by and by yumimi61.exblog.jp

やがてそこに。


by yumimi61
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー

2015年 12月 19日 ( 1 )


昨晩突如エビアレルギーを発症した。
エビやカニなどの甲殻類アレルギーは大人になってから突然発症することがあることは知っていたが、正直こんな年齢で突然発症するとは思わなかった。
子供の時に紫斑病に罹患した時に血小板減少性紫斑病とアレルギー性紫斑病の両方の症状所見があったらしいが、私がアレルギーに縁があったのはその時くらいで花粉症ですらない。(ただ息子はアレルギー体質である)
私はもともと海の幸がかなり好きなほうで良く食べる。(福島原発事故後は多少減ったが)
これまで一度もアレルギーらしき症状は出たことはなかった。(10数年前に一度、牡蠣の食中毒になったくらい)
ところが昨日エビを食べたら急に軟口蓋(口の中の上の奥の部分)がピリピリと痛みだした。
え?アレルギー?と半信半疑でいると、エビの殻を剥いた指先も痛痒くなってきて、見るとぽつぽつ蕁麻疹のようなものが・・。
うわっアレルギーだと慄いたせいか、息苦しいような、手足がしびれているような・・・。
即、手を洗い、うがいをしたが、アナフィラキシーショックが起こったらどうしようと脱力・・・。
咽頭浮腫で呼吸困難になったりすることがあるので。

ちなみに、アナフィラキシーはラテン語のana(無)+phylaxis(防御)由来。
ギリシャ語ではana(過)+phylaxis(保管)(英語にするとper‐storage)。

幸いに私はそれ以上酷くはならずに快方に向かったが、2度目のほうが怖いというし・・・。
なんかもうエビやカニだけでなく貝や魚も食べられないかも。
お寿司やお刺身が食べられないということなのよ(涙)

実は私、先々週あたりずっと喉がいがらっぽかった。
痰が絡んでいるような気がしていて、出したいのだけど出なくて苦しいというような状態が何日も続いていた。
でも熱がでるとか身体全体の調子が悪いということはなかった。
先週の土日には扁桃腺がかなり痛くなった。扁桃腺というか左側だけだったので扁桃周囲炎かもしれないと思った。
しかしやはり発熱するようなことなかった。あるいは喉に口内炎が出来ているのか。
ともかく痛くて痛くて、喋るのも食べるのも苦痛になってきた。
私は滅多に薬を飲まないのだが、飲み薬と喉スプレーを買いに行って服用した。
それから2日ほどで痛みはなくなった。
その後のアレルギーだったというわけだが、因果関係はあるのだろうか、ないのだろうか?

さらにさらに実は、少し前にブログ記事の上に創作話を綴っていたが、漠然と魚アレルギーで病院に運び込まれるというシーンを入れることを考えていたのだった・・・・。
まさか私がアレルギーを発症するとは・・・・w?

なんとまた蜂が来ていた!(本日14時10分撮影)
e0126350_14242455.jpg


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

流入

熊襲が朝鮮内のあちこちに入り込んだことによって、誰がどこの国の人なのか、誰の味方なのか、本当の目的は何なのか、外から眺めただけではよく分からなくなってしまったのではないだろうか。

上記緑字は前記事終わりに書いたことだが、日本へも朝鮮半島の人々が入ってくるようになる。
飛鳥時代から平安時代にかけては、朝廷の政策により、朝鮮半島から多数の渡来人・難民が東国方面に移住・入植した経緯がある。六国史を始めとする記録からは、これら半島出身者の東国への移住が、朝廷により逐一把握されていたことが分かる。

飛鳥時代は592-710年。大化の改新(646年)は飛鳥時代の出来事である。
朝鮮半島から多数の渡来人・難民が東国方面に移住・入植し、朝廷により逐一把握されていたのは、大化の改新以後のことである。

 ・推古天皇9年(601年)、対馬に到った新羅の間諜迦摩多を捕えて貢上し、上野に流す。
 ・斉明天皇6年(660年)、百済が唐俘100余人を献上する。今の美濃国不破郡・片縣郡の唐人等である。
 ・天智天皇5年(666年)、百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。凡そ緇素(出家者と非出家者)を択ばず。癸亥年より3年間、同様に官食を給賜する。
 ・天武天皇13年(684年)、百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。
 ・朱鳥元年(686年)、新羅沙門行心が謀反し、飛騨国の伽藍に徙す。
 ・持統天皇元年(687年)、投化した高麗56人を、常陸国に居住させ、投化した新羅人14人を下野国に配する。又、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に移住させる。いずれも土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。
 ・持統天皇2年(688年)、百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。
 ・持統天皇3年(689年)、投化した新羅人を、下毛野に居住させる。
 ・持統天皇4年(690年)、帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国に居住させる。又、帰化した新羅人等を、下毛野国に居住させる。
 ・霊亀元年(715年)、尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。
 ・霊亀2年(716年)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移し、始めて高麗郡を立てる。
 ・天平5年(733年)、武蔵国埼玉郡の新羅人徳師等の男女53人に請われ、金姓とする。
 ・天平宝字2年(758年)、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、はじめて新羅郡を置く。
 ・天平宝字二年(758年)、美濃国席田郡の子人・吾志等、賀羅造を賜姓される。
 ・天平宝字4年(760年)、帰化した新羅人131人を武蔵国に置く。
 ・天平宝字五年(761年)、新羅征討に備え、美濃・武蔵各国の少年20人ずつに、新羅語を習わせる。
 ・天平神護2年(766年)、上野国の新羅人子午足ら193人が吉井連を賜姓される。
 ・宝亀十一年(780年)、武蔵国新羅郡人の沙良・眞熊等2人が広岡造を賜姓される。
 ・延暦七年(788年)、美濃國厚見郡人の羿鹵濱倉が美見造を賜姓される。
 ・延暦8年(789年)、信濃国筑摩郡人の後部牛養が田河造を賜姓される。
 ・延暦16年(797年)、信濃国人の前部綱麻呂が安坂姓を下賜される。
 ・延暦18年(799年)、百済姓の甲斐国人190人、高麗姓の信濃国人12人等、朝廷に願い出て日本姓を下賜される。
 ・弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。
 ・弘仁11年(820年)、遠江国・駿河国に配された新羅人700人が反逆する。(弘仁新羅の乱)
 ・天長元年(824年)、新羅人辛良金貴、賀良水白等54人を陸奥国に安置する。法により復を給し、乗田を口分田に充てる。
 ・貞観12年(870年)、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。

Wikipedia東国より>

大化の改新前後の日本及び朝鮮半島、中国王朝との関係性や対立、勢力図は以前こちらに記した


贈与と帰化

流入の仕方にも幾つかある。
外の国から「贈与」という形で送られてくる人。
送られてくる人は知識人や職人であることもあれば、捕虜のような人もいる。
どちらにしても送られてくる場合には、「貢」や「献」の語が用いられており(例:貢上や献上や貢献)、それは政治的意思または命令強制によって他律的に贈与されたという意味になる。
捕虜などは送られた先の軍事的要員になったりした。
「帰化」の場合は、個人の意思で自律的に、あるいは同族集団の勧誘などによって渡来してきた人達のことである。

現代では歴史的な「贈与」「帰化」「渡来」という言葉の使い分けができていないことが多い。
(奴隷にも上記のように2種類あったと思うが、今では一括りに奴隷で済ませている。)
「贈与」という言葉ではすぐに人権問題になりそうだし、「帰化」という言葉も日本中心的という批判があり、無難に「渡来」「渡来人」で済ませたりする。
現代でも外国人が日本国籍を取得する(日本人になる)といった意味で「帰化」は使っているので、なぜ問題になるか不思議に思うかもしれないが、君主制に関係があるからだ。

「帰化」という語句の本来の意味は、「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」(後漢書童恢伝)で、歴史学的な定義としては、以下のものがある。
1.化外(けがい)の国々から、その国の王の徳治を慕い、自ら王法の圏内に投じ、王化に帰附すること
2.その国の王も、一定の政治的意思にもとづいて、これを受け入れ、衣料供給・国郡安置・編貫戸籍という内民化の手続きを経て、その国の礼・法の秩序に帰属させる一連の行為ないし現象のこと


帰附(帰付)は付き従うこと。
「帰化」と同義語には「来帰」「投下」「化来」があり、これらは国の政治的意思(国家間のやり取り)とは関係ないものである。
ただ帰化人を受け入れるかどうかという方針は国家が決定する。
現在世界的に、難民の受け入れを拡大しようとか難民は受けいれないなどといったことが話題になっているが、その方針を打ち出すのは国家であるということ。
そこが君主制の国家ならば、君主に帰附することが帰化の最低限の条件となるだろう。
日本は未だ君主制国家であり、かつてアジアの国々に侵攻したということもあり、「帰化」という言葉にも敏感にならざるを得ない。
国技とされる大相撲の力士の帰化に関しては根が深い問題なのだ。


渡来氏族(帰化氏族)

このような古い時代に朝鮮半島から渡来し日本人になった氏族として有名なのが「秦氏族」と「漢氏族」。
漢氏族には倭国(大和国)を本拠にした「東漢氏(倭漢氏)」、それに対して西漢氏(河内漢氏)という氏族があった。
奈良の倭国と東大阪の河内で東と西ということになる。
両者は文氏族から分かれた同族と言われる一方で、異系統とする説もある。
西漢氏が百済系の氏族であるとされる西文氏に置き換わったりすることもあるのだが、両者の関係についても不明である。
秦氏も百済系と考えられている。
また高句麗系では黄文氏族が知られている。

秦氏族
『日本書紀』において、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。(別名は融通王)を祖とする。『新撰姓氏録』によれば弓月君は秦の始皇帝の末裔とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって、その真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。
・秦の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統。(太田亮)
・百済系渡来氏族。弓月の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音である。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。(笠井倭人・佐伯有清)
・弓月君は中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す。(田辺尚雄)
・景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。(佐伯好郎)


やたら出てくる弓月君は「ゆみづきくん」ではなくて「ゆづきのきみ」と読む。
弓月君は弓張月(ゆみはりづき)とは何ら関係ないのだろうか?
残念ながら弓月君は伝説上の人物であり、実在は不明だそうだ。

今の時代に秦と言えば、秦基博さんでしょうか。
映画『STAND BY ME ドラえもん』の主題歌『ひまわりの約束』が大ヒットしましたね。
あの歌い出しの歌詞「どうして君が泣くの まだ僕も泣いていないのに」に似たような言葉をブログに綴ったことがあったのですが、例のごとく、それがいつなのか、また一字一句正確に覚えてるわけでもなく、いつどんな記事に書いたんだろうと検索で探してみたのです。
でもヒットしてこない。またエキサイトに消されたか。そんなことはないですね。



[PR]
by yumimi61 | 2015-12-19 11:19