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やがてそこに。


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2015年 12月 26日 ( 1 )

広瀬川流れる岸辺~

明治天皇の正妻(皇后)は一条美子。後の昭憲皇太后。
明治天皇とともに明治神宮の祭神になっている。
左大臣・一条忠香と、その側室(妾)・新畑民子の間に生まれた子である。


新畑民子は一条家に仕えた医師(典医)の娘であり、医師である民子の父親はの氏名は「新畑大膳種成」と伝わっている。
ここで不思議に思うのがその氏名である。
本来の名は新畑種成だと思うのだが、ミドルネームのように間に「大膳」と名が入っている。
思い出すのは大膳職。

膳職(だいぜんしき)は、日本の律令制において宮内省に属する官司。和訓は「おおかしわでのつかさ」。朝廷において臣下に対する饗膳を供する機関である。
大宝律令以前は膳職という官司であったが、大宝律令制定時に、天皇の食事を掌る内膳司と饗膳の食事を掌る大膳職に分割された。ただし、主食については大炊寮が掌っており、大膳職は副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当した。『養老令』によれば、醢(肉や魚を塩辛状にしたもの)、醤・未醤(みそ)などの調味料、菓(くだもの)、雑餅(雑穀などの餅製品)などを供給し、管下の組織として菓・餅類を扱う「菓餅所」と醤・未醤を扱う「醤院」が設置された。

『延喜式』神名帳によれば、延長5年(927年)頃の大膳職には御食津神社・火雷神社・高倍神社の3社が祀られていた。


新畑大膳種成は医者ではなくて大膳職だったのではないだろうか?
さては養老と養命酒が一緒くたになってしまったか・・。
養老令(養老律令)は大化の改新にて大宝律令に続いて制定された基本法令。
医療や食事のことだけでなく、刑法をはじめ、あらゆるものを網羅した法令である。

養命酒は、日本産の薬用酒である。製造元に残る伝承によれば、慶長年間、信州伊那郡大草領(現在の長野県上伊那郡中川村大草)に住んでいた庄屋の塩沢宗閑翁が、雪の中で倒れていた老人を助けた。この老人が塩沢の元を去るときに、礼として薬用酒の製法を教えてくれたものが養命酒の起源だという。1602年、「養命酒」の名で製造開始。1603年には徳川家康に献上され、そのときに「飛龍」の印を使うことが許されたという。日本初の商標ともいわれている。

養老と言えば、養老乃瀧を思い出しますね?
学生時代には折々よく使いました。(お酒は二十歳からですよ!)
前橋市の千代田町界隈にあったのだが、今はもうない・・。
千代田町界隈にはライブハウスもありましたね。群馬の伝説のライブハウス!?「前橋ラタン」。
その後、住吉町に移転しましたが、それもいまは営業していない・・・。
住吉町には「楽屋」という飲み屋さんもありましたね・・・・。(お酒は二十歳からですよ!!)

前橋RATTAN
前橋市千代田町
雑居ビル2階
でした。
現在、
交番がある場所。

ぐんまの音楽史 前橋ラタン回顧録 Vol.2

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<写真:前橋ラタン回顧録 Vol.6より>


こちらの写真、交番の隣の太陽です。


天皇の料理番

今年TBSで『天皇の料理番』というドラマを放送していた。
あれはオリジナルのドラマではなくて、小説をベースにしていて、これまでにもドラマ化されたことがある作品である。

『天皇の料理番』(てんのうのりょうりばん)は、1979年に出版された、杉森久英による小説。2015年までに、3回テレビドラマ化された。
宮内省大膳職司厨長(料理長)を務めた秋山徳蔵の青年期から主厨長になるまでを描いた作品。秋山の実際の経歴をもとにしているが、細部はフィクションであり、実在した秋山との混同を避け、杉森の原作では「秋沢篤蔵」、ドラマ版では「秋山篤蔵」の表記となっている。


官司の1つである大膳職は古くからあるものだが、小説やドラマは明治時代以降の話である。
最初の大膳職は第12代景行天皇の叔父に当たる人物で、天武天皇の時に高橋姓を貰った。

『高橋氏文』逸文によれば、上総国の安房大神(現在の安房神社(千葉県館山市)に比定)がその御食津神(文中では御食都神と表記)であるという。

高橋神社

   【延喜式神名帳】高椅神社 伊豆国 田方郡鎮座
   【現社名】高橋神社
   【住所】 静岡県三島市松本298
       北緯35度5分33秒,東経138度54分57秒
   【祭神】磐鹿六雁命
   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】康永2年(1343)「伊豆国神階帳」「従四位上高橋の明神」
       寛永元年(1624)12月再建
       明治6年村社
   【関係氏族】高橋氏
   【鎮座地】移転の記録はない
   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿一間社流造
       拝殿
   【境内社】熊野神社・山神社

御祭神の磐鹿六雁命は、第十二代景行天皇の叔父に当たり、その子孫は代々大膳職(宮中の食事を司る職)の長官として宮中に仕えた。天武天皇の御代に高橋の姓を賜り、以後高橋姓を名乗ってきたその一族がこの地に住み、祖神を祀ったのがその起源である。
その後の由緒については、ほとんど伝わらないが、現在の社殿は寛永元年(1624)の再建と伝えられる。


高橋氏族のルーツが大膳職であると考えられている。下記の3番。

高橋の名の由来については諸説あり、同姓には諸流ある。
1.筑後国北部の御原郡の国人一族が高橋氏を名乗る。初め大蔵党の支流。のちに豊後大友氏の支流出身の高橋鑑種や高橋鎮種(紹運)が家督を継いだ。筑後十五城の一つ。
2.安芸国・石見国に勢力を張った国人一族が高橋氏を名乗る。高橋興光の代で毛利元就に滅ぼされる。
3.磐鹿六雁命(後世、日本料理の神として尊崇を集めた)を祖とする古代氏族の一で、膳部(かしわで)氏とも称した。代々内膳司を勤めており、同僚の安曇(あずみ)氏との衝突の果てに家記『高橋氏文』(789年奏上。逸文のみ残る)を奏上したことで知られる。



死後あなたはなんと呼ばれたいですか?戒名で?

明治天皇の正妻(女御であり皇后)・一条勝子(美子)は「一条」姓であったにもかかわらず、入内すると急に「藤原朝臣」となっている。
また出生年も誤魔化したようだ。

慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇の女御に治定。
明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。
この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。

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「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」

從三位藤原朝臣美子
右中辨藤原朝臣長邦傳宣
權中納言藤原朝臣公正宣
奉 勅宜爲女御者
明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世奉

宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』吉川弘文館所収

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明治期以降の天皇は元号が帝号(追号)となった。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇である。
現在の天皇のことは今上天皇と呼ぶが(あまり使われないけれども)、天皇陛下が亡くなって新しい天皇陛下が即位すれば、平成天皇となるわけである。
天皇陛下は分かりやすい。

分かりにくいのは皇后陛下のほうである。
明治期以降、皇后には諡号(贈名)が贈られることとなっている。
江戸時代最後の天皇・孝明天皇の女御には「英照皇太后」が贈られた。
生前皇后にはならず、死後に皇太后という称号が与えられた。

明治維新以後は、皇太后は先帝の皇后または天皇の母の称号となり、皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)により皇族に含まれ(第5条)、敬称は「陛下」と定められた(第23条)。また、大宝律令以来三后の班位(身位)は太皇太后、皇太后、皇后の順と定められていたが、1910年(明治43年)制定の皇族身位令(明治43年3月3日皇室令第2号)第1条により、皇后、太皇太后、皇太后の順と定められ、皇后を上位と改めた。

称号にはランクが付いている。
1910年に、①皇后②太皇太后③皇太后の順番に決められたそうだ。
 ・皇后は天皇の正妻、最高位の妻。
 ・太皇太后は先々代の天皇の皇后。現天皇の祖母。
 ・皇太后は先代の天皇の皇后。あるいは現天皇の母。

例えば今の天皇皇后両陛下のうち、天皇陛下が先に崩御すれば、皇位は継承されて新しい天皇が即位する。
皇后はご健在でも、新しい天皇の妃が新たに皇后になるので、これまでの皇后は皇太后となる。
皇后と皇太后が生存している状態である。
やがて皇太后が亡くなる。
その時に諡号が贈られるわけだが、最高ランクの皇后経験者は「〇〇皇太后」ではなく、「〇〇皇后」という諡号になるということなのだ。

一条勝子改め一条美子(またの名を藤原朝臣美子)は女御になると同時に皇后(正妻)になったと書かれている。
宮内庁史料にも「入内立后」とある。(宮内庁史料を提示しているところがわざとらしくて怪しすぎるが・・・)
文句なしに「皇后」の諡号を与えられる権利がある。
しかし贈られた諡号は「昭憲皇太后」である。皇后ではないのだ。
制度がよく理解できなかったか・・・あえた外したか・・・・。

昭憲皇太后については、本来皇后が追号であるべきとして、明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が1920年(大正9年)に宮内省に、1963年(昭和38年)・1967年(昭和42年)には宮内庁に追号を「昭憲皇后」に変更するよう申し入れたが、認められなかった。次代の大正天皇の后貞明皇后以降は、「皇太后」として崩御しても生前の最高位である「皇后」の位で追号されている。



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by yumimi61 | 2015-12-26 11:49