人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

2016年 08月 22日 ( 2 )

e0126350_041140.jpg


e0126350_044751.jpg


e0126350_074918.jpg


e0126350_0105355.jpg


台風が過ぎ去った夕方、夕焼けに染まった空に虹が架かった。

e0126350_0178100.jpg

by yumimi61 | 2016-08-22 23:59
第一次世界大戦で中央同盟国と戦った国は、「協商」で結ばれた国であった。

イギリスは長いこと保持してきた「栄光ある孤立」を放棄して、1902年に日本と日英同盟、1904年にフランスと英仏協商、日露戦争後の1907年にロシアと英露協商を結んだ。
イギリスが「栄光ある孤立」を放棄した背景にあるのは、ロシアとフランスとの露仏同盟である。
両国は1891年から交渉を開始して1894年に正式に軍事協定を含む同盟を締結した。
「人民の意志」に暗殺されたアレクサンドル2世の後を継いだアレクサンドル3世の時代である。
1891年というのは、アレクサンドル3世の長男(皇太子、後のニコライ2世)が来日した年で、この時日本で暴漢に襲われるという事件が発生して、以降彼は日本人に嫌悪感を持つようになったと伝えられている。
また1891年というのは、シベリア鉄道の建設が始まった年でもある。

イギリスが「栄光ある孤立」を放棄した背景にはロシアとフランスとの露仏同盟があるが、その背景にはシベリア鉄道と日本がある。
日本の明治時代は1868年からであるが、明治維新の際に倒幕派を支援したのはイギリスだったと思われる。明治維新とその後の富国強兵政策にイギリスは日本に大金を貸し付けていた。
ロシアとフランスは日清戦争に負けた中国(清)に大金を貸し付けていた。
さらにロシアとフランスはシベリア鉄道にもかなりの資本を投入している。
(国名で書いているがお金の出所は政府とは限らない。民間である可能性が大いにある)
イギリスは日本に貸し付けた資金が回収できないと困る。
ロシアやフランスは中国に貸し付けた資金が回収できないと困る。
ロシアと日本が戦って日本がロシアに負けることはイギリスにとって避けたい事態である。ロシアと中国が一緒になって日本と戦い日本が負ける状態も同じく。
またあれだけ広大な土地に鉄道が敷かれるということは、海の国であるイギリスにとっては懸念すべきことでもあった。
イギリスはロシアとフランスを敵に回したくない事態に陥ったのだ。

もうひとつの懸念が満洲である。
明治維新にはおそらく満洲が関係している。この事情をおそらくイギリスは知っていた。
日本と中国(清)だけの問題ならばまだ良いのだが、そこにロシアが関係してくるとなると少々厄介なことになる。しかしながら1860年に外満洲地域が清からロシアに割譲されており、内満洲に租借地が提供されていた。
ロシアが外満洲より南下するということは、(まだ日露戦争前のことであるが)それはある意味において日本の領域に入るということなのである。
日本の対露感情が悪化することは避けられないと分かっていた。
1894~1895年の日清戦争は朝鮮を巡っての戦いだが代理戦争、あるいは内戦的な意味合いもある。
イギリスは日本がロシアと戦って負けてしまうことは避けたかった。


第一次世界大戦で中央同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア王国)の敵側になったのは、露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作れる三国協商(Entente Powers)を中心としていた。
つまり、ロシア・フランス・イギリスである。
三国協商が連合国と呼ばれるようになったのは、1917年にアメリカが参戦してからのこと。(第一次世界大戦期間は1914年7月28日-1918年11月11日)

1917年3月はロシア革命が起こり帝政が崩壊した年。崩壊させたのは臨時政府。
レーニン率いるボリシェヴィキが政権を取ったのは1917年11月。
共産主義国家「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の成立は1918年1月。
臨時政府の首相はボリシェヴィキの新聞印刷所を襲って、反撃を食らうと、アメリカ国旗のはためく自動車で逃げ出したという。
アメリカが参戦したのはその年である。

昨日書いたチェコの独立運動を推進していたトマーシュ・マサリク。
彼は自分と同じように連合国へ亡命した政治家や連合国に住んでいる移民などを集めて組織化し、「チェコスロヴァキア国民会議」を発足させた。
そして敵国である連合国を巡ってチェコ独立への支援を訴えた。
ところがイギリスとフランスは「帝国の解体を目的に戦争を行っているわけではない」とこれに冷ややかだった。
一番手ごたえがあったのは結局ロシアなのだ。
この場合のロシアとはロシア帝国を崩壊させた「臨時政府」である。
臨時政府の首相がアメリカ国旗付の車に乗っていたことからも分かるように、ロシア臨時政府はアメリカの支援を受けていたと思われる。
そうとなればアメリカは反ボリシェヴィキ・反レーニン・反トロッキーだったということになる。
(だけどロシアが広いようにアメリカも広い。植民地時代からの独立戦争だけを見てもアメリカという国は一様ではない。さらに多くの移民が流入して商売したりしているのだから非常に複雑な国である)

チェコ出身の哲学者で政治家のトマーシュ・マサリクが独立を目指して発足させた「チェコスロヴァキア国民会議」と、それより先に自然発生的に生まれてロシアで組織化された「チェコスロバキア軍(汎スラブ派)」は同じようでいて同じではない。
前者はどちらかというと「国」に重点が置かれていて、後者は「民族」に重点が置かれている。
「チェコスロバキア軍(汎スラブ派)」を指揮していたのは「チェコスロヴァキア国民会議」だったと説明されることも多いが、それはたぶん違うと思う。

ロシア(ボリシェヴィキ政権)がドイツと講和して第一次世界大戦から離脱したのは1918年3月。
ドイツは東に軍隊を送り込む必要はなくなったので西側(フランス・イギリス側)に集中できるようになった。こうなると西側はピンチである。
そこで連合国側はロシアの「臨時政府」に要請して、ロシアに付いていたチェコスロバキア軍(志願兵や捕虜からなる民族軍隊)を西部戦線に送りこんでもらうことにした。
チェコスロバキア軍はシベリアを経由してウラジオストクに向かい、アメリカ経由の海路で西部戦線に渡ることが決められた。
ところがロシア政権には「チェコスロバキア独立のために送り込む」と説明される。
そして1918年3月26日、ロシア政権は「チェコスロバキア国民会議」のロシア支部と条約を締結し、チェコスロバキア軍が武装解除して、民間人としてウラジオストクに移動することを許可した。


1918年4月5日、ウラジオストクにおいてロシア軍の軍服を着た強盗が2人の日本人を殺害したため、日本軍の2個中隊が市内に進駐した。ウラジーミル・レーニンは、これを大規模な干渉の始まりと見て、チェコ軍団の移動停止を命令した。4月10日、ウラジオストク当局は日本軍の増派がないことを報告し、12日、レーニンは停止命令を取り消した。しかしながら、この数日間の遅滞は、チェコ軍団将兵に強い不満を引き起こしていた。

旧ソ連の公式説によれば、チェコ軍団の蜂起は、1918年5月14日、チェリャビンスク駅において、チェコスロバキア兵とハンガリー兵間の乱闘が原因とされている。


移動の過程でチェコスロバキア軍がシベリア鉄道沿線で蜂起したのだが、何処で何をきっかけにどのように蜂起したのか分からないのが実情なんだと思う。
国の軍隊とは違うので指揮系統が明確ではない上に、民族で結びついている集団である。
各国とも把握しきれていない。後世においても同じ。だから何で蜂起したのかも分からない。
チェコスロバキア軍は民族的に近いロシアと共に戦うことはあっても、フランスやイギリスと組んで戦う理由は別にないのだ。
ロシアがドイツと講和した今、どうしてフランスやイギリスと一緒にドイツと戦わなければならないのだ?と思うだろう。
同盟国や連合国という範疇には収まらない。それで収まるくらいならばオーストリアやチェコ側である同盟国として戦っている。


蜂起したチェコスロバキア軍はシベリア鉄道沿いに勢力を広げていって、西シベリア一帯とウラル山脈一帯の辺りを支配下においた。(紫でマークした辺り)
反ボリシェヴィキであるメンシェヴィキと社会革命党もチェコスロバキア軍の協力を受けて、青マーク辺りを支配下に入れた。
e0126350_1712824.jpg


ロシアはとにかく広大な国なので、地域もヨーロッパとアジアに跨っている。
ウラル山脈の西側はヨーロッパ地域で、ウラル山脈の東側がアジア地域となる。
赤い線の外側はかつてロシア帝国支配下にあっただが現在は独立している地域。
茶色い丸が2つあるのがカザフスタンなのだが、右上の丸がセミパラチンスク核実験場。左下の丸はバイコヌール宇宙基地。

■セミパラチンスク核実験場
1947年にソ連の原爆開発の最高責任者であったラヴレンチー・ベリヤによってこの場所が選ばれた。ベリヤは、偽ってこの土地一帯が無人だと主張したとされる 。核実験の準備に伴い、実験場郊外に秘密都市セミパラチンスク-21(現在のクルチャトフ市)が秘密警察の指揮下で囚人労働で建設され、関係者が集められた。

1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験に使用された。施設は最初の核実験からちょうど42年目にあたる1991年8月29日に正式に閉鎖された。市民の被曝による影響はソ連政府によって隠蔽され、1991年の実験場の閉鎖間際まで明らかにされることはなかった。
ソ連崩壊後はカザフスタンの所有となったため、世界の核実験場では唯一、他国による調査が可能となっている。


■バイコヌール宇宙基地
宇宙基地の建設は1955年1月12日にカザフ高原の小さな駅チュラタムに降り立った兵士の一隊によって始めらた。
2月から政令に基づいて本格的な建設が始まり、4月頃には完成し、6月2日にオープンした。
旧ソ連時代からロシアの全ての有人宇宙船の打ち上げに使われている。
チュラタムにあるのに「バイコヌール宇宙基地」と名前が付けられているのは、正確な場所の秘匿のためであった。本来のバイコヌールはチュラタムの約500Km南西にある。
1955年の建設開始時には、作業員達にはスポーツ競技用のスタジアムの建設だと伝えられており、秘密にされたまま建設が進められた。

ソビエト連邦崩壊後は発射場を中心に東西90km、南北85kmの楕円状の土地がカザフスタンからロシアに年間使用料1億1500万ドルで租借(リース)されている



スターリンがソ連の最高指導者に就いていた期間は、1922年4月3日~1953年3月5日。
1953年3月5日はスターリンが亡くなった日でもある。
核実験場はスターリン存命中に建設されたが、宇宙基地はスターリン亡き後の建設である。
by yumimi61 | 2016-08-22 13:36