる。

太宰が不安定で生活も落ち着かないという悩みもあったのだろうか、太宰が入院中、同棲相手(事実婚)の女性が太宰の姉の夫と不倫関係に陥る。翌1937年、太宰の姉の夫が2人の関係を太宰に告白。そして太宰と同棲(事実婚)相手の2人が水上温泉で自殺を図るも未遂で終わる。しかしこれをきっかけに2人は同棲(事実婚)を解消し別れることになる。
太宰はその後、1939年に結婚した。


太宰治と戦争

1935年8月 芥川賞落選
1939年1月 結婚
(1939年12月 ”春服の色教へてよ揚雲雀”という俳句を創作し結婚する知人に送る)
1940年5月 『走れメロス』発表
1941年6月 長女誕生

1937年7月より日中戦争が始まっていた。
『走れメロス』が諸手を挙げて受け入れられるほど日本は穏やかな時代ではなかったはずだ。
1941年11月、太平洋戦争に突入する1ヶ月ほど前、太宰治にも徴用礼状が届いた。文士部隊への徴用である。


日本の徴兵制度は明治時代に始まった。成人男性の日本国民には兵役義務が課せられることになった。

当初は民の抵抗の多かった徴兵制度も、軍人勅諭や教育勅語による国防思想の普及、日清戦争・日露戦争の勝利、さらには軍隊で支給される食事が当時の貧困層の生活レベルから見れば良質で、有料だが酒保が置かれたという俗な理由もあり、組織的な抵抗はなくなった。
しかし徴兵忌避の感情は自然の感情であるので、さまざまな徴兵忌避対策が庶民レベルで繰り広げられた。
創設当初にあった徴兵免除の規定も徐々に縮小・廃止され、1889年(明治22年)に大改正が行われ、ほぼ国民皆兵制となった(ただし、中等学校以上の卒業後に志願したものは現役期間を1年としたり、師範学校を出て教員になったものは現役6週間とするなどの特例があった)。逆に徴兵が免除される者が少数派になると、かえってそれが不名誉とみなされるようになった。

なお徴兵令の適用年代には地域差がある。本土では1873年(明治6年)だが、小笠原諸島・北海道では1887年(明治20年)、沖縄本島では1898年(明治31年)、先島諸島では1902年(明治35年)になるまで徴兵はなかった(例えば沖縄出身で日清戦争に従軍した者は全て志願である)。このため,例えば鈴木梅太郎や夏目漱石のように、徴兵逃れのために本土から沖縄や北海道へ転籍する者もいた


明治期の徴兵令が昭和時代に入ると前面改正され、兵役法となった(1927年・昭和2年)。
明治時代に義務教育制度を導入し、「教育勅語」に基づく皇民化教育を行い「天皇のために命を捧げることは名誉なこと」だと教え込んだため、多くの人は戦場に行って天皇のために戦うことが当然だと思っていた。
それは天皇の為に戦った戦争に負けても、家族や愛する人や祖先や国民が天皇に命を捧げたり人殺しなどむごいことをしても、なお天皇崇拝を何ら不思議に思わない戦後の状況と酷似している。その精神性は変わっていないのだ、何も。

日本国民男子が20歳になると、とにかく全員徴兵検査を受けなければならなかった。(戦時中の1943年に19歳、1944年に17歳へ引き下げられた)
検査結果により次のとおり、振り分けられる。
・甲種…ただちに軍隊に入営。期間は2年。その後「予備役」として在郷待機。
・乙種…補充兵役。有事以外は在郷待機で普通の生活。たまに教育訓練のために召集がある。
・丙種…補充兵役。身体上にやや難があるが兵役には適すると判断されたもの。有事以外は在郷待機で普通の生活。
・丁種…身体障害者や感染症患者などで兵役に適さない。
・戊種…兵役の判定が出来ない。翌年再検査となる延期者も含む。

この他、職業軍人、志願兵(17歳から可、1944年には14歳に引き下げられた)、義勇隊(男子15歳以上、女子17歳以上)、学徒隊<鉄血勤皇隊・学徒看護隊>(男子15歳以上、女子17歳以上)、現地召集兵や防衛隊や護郷隊(概ね17歳以上)などがあるため、20歳前の少年少女が動員されている。
職業軍人と志願兵以外は強制的なものである。また志願兵も家族や学校や周囲の大人が志願することを強制したり強く勧めることもあったようで半強制的な印象は拭えない。

「召集」とは、現役以外の兵役者を軍隊勤務させることである。
2年の兵役を終えて在郷で予備役になっている甲種や乙種丙種の在郷待機者を呼び出すこと。
有事や欠員の際に呼び出すお知らせの紙が「召集令状」(俗にいう赤紙)である。
呼び出される可能性がある人(兵役者)を在郷軍人と呼んだ。

地域の役所の兵事係は在郷軍人の調査を行っており、基本的な個人情報から、職業・年収・健康状態(けが、病気、入院など)に至るまでの細かな調査書を作成し(在郷軍人名簿)、それを軍司令部に提出していた。
実際に徴兵が可能かどうか見極めたり、どのような技術や特技を戦争に役立たせることができそうかを軍司令部が把握しておくためである。
大本営から各地の軍司令部に動員がかかったときに、どこの誰がその役割に適しているか、動員内容と名簿の照合により綿密に人選され、適した人材が見つかると召集令状が発行された。
もちろん戦争末期は綿密に人選するほどの余裕はなかったと思うが。
どんな職業で、どのような技術や特技を持っているか、これを分業とか得業と呼んだが、そうしたものを持っている人には兵隊ではなく戦争に関連する特定の労働に就かせるため召集がかかることがあった。
徴兵と区別して徴用と呼んでいる。
日中戦争の最中の1938年3月には国家総動員法、翌1939年7月に国民徴用令を公布して国民の職業・年齢・性別を問わずに徴用が可能となる体制作りを行った。
そして徴用として軍需工場をはじめとする重要産業にも大量に動員されていくことになった。
兵役に就かせる召集令状の赤紙に対して、徴用は白紙や青紙だった。

徴用は現実の食料などの物価上昇を無視して、一般国民を国家の命令で転職させて低賃金で働かせるものであったことから、大変評判が悪かった。
当初こそは、徴兵に次いで国家に奉公する名誉が与えられたとする考えもあり、積極的に徴用に応じる空気もあったが、労働環境の劣悪ぶりと度重なる徴用令、そして勤務先の強制的な解散・組織全体の徴用などに伴って、徴用に対する一般国民の反発は高まっていった。
既に1940年(昭和15年)の段階で徴用拒否者が問題化し、徴用の動員令状である「白紙」は、軍隊の召集令状である「赤紙」と並んで人々を恐れさせた。
徴用拒否は1943年~1944年頃には深刻化して徴用制度そのものが崩壊の危機を迎えた。このため、学徒勤労動員や女子挺身隊の名目で学生や女子などの非熟練労働者に対する動員が行われた。



1909年生まれの太宰治は1929年に20歳になった。
太宰は徴兵経験が一度もないというから甲種合格者ではなかったのだろう。
日中戦争が始まった年(1937年)には28歳だった。
そして1941年11月、文士部隊への徴用召集があった。32歳。
しかしその後の区役所の身体検査の結果、胸部疾患のため免除となったという。結局戦争に直接関わることはなかった。師匠の井伏鱒二は文士徴用員としてマレー派遣軍に随行した。

1944年8月、次男誕生。

太宰治が間接的に戦争に関与したと言えば、1943年大東亜共同宣言を受けて、国策に協力するための小説の執筆者に選ばれ、1945年2月に小説『惜別』を完成させたことだろうか。
しかしそれは戦時中には発表されることはなかった。


『雲雀の聲』と『パンドラの匣』

すでに太平洋戦争が始まって2年の月日が流れていた。
戦争に赴かずに済んだ太宰治は、1943年10月末、『雲雀の聲(ひばりのこえ)』という小説を完成させた。
大東亜共同宣言が1943年11月6日なので、その直前に脱稿したということになる。

しかしながらこれも戦時中には発表されることはなかった。
どうも検閲で問題視されることが予想される小説だったようだ。

検閲
書籍、新聞、映画の記事・表現物の内容を審査し、不都合があれば、発行・発売・無償頒布・上演・放送などを禁止や一定期間差止する検閲を行った。行政処分として、現物の没収・罰金、司法処分として禁錮刑を行った。
日露戦争のあと、内務省は逓信省に通牒し、極秘のうちに検閲を始めた 。
1941年(昭和16年)10月4日に、臨時郵便取締令(昭和16年勅令第891号)が制定されて、法令上の根拠に基づくものとなった。


<書籍>
著作物は、出版法による文書、図書を発行したときは発行3日前に内務省に製本2部を納本する必要があり、書簡、通信、社則、引札、番付、写真などは内容が取締法規に触れないものに限り届出が省略された。
検閲にあたって当局は、内容が皇室の尊厳を冒涜し、政体を変改しその他公安風俗を害するものは発売頒布を禁止し、鋳型および紙型、著作物を差し押さえ、または没収することができた(明治26年4月法律15号、明治43年4月法律55号、昭和9年7月内務省令17号)。


どうせ検閲で不許可になるだろうからと出版社が自主的に一旦は出版を見合わせたというのである。

しかし太宰が1944年8月29日付けで、堤重久宛に宛てた書簡には「2~3カ月中に『雲雀の聲』と『津軽』が小山書店から出る」と書いてあった。
堤重久は太宰治の弟子であり、小山書店は『チャタレイ夫人の恋人』(Lady Chatterley's Lover の完訳本)を発売して裁判沙汰になった出版社。

堤重久
文芸評論家、京都産業大学名誉教授。
太宰治の一番弟子で、著書に『太宰治との七年間』がある。
東京新宿の開業医の息子。旧制東京府立高等学校(後の東京都立大学を経て現在の首都大学東京)3年在学時、18歳のとき、『晩年』を読んで衝撃を受け、太宰治に心酔する。
1940年初冬に太宰の門人となる。1942年大学卒業後は東大図書館に勤務しつつ、作家を志して長篇小説を執筆。戦時中は外交官の伯父の勧めで外務省に勤務し、外交官試験の準備をする。太宰の死後は京都市に住み、京都産業大学で教えた。
『晩年』など太宰の初期作品に比べて『人間失格』などの後期作品には否定的な立場を取った。


小山書店
1933年に小山久二郎が東京市小石川区諏訪町に創業する(のち麹町区富士見町に移転)。処女出版物は野上弥生子『入学試験お伴の記』、ついで本多顕彰による翻訳本『ハムレット』『ロミオとジュリエット』を発行する。文学書を中心に『新風土記叢書』(太宰治の『津軽』はこの第七編として刊行されている)、『現代詩代表選集』など多くの良書を世に送り出している。
1950年に発行した伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつ文書として告発され(チャタレー事件)、その影響で小山書店は倒産する。その後、小山書店新社を興すが、チャタレー事件の影響で生じた負債で長くは続かなかったようである


『チャタレイ夫人の恋人』は1928年に発表されたイギリスの小説家D・H・ローレンスの小説。
現代の感覚で見れば些末な問題であるが、当時は英国社会における身分制度を大胆に扱った猥褻文書と見なされ、内外で激しい論議の的となり、日本では伊藤整による翻訳本の出版に関して最高裁までの裁判となった(チャタレー事件)。

太宰は検閲については一言も触れていない。
発行されなかった理由、それは―

1944年12月6日付け、小山清(1940年に太宰治の弟子となった人物で、太宰が戦時中に疎開している時期に太宰宅の留守を預かっていた) に宛てた書簡には、「『雲雀の聲』は発行間際に印刷工場が焼夷弾にやられて全焼」と書いてあった。

実はこの『雲雀の聲』はタイトルを変えて戦後まもなくに発表されているのだ。
『パンドラの匣』がそれである。
魯迅の東北医専留学時代を描いた『惜別』は1945年9月に朝日新聞社より刊行されたが、『パンドラの匣』は、地方紙『河北新報』(宮城県仙台市に本社のある新聞社)にて1945年10月22日~1946年1月7日にかけて掲載された後、 1946年6月5日に河北新報社より刊行、1947年6月25日に双英書房から改訂版が刊行された。
余談だけど、小山書店の処女出版物は『入学試験お伴の記』(13歳の次男の受験に付き添った体験を綴ったエッセー)だが、入学試験の保護者同行が話題になったのも東北大学でしたね!(2014年)


パンドラの匣

『パンドラの匣』(パンドラのはこ)は、太宰治の長編小説。
「健康道場」という名の結核療養所を舞台に繰り広げられる恋愛模様を通じて、青年・ひばりの成長を描く。
1947年と2009年に映画化されている。

本作品は、太宰の読者であった木村庄助の病床日記がもとになっている。

1940年(昭和15年)8月より太宰と頻りに文通していた木村庄助は、1943年(昭和18年)5月13日、病苦のため22歳で自殺する。同年7月11日、遺言により日記全12冊が太宰宛てに送付される。日記は京都の丸善に製本させたもので、「健康道場にて」と記した日記の背には太宰の短編「善蔵を思ふ」を模して「太宰治を思ふ」と刷り込んであったという。

1943年(昭和18年)10月末、太宰は木村の日記をもとに「雲雀の声」を書き上げる。小山書店より刊行する予定であったが、検閲不許可のおそれがあるため版元と相談の結果一旦出版を中止。その後許可が下り小山書店より出版される運びとなった。ところが1944年(昭和19年)12月、戦災のため発行間際の本が全焼。本作品はその時残った校正刷をもとにして執筆されたものである。1945年(昭和20年)11月9日までに脱稿。

河北新報社本と双英書房本では61箇所の異同が指摘され、多くは句読点や送り仮名、漢字表記や改行など文法上の改訂であるが、天皇に対する表現など内容の解釈に関わる部分もあることが指摘される



最初に付けようと思っていたタイトルは『雲雀(ひばり)の聲』だけれど、ひばりというのは青年の名前でもあった。
太宰が生きている間に映画化もされている。
戦後2年目の夏、1947年7月1日公開。
ひばり役を演じたのは群馬県出身の小林桂樹さん。

2009年の映画で看護師の1人を演じた川上未映子さんは2008年の芥川賞受賞作家。





by yumimi61 | 2019-10-10 14:35