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2015年 07月 11日 ( 1 )

昭和 百拾伍

暑いよ~(でも風はわりとある) 手が痛いよ~(弱音)

神奈川ってどこ?(大丈夫か?)


関税自主権や領事裁判権があったら恨みつらみが晴らせる?

関税自主権がないことを不平等と言うが、もし関税自主権を与えられたなら「自分勝手に関税が決められてラッキー」と思うんだろうか?
関税自主権を持って、自国の儲けばかり考え、高い輸入税を全ての品に掛ければ、「そんな高い国には輸出しなくて結構」ということになりかねない。
自給自足出来ているうちはそれでもよいが、例えば現代の原油のように輸入に依存しなければならない物が輸入税が高いばかりに入って来なくなっては一大事。
従って全ての品が同率というわけにはいかなくなる。
そうなれば「あの国が沢山輸出するあの品物だけ輸入税が低く、我が国が沢山輸出するこの品物がこんなに輸出税が高いのは不公平ではないか!」と言われかねない。
また自国の都合で突然変更したりすればひんしゅくを買うのは必至。
関税自主権があっても無暗に行使することは出来ず、話し合いで決めるとなれば結局協調的な関税となる。
そうしなければ強国から圧力が掛かったり孤立していくだろう。戦争に発展することもあるかもしれない。
強い意志と見合った国力があるか、または孤立しても相手にされなくても別に構わないという国でなければ、関税自主権なんて実質的にそれほど役に立つものではないと思う。
不平等なのは交渉の余地もなく有無を言わせず決まったものを押し付けられることではないだろうか。

Wikipedia不平等条約に記されていたことがとても印象的だった。
具体的には「関税自主権を行使させない」ことや「治外法権(領事裁判権)などを認めさせる」ことによって、ある国の企業や個人が、通商にかかわる法典の整備されていない国から商品を輸入する際に莫大な税金を要求されたり、軽犯罪によって死刑を被ったりすることを避けることを目的としたものである。
逆側からの視点であるが、これももっともだと思う。
全ての人や物に公平であるということは思うよりずっと難しいことなのだ。


神奈川と横浜、神奈川と神流川

こちらにも不平等条約について記述があった。
教養番組「知の回廊」 33 「多摩のシルクロード −ペリー来航と不平等条約−」
教養番組「知の回廊」は中央大学が地元八王子のCATV局と協力して制作し ている教養番組だそうだ。

日米修好通商条約を結び、5つの港を開港場と定めました。
入学試験では、この5つの港の名前を書く設問を出すと、うっかり間違える人がいま す。
長崎、箱館、神奈川、兵庫、新潟が正解です。
間違えるのは、神奈川を横浜とする答案です。横浜は通商条約締結の翌年に開港場として開かれますから、5 つの港名に入れてしまうのですが、実際に条約で約束したのは神奈川でした。


兵庫を神戸と間違える人はいないのだろうか?
というか、やはり横浜や神戸では間違いになってしまうのか?
まあ入学試験の話はいいとして。

なぜ神奈川が横浜になったか?(下記青字も上記「多摩のシルクロード −ペリー来航と不平等条約−」からの転載です)
幕府は、イギリスやフランスの脅威を強調して通商を要求 するハリスに負けて、下田のかわりに神奈川を認めましたが、神奈川は東海道の宿場町で江戸に近い重要な場所です。そこで幕府は、なんとか外国の影響の少な い場所として横浜を考えました。当時の横浜は、東海道筋の神奈川と入り江を挟んだ対岸の漁村でした。その漁村を埋め立て、長崎の出島のようにつくりかえて、開港場にしてしまったのです。それは条約違反ですが、幕府はハリスの抗議を無視し、横浜に日本人の店を出させ、外国商人に対しても土地を無償で貸与 し、事実上の開港場としてしまいました。外国商人は、便利な横浜での貿易に応じるようになり、条約に記された神奈川が横浜にすりかわっていったわけです。

それまで鎖国をしていた幕府は、条約の影響ができるだけ国内に及ばないようにしました。欧米の強い圧力の中で通商条約 を結ばなければならなかった幕府は、横浜の造成を急ぎました。既成事実を重ねることで、開港場を神奈川から横浜にすりかえていったのです。しかし、そのことは諸外国が条約をしっかり守らない幕府に不信感を募らせ、最大の貿易相手国であったイギリスが幕府を見限る結果となります。幕府は、輸出品についても、 五品江戸廻令を定め、生糸などが江戸の市場を通らないで横浜に直送されるのを防ごうとし、また朝廷を中心に壤夷の運動が強まると、条約を無視した横浜鎖港 なども行おうとしました。このような条約の骨抜き、貿易の制限は、最終的にイギリスが討幕派の薩摩や長州を支援し、封建制度にかわる新しい日本の出現に期待する結果となっていきます。

県の名前が神奈川県となったのも、条約と無関係なわけではありません。幕府は開港場を神奈川と条約で認めておきながら、実際にはその対岸の横浜 を開き、イギリスをはじめとする諸外国から不信を買いました。古くからの重要な港町の兵庫を開くと条約に定めておきながら、実際に開いた開港場はその隣の神戸でした。幕府としては、なんとか開港のダメージを少なくしたいためにとった苦肉の策でしたが、そのことが諸外国の幕府批判となり、幕府は最後に薩摩・ 長州にとってかわられました。

幕府を倒した新政府は、発足後に開国和親を対外政策に掲げます。イギリスをはじめとする列強の支持がなければ、最新の 武器を購入することもできません。江戸開城後も会津藩をはじめとする東北諸藩、さらには箱館に立てこもっている榎本武揚らの旧幕府軍を打ち破るためにも、 列国の支持を取り付けることが必要でした。列国の要求する条約を守るとすれば、横浜は神奈川でなければいけません。神戸は兵庫であったはずです。

旧幕府領を接収した新政府は、神奈川と兵庫をはじめは府、後に県にしました。いずれも明治元年です。条約にあわせると すれば、遊歩区域に沿った範囲を一つの県域にするとともに、県の名称を神奈川とし、横浜が条約に定められた神奈川の一部とすれば良いわけです。神戸を含む 県域を兵庫県とすれば、条約にあったかたちになります。少しでも条約とつじつまをあわせようとした苦肉の策です。このようにして、東海道の宿場名で開港場でもあった神奈川が県の名前になったのでした。


外国から見れば、神奈川と横浜は隣接していてすぐ近くのように思うが、神奈川と横浜が違うことはそんなに重大なことなんだろうか?
少なくとも私は高崎でも前橋でもどちらでもよい。


下記青字はWikipedia神奈川宿より。
神奈川宿(かながわしゅく、かながわじゅく)は、東海道五十三次の3番目の宿場である。武蔵国橘樹郡、今の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった。付近には神奈川湊があった。
神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。なお幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心は外国人居留地が作られたこの横浜村に移っていった。


(神奈川宿は)神奈川町と青木町の二町からなり、両町の境には滝野川(現:滝の川)が流れていた。

明治22年(1889年)に神奈川町、青木町、芝生村が合併し神奈川町が成立、1901年(明治34年)に横浜市に編入された。


安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。


港と街道がぶつからないことはわりと重要だと思う。
しかしあまり離れすぎていないほうがよい。
ということで、私は横浜に港を作ったことは妥当な判断だと思うのだが。
下田は船にとっては良い場所だが国内への輸送を考えると街道から離れすぎていたんだと思う。
だからこそ最初はそこに設定したのではないだろうか。

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ポインターを置いたところが神奈川宿があったところ。駅名が現在も神奈川。

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八景島付近に停泊していた船上で日米修好通商条約を締結した。

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生糸生産地

神奈川港(横浜港)が開港して5年経った1864年頃の日本の輸出品の80%近くを占めていたのは生糸だった。
その次は日本茶で10%程度、その次が蚕卵紙で4%、これが主要輸出品目であった。
その他、海産物、雑穀類、水油(菜種油・胡麻油・椿油など)、蝋、呉服などが輸出されていた。

輸入品は毛織物40%、綿織物35%、綿糸7%ほど、この3つでだいたい80%くらいになる。これが主要な輸入品であった。
残りは長州藩・薩摩藩・土佐藩などが購入していた武器や船といった軍需品である。

日本は後進国で貧しく輸出品がなかったように言われることもあるのだが、輸出入を現代と同じに考えてもらっては困る。
製造技術、航海技術、輸送技術、保存技術が今とは違う。何でも好きなだけ輸出入できるわけではない。かかる費用も違う。
また生活も今と同じではない。贅沢品が溢れている時代ではない。存在する物が格段に少なかった。
品物が限られるのはどこの国でも似たようなもので、日本がとりわけ貧しいから輸出品が少なかったというわけではない。

群馬県は古くから養蚕が盛んで生糸の主要生産地である。
そんなこともあって神奈川(横浜)との関わりも深い。
上毛かるたと養蚕
上毛かるたの「け」は、「県都前橋生糸の町(けんとまえばしいとのまち)」。
その他、絹(シルク)に関係する札はこんなのがある。
「き」は、「桐生は日本の機どころ(きりゅうはにほんのはたどころ)」
「に」は、「日本で最初の富岡製糸(にほんでさいしょのとみおかせいし)」
「ま」は、「繭と生糸は日本一(まゆときいとはにほんいち)」
「め」は、「銘仙織り出す伊勢崎市(めいせんおりだすいせさきし)」

群馬県中いたるところで養蚕が盛んであり、その副業として生糸の生産は始まり、織物が作られた。
養蚕・製糸・織物という一貫した絹産業が発展した地域なのだ。
前橋市にも製糸工場が沢山あった時代もあったが、生糸の町が前橋市に限るわけではない。


ワタナベくん(!)、今どこにいるの?

群馬で育った人はみな「上毛かるた」を知っていて空で言える。
そんなふうに言われることも多い。
確かに私は子供の時によくやった。
家にかるたがあって、家でもやったし、学校でもやったし、地域の子供会(育成会)でもやって県大会まであった。
だから確かに空で言える。苦も無く暗記して今もってすらすら言うことが出来る。
現役時代(?)は飛ばしの東スポではないが、かるたをパーンと飛ばしたものだ。
県大会にいったら読みを悠長に最後まで聞いていたらまず勝てない。意外に風情がなくスポーツのようなのである。

でも群馬県中み~んなそうだったのかは分からない。
息子達を見ているかぎり、上毛かるたにそれほどの親しみはないと思う。
そもそもやったことがあるのかどうか・・といった具合である。
学校でしたことがあればあるくらいで、他ではないと思う。
だから当然札も詳しく知らないだろう。
(今でも子供会などで熱心にやっている地区があり大会もある)
(うちにもかるたあったっけ?あったようなないような・・。実家にあったんだっけ?)

近年の群馬県育ちは上毛かるたにそんなに明るくないかもしれない。
上毛かるたどころか群馬県のこともそんなに知らないよね?
人口が多い市ベスト3はどこでしょう?
県庁所在地はさすがに知っている?







by yumimi61 | 2015-07-11 15:02