2018年 01月 04日 ( 2 )

2018年 01月 04日
日本国憲法の秘密-649- (外貨準備と貿易について)
不確実であまりあてにならない、あるいは真面目な計算でもよいけれども、そうした個々の期待(予測)で行動するのではなくて、株価という平均的な、あるいは誰かが意図的に操作した評価をもとに行動するのである。
自ら動いているようでいて実は動かされているのだ。それを外力と言ってもよいかもしれない。


そんな外力が何故生まれるかと言えば、日々刻々と証券取引所が企業(すでに行われた投資)を再評価し株価を付けているから。
ではどうやって再評価しているのか?

ケインズが1936年に刊行した『雇用・利子および貨幣の一般理論』より
実際の世界では、人々は一般に、実際にはただの慣習でしかないものにすがろうと暗黙に合意しています。その慣習の本質――ただしそれはもちろん、そんなに単純には決まらないのですが――は、変化を予想すべき具体的な理由がない限り、現状が無限に続くと想定することです。これは別に、現状が無限に続くと人々が本気で信じているのだ、という話ではありません。広範な経験からして、そんなことがあり得ないのはみんな知っています。長期にわたる投資の実績は、当初の期待と一致することはほとんどありません

現状が無限に続く、そんなことは在り得ないと皆知っている。
人々は永遠を本気で信じているわけではない。
でも未知なる未来は予想できないので(どうやって変わっていくのか予想できる確固たる理由は少ないので)、現状が続くと暗黙のうちに想定している。
だから当初の期待が実績と一致することはまずない。


また、無知な状態にある人にとっては、どちらの方向へのまちがいも同じくらいの可能性があるので、等確率に基づく平均の発生確率的期待は現状のままに落ち着くのだ、という議論で行動を合理化することもできません。
簡単に示せることですが、無知状態にあるから数学的に等確率だという想定は、ばかげた結果につながります。それは要するに、既存の市場による値付けはどんな方法で導かれたものだろうと、投資収益に影響する事実に関する既存知識との関連において一意的に正しい、と想定していることになります。そして、それがこの知識の変化に比例してのみ変わるのだ、という想定もあることになります。
でも哲学的にいえばこれが一意的に正しいはずはありません。既存の知識は数学的な期待計算に十分な基盤を提供しないからです。実際問題として、市場価格には見込み収益と何ら関係のない考慮事項が山ほど入り込んでくるのです。


多くのことは既存の知識だけではどこにも足りない。そんな無知な状態にあり予想も計算も出来ないのに、どうやって投資市場は企業を評価しているのか?

とはいえ、上の習慣的な計算手法は、人々が習慣を維持するとあてにできる限り、かなりの継続性と安定性と一貫性を持つものではあります。

というのも、組織化された投資市場があって、その習慣維持があてになるなら、投資家としては自分の抱える唯一のリスクが、目先の将来に関するニュースの大きな変化だけだという考え方を積極的に抱いてかまわないからです。そうした変化が起きる可能性は、投資家自身が見積もってみることもできますし、どのみちあまり大きくないでしょう。習慣が成立し続けると想定するなら、投資価値を左右するのはそうした変化だけなので、自分の投資の十年後の価値がわからなくても、眠れないほど心配だったりはしません。ですから個別の投資家にとって、その投資は短期ではそこそこ「安全」になります。したがって習慣が続くと多少なりともあてにできて、判断を改定して投資を変える機会があるなら、その短期をいくらでも積み重ねたところでやはり安全ということになります。社会全体にとって「固定」の投資が、こうして個人にとっては「流動的」にされてしまうのです。


組織化された投資市場があり、そこでの習慣を維持することに対して暗黙の了解があり、その習慣があてになると皆が思っている。
要するに誰も疑わない集団。皆が同じ考えを持つ集団。数字や言われたことを鵜呑みにする集団。はみ出すものがおらず、皆が同じことをするという前提にある。だから継続性と安定性を持つ。
リスクは目先の将来に関するニュースの大きな変化だけだと思い込んでいる。それらがもっと先に及ぼしていく影響、遠い未来には目を瞑っている。
投資は本来、何かを緻密に予想したり、何かを強く信じたりして行われるべきものである。どんな結果が出ようが、その結果を引き受ける覚悟が投資家には必要である。
でも実際の投資家はそんなことしない。自分がリスクから逃れるためにコロコロと判断を変えてしまう。短期の安全を確保することに必死となり株価に一喜一憂し売り買いする。個人的に短期の安全を積み重ねているだけ。
人は必ず死ぬ。永遠でないことを知っている。だから自分の生涯だけ安全を保てればよいのだ。たとえそれが社会にとって未来にとって益でなくとも。


投資市場は論理的な必然性を必要とせず各々が自分勝手に振る舞っている世界である。
要するに結局「不確実」な世界なのである。
ケインズはその「不確実さ」がもたらす問題があると述べている。

でも習慣は、物事がこれほど恣意的であることを考えれば、それなりの弱点があってもおかしくありません。こうした不確実な部分が、投資を十分確保できないという現代の問題に、かなり貢献しているのです。

ケインズはこの1936年に刊行した『雇用・利子および貨幣の一般理論』が有名であるが、その15年前の1921年に『確率論(蓋然性論)』(A Treatise on Probability )を出版している。
どちらも超難解な本と言われている。
でも簡単に言えば、1921年には確率(起こりそうなこと)に注目して不確実であることを述べ、1936年には不確実(分かり得ないこと)に注目しマクロ経済理論を展開し経済政策を語った。

――散歩に出掛ける。雨が降る公算のほうが大きいだろうか、それとも小さいだろうか。はたまた降る公算と降らない公算とは同じくらいだろうか。――

散歩に傘を持っていくかどうかは、論理的な必然性を必要とせず各々が自分のしたいようにすればよいことであると1921年のケインズは言う。
雨が降る確率や降らない確率を数値にすることにどれほどの意味があるのかとさえ考えている。それはもっともである。確率に「100%確実」は存在しないのだから。確率が何%であっても結局傘を持っていくかどうかは自分で決めるしかない。

天気と傘の例は一例に過ぎないが、1921年頃のケインズはどちらかと言えば判断は個人に委ねたほうがよいという考えだったであろうと思う。
自由放任主義の古典派に通じる部分がある。
市場(民間)が引っ張って驚異的発展を遂げたドイツが第一次世界大戦に敗れ、戦勝国が「完全なるドイツ潰し」とも思えるような多額の賠償金を課した時代に、イギリス人のケインズはそう思っていたのだ。
ところがドイツがナチス政権となり景気回復した後の1936年頃になると国が音頭をとったほうがよいという考えに変わっている。
その変化の鍵となっているのは「不確実」である。

不確実であると分かっているが故に論理的な必然性を必要とせず各々が自分勝手に振る舞っている不確実な世界。
自分のリスクを回避するために、組織化された集団に身を委ね、そのルールや習慣に従いながら、短期の安全を追い求め積み重ねていく。
そこに生じる継続性と安定性は、言い方を変えれば「確実性」となる。
要するにケインズは不確実であるが故にコントロールが可能となることを学んだのではないか。不確実から確実が生み出せるということである。


『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版した翌年、ケインズは難しいと言われたこの本の解説を論文にて自ら行った。
そこでも不確実について説明している。

ケインズによる『一般理論』の解説(1937年論文)
私は不確実という言葉で、確実な事柄と蓋然的(確率的)な事柄とを単に区別するつもりはない。
この意味においてルーレット・ゲームは不確実ではない。
手持ちのヴィクトリー債(戦時国債)の展望も不確実ではない。
人間の寿命は僅かに不確実であるにすぎない。
天候でさえ適度に不確実であるにすぎない。
不確実という用語は、ヨーロッパに戦争が勃発する見通しが不確実であるとか、20年後の銅価格や利子率が不確実、あるいは新しい発明の退行、あるいは1970年の社会システムにおける資産家の地位は不確実であるといったような意味で用いる。
これらの事柄については計算可能な数値確率を構成する科学的基礎が何もない。私たちは単純に知らないのである。
それにもかかわらず、我々は実務家として何らかの行為と意思決定をする必要に迫られる以上、この不都合な事実から目を背けることを余儀なくされる。そして、一連の利益不利益の将来見通しをベンサム流に計算し、それに適当な確率を乗じて加重総計したものを、さも事実であるかのように振舞わなければならない。


確実の反対が不確実であるという単純な話ではない。
不確実=蓋然性(確率)でもない。
リスクが高いことを不確実というのでもない。
ルーレットの玉はあなたが思った通りの場所には止まらないかもしれない。それを賭けに使えばリスクがあるということになる。
でもルーレットの玉がどこに止まるか、その組合わせは確率的に決まっている。
確率の出せるものは不確実なものではない。
国債は下限価格は0円。上は青天井ではあるが、過去の経験からしておおよその変動幅は決まっている。
そこから大きく外れることはそれほど多くない。確率を出そうと思えば出せなくもない。
また自分が国債を買った以降の国家の状態、現在や近い将来の国家の状態というのは様々なことから判断できる。
リスクはあるが国の債券でもあるし、まるで不確実ということはない。
しかしながら20年後の銅価格や利子率といった細かな数値や、33年後の社会システムがどうなっているかなんてことはまるで見当がつかない。
こういうものを「不確実」というのだと説明している。

注目するのは、ヨーロッパに戦争が勃発する見通しが不確実と述べたこと。
ケインズはドイツ発の戦争がヨーロッパに勃発することを政治経済の状態からある程度予想していたのではないかと私は思う。
但しそれはとてつもなく遠い未来ではなく近い未来の予想であるから可能だった。
自分のリスクを回避するために、組織化された集団に身を委ね、そのルールや習慣に従いながら、短期の安全を追い求め積み重ねていく。
そこに生じる継続性と安定性は、言い方を変えれば「確実性」となる。

戦争前のナチスは短期間で頭角を現してきたヒトラーの下で景気を回復して、1936年のベルリンオリンピックでその力を世界に誇示し、ドイツ国民から熱狂的な支持を得ていた。

それにも関わらずケインズは「ヨーロッパに戦争が勃発する見通しは不確実」であると言った。
それは彼の勘や洞察力から導き出せるものであって戦争が起こる確率が何%と計算できるものではないからだ。
客観的な数字で示せるような頻度や機会の大きさではないものの、完全なる主観でもない。
客観的事実に裏付けされた主観とでも言おうか。
先に書いたように不確実の中から確実性を生み出すことも出来るし、ケインズのように不確実の中の確実性を察知することが出来るのもまた事実であろう。









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by yumimi61 | 2018-01-04 16:45
2018年 01月 04日
他力本願
A strike disrupted the postal system...!?

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by yumimi61 | 2018-01-04 01:39