人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

魂極る(たまきわる)  *7

e0126350_15454988.jpg


見えていないものが見えてくるということはきっと怖いことなんだ

見えているものが見えていないということはきっともっと怖いことなんだ






e0126350_15434375.jpg


(前六回のエントリの続きです)

鍾乳洞へ行った後、私は絵とは呼べないような絵を描いていた。
それを次男が覗き、私に言った。
「なに描いてんの?」
「なんだと思う?」
「うーん・・・雪?」
「うぅん。戦争を描いているの」
「へーお母さん、そんなに暗いもの描いてたんだ」
「暗いってねぇ・・・・」
「違うよ、そういう意味じゃないよ。だってそんなに暗いもの描いてるって思わなかったんだもん」
「・・・・・・ (弁解になってないと思うんですけど・・)」


長男もやってきた。
「わかった!原爆でしょ。原爆落ちたところ描いてるんでしょ」
「うーん、近いような遠いような、かな」

ここでまた次男が余計な口を挟む。
「お母さんの描く絵とか、写真とかいつもヘンだよね。前はほらイカ撮ってたじゃない。なんかさぁちょっとセンス悪いよね~」
「・・・・・あっそう」

(*機会があれば、いつかそのイカの写真も!?)



-----なににもまして重要だというものごとは、なににもまして口に出して言いにくいものだ。
それは恥ずかしいことでもある。
なぜならば、ことばというものは、ものごとの重要性を減少させてしまうからだ。
ことばはものごとを縮小させてしまい、頭の中で考えているときには無限に思えることでも、
いざ口に出してしまうと、実物大の広がりしかなくなってしまう。
だが、本当はそれ以上のものだ。そうではないだろうか?--------(小説スタンド・バイ・ミーより抜粋)


ところで、登校日前夜に息子の書いた感想文・・・
その感想文が学校代表に選ばれ、コンクールに出品されることになったということで
保護者同意書とあの日書いた原稿用紙を息子が学校から持ち帰ってきた。
そこで、初めて私は息子の書いた感想文を読んだのだ。
誤字脱字や句読点はやはり先生による赤チェックがかなり入っていた。
しかし、文章は一昨年まで彼が書いていたものとは違った。
子供の感想文の多くはあらすじを追い、最後に定型文のような感想が申し訳なさ程度にくっついているということが多い。
今回彼の選んだ本の構成、文章量ではきっとそれが出来なかったのだろう。
だからというか、おかげでというか、感想文を読んでも本の内容はさっぱりわからない。
本のことに直接触れているのは、子犬とともに写された特攻隊の少年達の写真のことだけなのだ。
けれど私は、息子があの写真に悲しみを見ていたことを知り、
今の彼が、戦争について感じていることをほんのちょっと垣間見た。
そして、その文章にはちゃんと着地点があった。


大丈夫、子供はいつのまにか成長している。



と、本来ならここで終わりたいところ。けれど、しつこく書いてきたついでにさらに続けると・・。

前にも書いたことがあるのだけれど、私は感想文というものをあまり信用していなかった。
どうにでも書けるからである。
というのはすなわち、私が思ってもいないことを書いたことがあるということなのだ。
小学校低学年の頃に本当に純粋な気持ちで書いた感想文が何度か入選したことがあって
先生に褒められるという経験をする。
そのことはやがて私の感想文の書き方を変えていく。
高学年、中学生あたりになると、どんな本を選び、どんなことを書けば受けがいいのかがなんとなく分かってきてしまい、
純粋さはすっかり影を潜め、自分の心に対峙することもなく、「みんな」に合わせた感想文をつくれるようになる。
そればかりか、親にも先生にもナイショで、感想文に苦しんでた妹の感想文まで請け負い、それがまた入選してしまうということがあった。
その時の妹のバツの悪そうな顔と、なんとも言い難いとってもいやーな感じをその後もずっと持つことになる。
魚の骨が喉にひっかかって取れない感じというか・・(ちょっと違うかな)
喉元まで出掛かっている言葉が咳でもしたらポロっと落ちてきそうなんだけれど、
実際には出てこないというあの感じだろうか。(でもこれは諦めがききそうだなぁ)
指が痛くてトゲが刺さっていそうなんだけれど、トゲは小さすぎるのか見えない。見えないけど、すっごく痛い。(そんな感じだろうか)


人が心に抱くことを伝えたり理解するのは本当に難しい。


どれだけの絵の具や色鉛筆を集めても、描ききることはない。
具象だと思われている写真だってそうだ。本当にそのものだ、なんてことありえない。
言葉も同じだ。
どんなに言葉を集めても、たった一つの想いさえ伝えられないことはよくある。
逃げ水のように、追いかけても追いかけても、いつも先に先に行ってしまい、(よしっ捕まえた)ということはほとんどない。

その無意味さを知り、なお且つ模索し、慎重に選ぶ。
見えない部分を慮る。
何かを手にするとき人は、そうしながら、そのものの可能性を信じていくしかないのだろう。
言葉を携えた人間は、そうしながら、その意味を信じていくしかないのだろう。
失ったものも、失うものもあることを知った上で、前に進むしかないという気がしている。


今回の息子の感想文の着地点は、現時点での彼の心の着地点であり出発点なのか、
それとも技巧としての着地点出発点なのか、それは彼にしかわからない。
私は彼を信じるしかないのだ。

そして・・・

あなたも、私も、どこかで誰かに信じられている存在である。





見えていないものが見えてくるということはきっと怖いことなんだ

見えているものが見えていないということはきっともっと怖いことなんだ

そして本当に怖いのは、そのことに気がつかないでいることだろう




by yumimi61 | 2008-02-15 20:17 | *戦争と子供