by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

2017年 04月 28日 ( 1 )

貴族とは何か?
貴族とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する
貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。


イギリスにはいまだに議会を構成する貴族院が存在する。

日本で言えば、天皇と天皇が特権を与えた人々が貴族に該当するわけだが、貴族というものが浸透してこなかった。
その1つの要因が平安時代に大きな転換があったからであろう。古代からのヤマト(大和)朝廷が乗っ取られるような形で終わってしまった。
その平安時代に華やかな貴族社会が形成される。
京都の朝廷で天皇に仕える貴族は公家として別扱いされるようになる。
しかし平安時代末期に地方に経済的・軍事的基盤を持つ武家が現れ始めた。平家や源家はその代表格。
そして1300~1500年頃には天皇・皇族・公家は経済的・政治的実権を喪失した。
これが復活したのが1800年代後半の明治維新である。

●天皇家
●公家(公家の中でも最高幹部として国政を担う職位にあるものを公卿という)

平安時代に公家の中でのも格式や家格が定まってきて公卿になれる家筋は限られるようになった。
平安時代末期には武家にも公卿になる道が開かれた。

●将軍徳川家
●大名
 親藩:徳川家の親戚(御三家・御三卿など)→格式は高いが権力が集中してしまうため幕府の役職には就かない
 譜代:代々徳川家に仕えてきた家臣
 外様:関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した大名と戦後に服属した戦国大名

大名分類は上記の類の他に知行石高(領地の大きさ)も関係する。
大名という名称のルーツは鎌倉時代にあり、大きな名田(荘園・領地)を持っていた者のことを言った。
また一国以上の領地を持つ大名を国持ち大名とも言った。前田家、島津家、毛利家はその代表格。
(国というのは上野国や下野国などのことで現在の県と考えてよいと思う。藩はその中にあるもので現在の大きな市といった感じ)

●幕臣・・・幕府直属の家臣全て。
 旗本:知行が1万石以上で将軍に直接謁見できる家格にあったもの。
 御家人:知行が1万石未満で将軍に直接謁見できない家格にあったもの。


会社で例えると、德川将軍家が株主であり社長。
親藩が株主。
譜代が本社勤務で役職に就くもの。
外様が子会社で役職に就くもの。子会社などの社長。
幕臣は本社所属の従業員。その中にも社長に直接面会できる人とできない人がいる。
武士というのは公務員であり会社の従業員であった。
自由業ではないので何でも自分の好きなことが出来るわけではないが、お給料がもらえ比較的安定した生活を送ることが出来る。
大名や役職に就けばかなりの権限が与えられて好きなことも出来るようになる。
しかし公務員や従業員は命令によって時には危険な仕事やきつい仕事もこなさなければならない。上下関係もある。
この武士という職業は(商家や農家と同様に)世襲が可能だった。
支持率が高く物事が上手くいっている時に首にしたり解散しますか?という話ですよね。

幕府というのはいわば巨大な会社であるわけだが永久未来その地位が保証されているわけではない。油断をすれば倒されて、別の会社、別の社長になることもある。
世襲にするか、部下を誰にするか、選ぶのは社長であり株主。

一方、君主という存在は動かない。実権を持っている持っていないの違いはあっても、「家」であり「世襲」である以上、それが全く関係ない他の家に移ることはない。正面切って奪うということも不可能。実力や暴力でどうこういうものではない。
奪いたければ正攻法ではダメである。人を騙す、欺く必要がある。
しかしながら世界には君主という存在自体が終わりを迎えた事例が幾つもある。君主を制度と考え廃止に追い込んだわけである。そこには大きな民衆の力が働いた。

実権を失っていた君主という権威を大々的に復活させ、華族制度を敷いたのが明治政府であった。
世襲による特権階級を認めた。それは民主主義に反するものである。世界の風潮の逆をいった。


「家制度」が設けられたのも明治時代のこと。
家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。
家長権は戸主権として法的に保証されていた。


「江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている」とあるが、これは武士が世襲可能だったことに由来する。
また武士という職業は必要とあれば戦に赴くわけで、そんな危険な任務を女性にさせるわけにはいかないということで、男性から男性へ継承されたのは仕方がないことでもあった。
江戸時代が特異的なのは戦争を行わなかったこと。非常に平和な時代であった。
従って戦争に駆り出される武士という職業が他の時代よりもお得な職業に思えたのではないだろうか。
その平和な時代の反動なのか、戦争をしたくてしかたない人がいたのか、明治時代から昭和の前半は富国強兵路線を直走った。


江戸時代というのはどちらかと言えば家の縛りは緩かった。
藩や長屋的な集まりの中で人々は暮らし、日常においては誰が誰の子であるかとかはそれほど重要なことではなかった。
時に外国から日本の家制度や日本企業の家体質は異質とみられることがある。
では何に違和感を感じるのだろうか。
赤の他人が家族のように付き合うことを異質だと感じるのか、それとも家父長的な世襲を異質と感じるのか、
日本の「家」が社会構造やシステムの問題として語られることがあるが焦点がいまひとつはっきりしない。
もっとも世界の風潮に反して君主制や貴族制度を復興させたことは確かに間違いなく異質ではある。


明治時代の民法で定められた「家」は、「戸主」と「家族」から構成される。
戸主は家の統率者であり、家族は家を構成する者のうち戸主でない者をいう。
一つの家は一つの戸籍に登録される。つまり、同じ家に属するか否かの証明は、その家の戸籍に記載されている者であるか否かにより行われた。


家長権は戸主権として法的に保証されており、「家」の財産など諸々は家長権(戸主権)とともに継承した。
これが「家督を継承する」ということである。
現代においては、妻や子(同一戸籍に入っているかどうかに関係なく)が法定相続人にとして認められ財産を得る権利が定められているが、明治時代には戸主を継ぐ者だけが相続できた。













[PR]
by yumimi61 | 2017-04-28 14:44