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2016年 09月 29日 ( 1 )

物理学者ラザフォードの言うように「原子核のエネルギーを工業的規模で解放することは出来ない」とするならば、ウェルズ作品は現実のものとはならない。
核戦争が起きないならばそれに越したことはないし、元々小説であり作品だから別に現実にならなくても良いはずだが、シラードはそれでは嫌だったのだろう。
敬愛するウェルズを否定されたようで悲しんだのか、それとも自分の好奇心や高揚感を否定されて落ち込んだのか、シラードはそれから核エネルギーのことが頭を離れなくなった。


核エネルギーが頭を離れなくなったシラードは、すぐさま核エネルギーに関するいくつかの特許を取得した。

STAP小保方騒動の時にも書いたかもしれないが、特許は何か特定の物についての存在の証明をしているわけでもないし、特許申請された方法や技術の正当性や最適化を保証しているわけでもない。
それが有益で優れたものであることを公認したのとも違う。
「今までに特許申請されていない、これまでに認可されていない技術(=新しい技術)」であることを保証し、その技術の開発者と認めただけである。
有益なものもあれば、しょうもないものもある。
特許は物に対して与えるものではなく、形がない発明(技術)に対して与えられるものである。
間違っても「STAP細胞」に特許は与えられない。


シラードは1932年に発見された素粒子中性子による連鎖反応の理論的可能性に思い至る。
「電気的に中性な中性子は容易に原子核に衝突させることができ、もしそれによって複数の二次中性子を放出するような種類の原子が存在すれば、莫大な核のエネルギーが放出されることになる!」

中性子の発見は1920年のアーネスト・ラザフォードによる予想に始まり、その存在の実験的証明は1932年にケンブリッジ大学の物理学者ジェームズ・チャドウィックによってなされた。
チャドウィックは上記の核反応で発生する粒子(当時はまだベリリウム線と呼ばれていた)n が、陽子とほとんど同じ質量で中性(電荷を持たない)の新しい粒子からなる粒子線である事を確認し、これを中性子(neutron)と名付けた。


アーネスト・ラザフォードとは1933年に「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説いたその人である。

中性子はなく、核分裂でもないとすると?

(シラードは)核連鎖反応のアイデアがナチス・ドイツに洩れることを防ぐために、この特許をイギリス陸軍に譲渡し秘密扱いにするよう申請したものの拒絶され、海軍へと同じ申請を行った。
彼はいくつかの根拠からベリリウムやインジウムなどを連鎖反応を生成する可能性のある有力な候補とみなし、病院の施設を借りて実験を行った。 実験によってベリリウムは中性子源として利用できることが判明したものの、期待した連鎖反応を起こさないことが分かった。他の元素での実験を企図したものの、亡命先でしっかりした地位がなかったため資金難から十分な実験を行うことはできなかった。


シラードは敬愛し原子爆弾を描いたSF作家の母国イギリスの軍隊に自分のアイディアを持ち込んだが相手にされなかった。
軍隊に持ち込んだのは需要が必要だったからで、なぜ需要が必要なのかと言えば、資金を得たいがためである。
戦争や敵(ライバル)は需要を掘り起こしやすいということなのだろう。平和や無欲な状態、危機感無き場所では需要が刺激されない。
需要なき研究開発は自分の興味関心を満たすものに過ぎない。
それでも良いという人もいるだろうが、結局資金がないと出来ないので、需要に頼る羽目になる。
もちろん自分の興味関心を満たすだけでは物足らないという名誉欲に満ち溢れた人もいる。
どちらにしても需要頼みとなる。
要するに技術開発というのはいつでもアドレナリン優位、戦闘状態のようなものなのだ。


シラードは1919年に母国ハンガリーから逃げるようにしてドイツに移り住み、1933年にオーストリアに亡命、
イギリスやアメリカを行き来するなか、イギリスのオックスフォード大学クラレンドン研究所の常勤研究員としての職を得て、アメリカに滞在していたがほどなくして退職。
シラードは帰国せずにアメリカで暮らすことを決意する。1939年初頭のことである。
この頃にはシラード自身も核の連鎖反応は実現不可能なもので、自分は時間を無駄にしただけだと思うようになっていたそうだ。

あの論文が発表されたのはちょうどそんな時だった。
1939年1月、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマが「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功したそうだ。
シラードはこのことを旧知の知り合いから伝え聞いた。

中性子の照射によってウランは2つの核に別れ、それに伴って莫大なエネルギーが放出される。こうしてシラードの予想とはやや違った形で突如としてウランによる連鎖反応の可能性が浮上した。
ナチスが原子爆弾を先に完成させるのではないかという強い危機感を抱くようになった。

シラードが考えていた核反応は「分裂」ではなかったのだ。

オックスフォード大学の研究所を辞めてアメリカでの職を失ったシラードはコロンビア大学に転がり込んだ。
コロンビア大学には物理学者のエンリコ・フェルミとウォルター・ヘンリー・ジンがいた。

エンリコ・フェルミ
イタリア、ローマ出身の物理学者。統計力学、核物理学および量子力学の分野で顕著な業績を残しており、中性子による元素の人工転換の実験をして、多くの放射性同位元素を作り1938年のノーベル物理学賞を受賞している。フェルミに由来する用語は数多く、フェルミ推定のような方法論やフェルミのパラドックスといった問題、フェルミ粒子のような粒子の分類やフェルミウムといった元素名にその名を残している。他にも物理学の用語にフェルミに因むものが多く存在する。実験家と理論家との2つの顔を持ち、双方において世界最高レベルの業績を残した、史上稀に見る物理学者であった。

ピサ高等師範学校で物理学を学ぶ。1918年(17歳)で入学し、1922年(21歳)で学位取得。
1926年25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した。
ここで、ニュートリノの存在を導入したベータ崩壊の理論(フェルミのベータ崩壊の理論)を完成させた。また、自然に存在する元素に中性子を照射することによって、40種類以上の人工放射性同位元素を生成した。さらに、熱中性子を発見し、その性質を明らかにした。これらの成果によって、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。このノーベル賞受賞の為、ストックホルムを訪れた際に、ユダヤ人の夫人と共に、アメリカに移住する。あらかじめコロンビア大学の永住権スポンサーがあったので亡命ではなかった。


1920年、物理学者アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)*が「中性子」を予想する。

1926年、物理学者(?)エンリコ・フェルミ(イタリア)25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した。

1930年、物理学者ヴォルフガング・パウリ(オーストリア)**が「ベータ崩壊に関わる中性粒子(後のニュートリノ)の存在」を提唱。
これを受けて、エンリコ・フェルミが「ベータ崩壊を4種類の粒子が1点で相互作用する過程とする理論」を構築した。
 ⇒フェルミが上記論文をイギリスの学術雑誌Natureに投稿したが、「推測的過ぎる」という理由により掲載拒否された。(Natureはこの審査について、創刊以来の大きな編集ミスの一つであると認めているそうな)

1932年、物理学者ジェームズ・チャドウィック(イギリス)***が「中性子の存在」を実験で証明する。

1933年、ラザフォードが「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説く。

1934年、フェルミはNatureに拒否された上記論文をイタリアの学術雑誌Nuovo Cimentoとドイツの学術雑誌Zeitschrift für Physikへ投稿し掲載される。

1938年、フェルミが中性子衝撃によって作られる新放射性元素を生成し、熱中性子を発見する。
1938年、シラードがアメリカに移住。
1938年、ウォルター・ヘンリー・ジンがアメリカに帰化。
1938年、フェルミがノーベル物理学賞受賞。授賞式の後にアメリカに移住。
1939年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)****とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)*****が「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功。

*アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)
21歳の時に学士、22歳で修士の学位を取得、復学をしたり留学したりで23歳と26歳の時にも学士を取得。
博士号を取得したのは30歳の時だった。「核物理学の父」と呼ばれる人物。
1933年に「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と言った人。

**ヴォルフガング・パウリ(オーストリア)
ドイツ・バイエルンのミュンヘン大学で21歳の時に(大学入学3年後)で博士号を取得。

***ジェームズ・チャドウィック(イギリス)
イギリスのケンブリッジ大学のカレッジ(Gonville and Caius College)で30歳の時に博士号取得。
20歳で大学卒業、修士号は1913年22歳の時にビクトリア大学で取得していたが、その後第一次世界大戦が始まった。
彼はラザフォードに師事していて、博士号もラザフォードの下で取得している。

****オットー・ハーン(ドイツ)
ドイツのマールブルク大学で22歳の時に(大学入学4年後)で博士号を取得。

*****フリッツ・シュトラスマ(ドイツ)
ドイツのハノファー大学で27歳の時に(大学入学9年後)博士号を取得。


ウォルター・ヘンリー・ジン
カナダのベルリン出身。
カナダ・クイーズ大学で1927年21歳の時に学士、1930年24歳の時に修士の学位を取得。
同年アメリカのコロンビア大学に入学し物理学を学び博士号取得。

1927年~1928年はクイーンズ大学で、1931年~1932年はコロンビア大学で教鞭をとり、1932年にニューヨーク市立大学の講師になった。
1938年にアメリカに帰化し、コロンビア大学の物理学研究所で働いていた。
by yumimi61 | 2016-09-29 13:00