人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

2016年 08月 01日 ( 1 )


■1940年5月10日 (ドイツ)フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクへ侵攻。 ・・「まやかし戦争」の終了
(1940年5月末から6月にかけてイギリスを中心とした連合国軍は撤退作戦を敢行)
■1940年6月11日 フランス政府によるパリの無防備都市宣言。
■1940年6月14日 ドイツがパリに無血入城。
■1940年6月17日 フランス政府がドイツに休戦を申し込む(6月22日独仏休戦協定)。


休戦をした時のフランス政府は第三共和政。休戦によってフランスはドイツに占領される。
ドイツによるフランス占領に反対して自由フランスが成立。(1944年にフランス共和国臨時政府に発展。戦後1946年に成立したフランス第四共和政に繋がる。現在は1958年からの第五共和政)

フランスの共和政とは共和政権ということである。共和制と言ってもよい。
世襲による君主制に対し、主権が複数者にある政治形態を共和制という。
主権が国民にあって、国家元首(大統領など)や人民の代表者(首相や議員)を間接・直接的に選出する場合は「民主的共和制」で、少数特権階級(貴族など)にのみ主権(代表者になる権利)がある場合には「貴族的共和制」や「寡頭的共和制」という。
フランスの共和政とはすなわち、君主のいない政治体制である。
フランスにもかつて王がいた。シャルルやルイやアンリやフィリップなどの名で知られている。
家によって〇〇朝と呼ばれ、ひと時代を築いた。
フランスの君主に特徴的なのはナポレオン。彼だけは王ではなく皇帝と呼ばれ、政治体制も〇〇朝ではなく帝政と呼ばれる。
ナポレオンの帝政誕生前と、誕生後に短い期間ながら共和政がある。
 ・第一共和政(1792-1804年)
 ・第二共和政(1848-1852年)

1870年に第三共和政が成立して、これが1940年まで続いた。この第三共和政はフランスにとって第二次植民地帝国時代である。
第一次植民地帝国時代は大航海時代に始まったが、1700年代半ばにイギリスと一連の植民地戦争が始まり、フランス植民地のほとんどが没落した。イギリス恐るべし。

おそらくどこの国もそうだろうけれど、国民の意見が一人残らず一致するなんてことはない。
全国民でなく、例えば政治家だけを取り出しても、その意見が全て一致するなんてことはないだろう。
強い理念を持つ個人、強いイデオロギーを持つ集団ほど、摺り合せは難しくなる。

先にそう述べたが、フランスも例外ではない。非常に複雑な国である。

長いこと続いていた王政を打破したのが、かの有名な「フランス革命」(1789-1799年)。
市民革命の勃発したフランスと反革命を標榜する対フランス大同盟(その多くが君主制の国)との戦争が始まる。(フランス革命戦争;1792年4月20日~1802年3月25日)
フランスの史上初の共和政はこの戦争の最中に1972年9月に成立している。
戦争はフランスが一旦は勝利して共和政が認められる。
フランスの「自由・平等・友愛」というプライドはこの時に生まれたものである。
しかし革命によって国内は混乱状態。フランスの借金も莫大に積み上がっていた。(そもそも市民革命の資金はどこから出ているのか?)
フランス革命の末期、混乱するフランスに現れた英雄がナポレオンだった。
ところが王政を倒壊させた市民革命に出現した英雄がなんと、自身を君主にして再び君主制(帝政)を復活させてしまうのである。
フランス革命戦争によってフランスが一旦は勝利したと書いたが、その境目は曖昧なままに、今度はフランス・ナポレオンのヨーロッパ侵略戦争化する。(ナポレオン戦争)
強力な軍事力のもとに帝政を強いたナポレオンだったが、降ってわいたように生まれた「新しい英雄」の資金源はどこだろうか?

・フランス革命(1789-1799年)
・フランス革命戦争(1792-1802年) ・・・市民革命フランスvs対フランス大同盟(君主制国家)
・ナポレオン戦争(1803-1815年)
・ナポレオンによる第一帝政(1804-1815年)

一時期は占領地を広げたフランス・ナポレオンだったが、最後は結局敗れて、フランスは再び王政が復活する。
残念ながらフランスの市民革命は実を結ばなかったと言ったほうが適切である。

現在に続く共和政は1872年から始まったが、これも独仏戦争の最中に誕生している。
軍人を首相にして臨時政府を成立させているのだ。
しかし戦争は敗北濃厚となりドイツとは講和し、賠償金を支払い、ヨーロッパの中心地「アルザス・ロレーヌ」をドイツに割譲した。
ヨーロッパでの戦争には結局勝てなかったフランス。そういう視点で見れば、フランスはイギリスよりドイツより立場が弱いはずである。
その代わりにと言ってよいかどうか分からないが本格的に共和政が誕生して、皮肉なことに(?)再び植民地帝国となっていくのである。


第二次世界大戦の序盤、そんなフランス(第三共和政)がドイツに侵攻された。
すでにイギリスを中心とする連合国軍はフランスからの撤退作戦を敢行しており、フランスにしたら休戦を申し込むしかない状況である。
しかし第三共和政の大統領も首相も抗戦派だった。副首相だけは和平派(休戦派)。
この和平派の副首相(ペタン元帥)が首相になってフランス政府は、休戦協定後も存続した。

主権国家としてのフランス政府存続は達成された。ペタンは「少なくともわが国の名誉だけは守られた」と述べた。ペタンはフランス国民の熱狂的な崇拝対象となり、町中に元帥の肖像が溢れた。ジャン・コクトーはこの熱狂を「元帥は大衆が慣れ親しんでいた君主のイメージに近かった。それにフランスでは高齢はひとを安心させる。彼は瘰癧を癒しかねなかった(ロイヤル・タッチ)。」と評している。

瘰癧とは、結核性頸部 リンパ節炎、頸部リンパ節結核。
瘰癧を癒しかねないとは、俗にいう「奇跡」を起こしかねないということ。
強い霊力・霊性を持つ人物、あるいは、子供などの無垢なる者が病人に手で触れることで、疾病が快癒するという伝承は世界各地に見られる。 傷口や疾病の部位を本能的に手で押さえたり、かばおうとすることは、原初的な医療の形態であろうが、イエス・キリストの奇跡譚にもそのようなものが含まれている。 これは中世ヨーロッパにおいても、王が患部に触れることで病気を治癒するという「ロイヤル・タッチ」として知られる
要するに休戦派(見方を変えれば降伏派)が民衆に熱烈に支持されたということである。

抗戦派の大統領と首相は国外脱出を試みるが拘束される。
同じく抗戦派だった国防次官(シャルル・ド・ゴール)がロンドンに亡命して、「自由フランス」を結成した。
自由を謳うがこちらも独裁だった。
さらに知名度がほとんどなかったこともあり最初はあまり相手にされなかった。
1941年に独ソ戦が始まってからは、(もともとドイツと戦いたかった派なので)ソ連と関係を深めていく。
ソ連を始め、イギリスやアメリカも、「自由フランス」の内閣に相当する国民委員会を承認していった。

自由フランスの「独裁者」であったド・ゴールは尊大な態度で要求を貫いたために連合国間での評判が悪く、「ナポレオン」や「ルイ14世」気取りの俗物に例えられた。
1941年12月24日に自由フランス海軍は無断でカナダのセントローレンス湾沖合いにあるサンピエール島とミクロン島を占拠し、実効支配下に置いた。両島を管轄するフランス領西インド総督はアメリカとの間に中立協定を結んでおり、激怒したコーデル・ハル国務長官は退去を要求した。しかし、軍事作戦上の都合から、1942年4月に自由フランスの支配権は認められた。この事件はド・ゴールに対する連合国の印象をさらに悪化させ、4月1日にド・ゴールが自由フランス政府の承認を要求する声明を出しても英米両国は承認しなかった。
1942年5月5日には米英が無断で仏領マダガスカルに上陸作戦を行い(マダガスカルの戦い)、同島の総督に中立化を求める計画を立てた。ド・ゴールは激しく抗議し、5月14日にはマダガスカルを自由フランスの統治下に置くという決定を引き出した。チャーチルはド・ゴールに腹を立て、マダガスカルからの自由フランス追放を希望するほどだった。
一方でアメリカは5月21日には自由フランスを「フランスの抵抗を代表する機関」として承認し、正式なレンドリースの対象とした。


この「自由フランス」のシンボルが、あの(過去記事)ロレーヌ十字である。
松方からの結核記事はコチラ

(フランスのロレーヌ公が)彼の旗にこの十字を描き、第1回十字軍に参加し指導的役割を果たしたところから、「ロレーヌ十字」と呼ばれるようになった。
もともとは、フランスを侵略者から奪還する戦いで有名となった、ジャンヌ・ダルクの象徴とみなされていた。
第二次世界大戦中、ロレーヌ十字はシャルル・ド・ゴールの下の自由フランス(仏:France libre)の公式なシンボルとして採用された。これはジャンヌ・ダルクの抵抗を想起させ、またハーケンクロイツへの回答でもあった。

ジャンヌ・ダルクはフランスとイギリスの戦いに参戦したということだから、対イギリスということになる。
ジャンヌ・ダルクはカトリックの聖人にもなっている。
ということは、対プロテスタントということにもなる。
by yumimi61 | 2016-08-01 18:24