2015年 12月 29日 ( 1 )

2015年 12月 29日
日本国憲法の秘密-143-
生粋の江戸っ子(べらんめえ)、生粋のロンドンっ子(コックニー)

九条節子さんの彼女の本名は朱貞明で、中国人か朝鮮人であろうという説も当たっているだろうと思う。
何故かと言えば、明治天皇の子の異常を男女が異民族であるせいではないかと考えたはずだから。
さらに昨日書いた通り、私は天皇の周囲にいる人達が大正天皇の実子に皇位継承させることを望んだとは思わない。
このことから導かれることは、昭和天皇の実父は大正天皇ではないということで、では誰なのかと言えば、おそらく明治天皇であろう。
これまでに散々子を亡くしていたり、望まない性質の子が生まれてしまった明治天皇をあえて何故?と思うかもしれないが、そうであるからこそ、比較対象になる。
同じ民族同士ならば子に異常が出ないのかという学術的な興味が捨てられなかったということも考えられる。
九条節子さんは16歳で嫁いでいるわけだから、最初の1人2人妊娠・出産・成長に失敗しても、やりなおしがきく。
場合によっては方針を転換することもできる。
失敗はしなかった。結婚翌年(1901年)には子が誕生した。
成長にも特に問題なかったのだろう。
同じ民族同士ならば上手くいく、その思いを強くしたことだろう。


遺伝学の基礎となった「メンデルの法則」がグレゴール・ヨハン・メンデルによって発表されたのは1865年のこと。
優性の法則、分離の法則、独立の法則の3つからなる。
メンデルはオーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭で、植物の研究を行っていた。
しかしメンデルの法則は当初それほど注目されなかった。
メンデルの法則が再発見され注目されだしたのは、1900年代に入ってからで、メンデルはすでに没していた。
遺伝学的にはまだそんなレベルであったが、親の性質を受け継ぐという考え方はかなり古くからあったと推測される。


反長州藩のふりをした倒幕派

昭和天皇の実父母はともに満洲民族、あるいは朝鮮民族。
さてさてそれを続けるかどうか。

昭和天皇は1921年に大正天皇の摂政となり、1926年12月大正天皇崩御に伴い皇位を継承した。
皇太子妃時代の1918年に皇太子妃が内定。皇太子16歳、お相手14歳という若いカップル誕生。
そのお相手は久邇宮邦彦王の1番目女子。
内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、明治天皇が久邇宮家を気にかけていたこと等が挙げられる。

明治天皇の成人した4人の娘の1人が嫁いだ先が東久邇宮稔彦王だった。
昭和天皇の結婚相手の父「久邇宮邦彦王」と、明治天皇の娘の結婚相手「東久邇宮稔彦王」は異母兄弟。兄弟の父は「久邇宮朝彦親王」。
先日、2番目男子、9番目男子、13番目男子が出てきたが(聖護院や竹田宮の話)、それらの兄弟と父親(伏見宮邦家親王)が同じである。「久邇宮朝彦親王」は4番目男子。
2,4,9,13番目男子、それぞれ母は違う。

「久邇宮朝彦親王」は1836年に仁孝天皇の猶子となり、翌年に親王宣下。
1838年には僧侶になるため出家。異母兄は聖護院だったが、こちらは奈良興福寺塔頭・一乗院の住職となった。
その後、京都の青蓮院の住職の座に就き、「青蓮院宮」または「粟田宮」と称されるようになったそうな。
日米修好通商条約に反対し、反井伊直弼でもあり、、1859年の安政の大獄で隠居永蟄居を命じられる。
これで「青蓮院宮」を名乗れなくなったため、相国寺(足利将軍家所縁の寺)塔頭の桂芳軒に幽居して「獅子王院宮」と称した。(金閣寺と銀閣寺は、相国寺の山外塔頭寺院)
1860年に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると目出度く復帰。
国事御用掛として京都で朝政に参画。この時期は朝廷を長州藩が支配していた時期である。
1863年には僧侶の道を棄てて俗人に戻り「中川宮」を自称する。

1863年9月30日、八月十八日の政変が起こる。
これは中川宮と薩摩藩、それに京都警備を担当する京都守護職だった会津藩(松平容保)が加わり、長州藩を京都から追放したクーデター事件である。
1864年、「中川宮」から「賀陽宮」に改称。京都御所南方の旧・恭礼門院の女院御所跡地に屋敷が与えられ、賀陽宮家は宮家の列に新しく加わった。

幕府の長州藩征伐も上手くいかず、徳川家も崩壊し、江戸時代は終わりを迎える。
中川宮は徳川の京都守護藩と組んで長州藩を追い出した側ということで、幕府側の公家という立ち位置となっているが、反井伊直弼だったわけで、親幕府(幕府維持側)だったとは到底思えない。

しかし一度は長州藩の敵になったわけで、明治元年の1868年に一旦広島藩預かりとなる。
その後1872年に父親の宮家である「伏見宮」に復籍した。
そして何故か1875年、新たに「久邇宮家」が創設される。初代当主になったのである。
「竹田宮」同様、かなり怪しい宮家の起こり方である。

内側から壊れるというが、彼は旧幕府側の内側に入り込んだ人物だったのではないだろうか。
ただ表向きは長州藩追放クーデターの張本人であるため、明治新政府の中枢には入らず、東京へ移住することもなかった。
公家社会には隠然たる勢力を保ち伊勢神宮の祭主を務めるなどした。
朝彦親王は父の邦家親王と同様に相当な精力家であり[独自研究?]、若年時には神社の巫女を孕ませるなどの逸話を持つ[要出典]。還俗してからも子を多く作った。今上天皇以下の皇族は、香淳皇后を介して朝彦親王の血統を継いでいる。

明治維新の立役者なのに東京にも来られず不憫と明治天皇は思っていたのか分からぬが、久邇宮家を気にかけていたという。


ワンワールドへの布石

明治天皇の娘の結婚相手「東久邇宮稔彦王」は、その経歴が凄い。

世界連邦建設同盟(現:世界連邦運動)名誉会長、第2代会長。
中央情報局(CIA)の日本側協力者の一人。
貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。千葉工業大学の創設者。

第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)8月17日、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。

東久邇宮は内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。また、「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」とし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。
その一方、昭和天皇への問責を阻止するため“一億総懺悔”を唱え、国内の混乱を収めようとするも自由化政策]を巡るGHQと内務省による対立とGHQによる内政干渉に抵抗の意志を示すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。


つまり終戦処理総理大臣だったということだろうか。
東久邇宮はそういう役回りの宮家だったんだろう。

(終戦直後)日本の降伏が告知されたものの、依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。9月2日には東京湾沖のミズーリ号上で日本の降伏文書に調印がされ、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。

旧日本領や占領地に展開していた現地師団に敗戦や撤退を説得できるのは、日本軍幹部の人間ではなく皇族だったということだ。
それは現地師団が日本軍の指揮下にあったのではなく、天皇直下(皇族指揮下)にあったということの証ではないだろうか。
彼らはまさに天皇のために戦っていたのである。

※世界連邦運動
世界連邦運動(せかいれんぽううんどう、World Federalist Movement、WFM)は、世界の全ての国家を統合した世界連邦の成立を目指す国際的な非政府組織である。
第二次世界大戦末期において成立した国際連合が戦争抑止力の低いことを痛感した世界の科学者・文化人たちが、より強力な世界連邦の形成をすすめることで世界から戦争を無くしていこうと決意し、1946年10月ルクセンブルクで「世界連邦政府のための世界運動」を起こした。この運動にはバートランド・ラッセル、アルベルト・アインシュタイン、アルベルト・シュバイツァー、ウィンストン・チャーチル、湯川秀樹などのノーベル賞受賞者が賛同した。このとき本部をジュネーヴにおいた。


世界連邦日本国会委員会の第15代会長は鳩山由紀夫元首相。




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by yumimi61 | 2015-12-29 11:53