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2016年 10月 30日 ( 1 )

1596年7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指し太平洋横断の最中に台風に遭遇。日本の土佐沖(現・高知県土佐市)に漂着。
そこでサン=フェリペ号事件が起き、それをきっかけに再び禁教令が発令された。
そしてフランシスコ会の宣教活動が禁教令に対して挑発的であると勝って決めつけられて、京都や大阪にいたフランシスコ会の宣教師3人と修道士3人(スペイン人4人、メキシコ人、ポルトガル人各1人)、および日本人の信者20人が捕らえられ長崎まで市中引き回し(見世物)にされ処刑された。

サン=フェリペ号事件とは対照的な出来事が1609年にあった。時は江戸時代になっていた。
1609年9月、フィリピンのマニラからメキシコに向かっていたガレオン船3隻が航海中に台風に遭遇し、1隻は難破し日本の田尻の浜(現:千葉県夷隅郡御宿町)に漂着する。ここで地元民に救助された。
もう1隻は豊後(現:大分県臼杵市中津浦)に緊急入港し、もう1隻は航海を続けた。
この3隻の中の1隻にはフィリピン総監交代のため召還命令を受けたロドリゴ・デ・ビベロが乗っていた。
彼はフィリピン総監死去を受けて臨時総監を務めており、その後正式に就任する者が決まったため御役御免でフィリピンからメキシコに戻るところだったのだ。
ロドリゴ・デ・ビベロが乗っていた船が千葉に漂着した船であった。

難破し50人余りが溺死し、300人余りが 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に上陸した際はこれを保護し歓待した。ロドリゴは「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で、一行は約40日間滞在したが、その間、村の人々が献身的に対応してくれたと記している。大多喜城の本多忠朝(藩主)も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった。
大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と命名、1610年(慶長15年)8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。



サン=フェリペ号事件から2年後の1598年に豊臣秀吉は病没した(61歳)。

豊臣秀吉は明(中国)の征服を目指していた。
配下の西国(西日本)諸大名を結集させ遠征軍を立ち上げた。
秀吉は朝鮮の手助けがないと中国征服は難しいと睨んでいたのか(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向ける。
こうして1592年に戦争が始まるも明がそれ以上の戦闘の拡大を防ぐために朝鮮へ出兵させたため朝鮮で膠着状態となり1593年に休戦し交渉が始まる。
しかし1597年に交渉決裂し、翌1598年に再び戦闘が開始される。
そんな中、秀吉が亡くなったわけだが、秀吉の死によって日本は撤退することになった。
この中国や朝鮮半島への野望は明治政府で復活することになる。

双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。

豊臣秀吉の死から5年後の1603年(徳川家康60歳)、江戸幕府が成立し、徳川の時代に入る。
後世からみると江戸時代は長いので、初代の徳川家康が並々ならぬ強権者だったように感じるかもしれないが、家康は自分の地位や権力にはわりと頓着しない人であった。
秀吉に絆されて和解したり、秀吉の死後もすぐに天下を取らなかったり、新田が祖先であることを強調したりと、そうした性質は随所に見られるが、家康が征夷大将軍だったのも僅か2年のことで1605年までである。
1605年(家康62歳)に将軍職を辞して息子に譲位し、後で支える人になった。(これが大御所政治と呼ばれるようになる)

大御所政治(将軍を辞した1605年から1616年に死没するまでに家康が行ったこと)
・1605年、ウィリアム・アダムス(三浦按針)の船友2人をタイ南部パッターニ(Pattani)へ送って日本とオランダの貿易を招聘。
・1607年、朝鮮通信使と謁見し、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復。
・1609年、オランダ使節と会見。オランダ総督からの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可。
・1611年、家康の祖先である新田義重(旧名は源義重;新田氏本宗家の初代で上野国新田荘を本拠としていた。この時はすでに故人、墓所は群馬県太田市別所町の円福寺)に鎮守府将軍を贈官する。
・1611年、エスパーニャ(現:メキシコ)の副王の使者と会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る。
両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない。
・1613年、イギリス東インド会社のジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可。

この他中国とも通商関係があった。

日本で徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始する。
日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。

※対馬藩は対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)並びに浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩。

朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。
このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。
1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。


要するに幕府が作成した国書ではなく、対馬藩が勝手に国書を作った(偽造した)のである。
さらに相手からの回答書も改ざんした。
自分の国も相手の国も騙したわけだ。
なんでそんなことをしたかと言えば、日朝貿易の実権を握りたかったからである。
1609年に貿易協定である「己酉約条」が締結されている。
内部告発によって偽造や改ざんが発覚するのは30年も後のことである。
すでに条約が運用されていたため、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれることになった。
管理を強化するにはそれなりの理由がある。

鎖国ではないが一般的には鎖国と呼ばれている時代は1639~1854年。
1639年、南蛮船の入港を禁止したのだ。

何故南蛮船の入港を禁止するに至ったか、それにはウィリアム・アダムス(三浦按針)を知る必要がある。
江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。

アダムスはイギリス人であるが、オランダ・ロッテルダムから極東(日本)を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願した。
航海は5隻からなる船団で行われ、1598年6月24日に出航した。

①ホープ号("希望"の意・旗艦) ⇒沈没
②リーフデ号("愛"の意)
③ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船) ⇒オランダに引き返す
④トラウ号("忠誠"の意)  ⇒ポルトガルに拿捕される
⑤フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意) ⇒スペインに拿捕される

アダムスは①ホープ号、弟トマスは④トラウ号の航海士として採用される。
兄弟は航海途上で②リーフデ号に配置換される。
航海は散々で日本に到着したのは②リーフデ号のみ。
これを運命と言わず何を運命と申しましょう。
そのリーフデ号も食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。
アダムスは生き残った1人だったのである。
しかし生存者も危うく殺されるところだった。

1600年4月29日、リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報した。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。
結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。

5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招く。 


徳川家康はここで知ったのだ。
カトリックのイエズス会とフランシスコ会の対立だけでなく、西洋にはカトリックとプロテスタンという対立があるということを。
日本人からは得られない情報、すでに日本で活動していたカトリックからはもたらされなかった情報、貴重な情報でありアダムスは貴重な存在だった。
家康はアダムスを離したくなくなって外交顧問にした。


ここでもう一度、フランシスコ会とイエズス会を整理しておく。これが非常にややこしいのだ。

★フランシスコ会 
 1209年イタリアでフランシスコ(イタリア人)が創立。無所有と清貧を主張し托鉢を行いながら布教。
 レコンキスタでカトリック国となった1429年以降のスペインで浸透し、フィリピン、メキシコと版図を広げていった。

★イエズス会
 宗教改革真っ只中の1534年8月15日にフランスで創立される。(フランスも一応カトリック国)
 創立者はパリ大学の学友6名。 しかし創立者にフランス出身者はいない。
 出身内訳は、スペイン5人、ポルトガル1人、サヴォイア(イタリア・フランス・スイスにまたがるようにしてあった国)1人。
 貿易と布教が一体。教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し現代に至っている。


フランシスコ会とイエズス会は対立していた。
フランシスコ会をスペイン系と書いたが、実はイエズス会も創立者7人のうちの5人がスペイン出身である。
フランシスコ・ザビエルも7人のうちの1人でスペイン出身である。

スペインとポルトガルはレコンキスタ(カトリックが再征服)によってカトリック国となった国。
レコンキスタが成就した後に大航海時代はやってくる。ローマ教皇はこのスペインとポルトガルを利用して貿易一体型の布教を行い植民地化を試みていた。

史上最悪のローマ教皇と言われたアレクサンデル6世(在位:1492-1503年)、スペイン出身。
1494年にスペインとポルトガルに「トルデシリャス条約」を結ばせる。
ヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めで、西経46度37分の経線を境に、西側はスペイン、東側はポルトガルものとした。
大西洋側に線引きをしたということ。ところが反対側の太平洋側に線引きを行っていなかったので東南アジアのモルッカ諸島(インドネシア)の帰属をめぐって両国に争いが行った。
そこで反対側の線引き交渉が行われ、1529年に「サラゴサ条約」も締結された。
下の緑の線が太平洋側の線。日本は北海道が少し分割されてしまう。
緑の線の西側はポルトガル、東側はスペイン。
日本が放棄したはずの北方領土にやたらこだわるのは、世界征服を狙ったカトリックのこの条約由来!?
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ローマ教皇(スペイン・ポルトガル)の世界征服の野望が頓挫するきっかけとなったのがフランシスコ会であり日本であった。
by yumimi61 | 2016-10-30 11:32