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2018年 02月 15日 ( 1 )

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Edward Rene David Goldsmith/エドワード・レネ・ デイビッド・ゴールドスミス(1928-2009)
フランスの哲学者、作家。
オックスフォード大学で政治学、哲学、経済学を修める。環境問題の運動家として活動し1969年に『The Ecologist(エコロジスト)』誌を創刊。

エドワードは金融一家に生まれ育ちながら産業社会と経済発展に反対しており、伝統的な人々(先住民や伝統民族)寄りの活動を行っていた。
ガイア仮説の早期提唱者の1人である。



エドワード・ゴールドスミスは1972年に『The Ecologist(エコロジスト)』の特別版として『A Blueprint for Survival(生存のための青写真)』を出版。後に書籍化され75万部以上売り上げ、エコロジー運動初期のキーテキストとなった。

このテキストに大きな影響を受けて同年「PEOPLE」という政治団体が自動車産業の盛んなイギリスのコヴェントリーで設立された。
エドワード・ゴールドスミスはこの政治団体のメンバーとなり、1974年と1979年に選挙に出馬もしている。

政治団体「PEOPLE」は、1975年に「Ecology Party」と改称し、1985年には「Green Party」となった。

Green Party of England and Wales(イングランド・ウェールズ緑の党)
イギリスの環境政党である。
1973年に結成されたPEOPLE党をルーツとする。これが1975年に環境党に、1985年に緑の党となり、1990年に現在の党名となった。
ヨーロッパ規模では欧州緑の党の、世界規模ではグローバルグリーンズのメンバーである。なおスコットランドにはスコットランド緑の党が、北アイルランドには北アイルランド緑の党が、それぞれ存在するため、イギリス全土にまたがる形での緑の党は存在しない。
全国規模の選挙では、比例代表制が導入された1999年欧州議会議員選挙で初めて当選者を出した。その後も2004年、2009年の欧州議会選挙で議席を獲得した。
2010年イギリス総選挙では小選挙区制の下でキャロリン・ルーカス党首が当選し、初めて下院に1議席を獲得した。翌2011年5月の地方選挙では、ブライトン市で前回比10議席増の23議席を獲得し、第1党となった。なおイギリスの地方議会で緑の党が最大政党となったのは、今回が初めてのことである。2015年イギリス総選挙、2017年イギリス総選挙でもそれぞれ1議席を獲得。


緑の党
環境主義、多文化主義、反戦などを主な主義、信条とする政党・政治勢力。
1970年代から世界各国で台頭してきた、エコロジー、反原発、反核、軍縮、反戦、人種差別撤廃、脱物質主義、多文化主義、消費者保護、参加型民主主義(草の根民主主義も参照)、フェミニズム、社会的弱者の人権などをテーマにした「新しい社会運動」の流れで結成が進んだ政治勢力。出身者の多くが市民運動家や環境保護に関心の高い市民であった。
ここに、さらに社会民主党、共産党、中央党などの既成政党から当選した政治家が離党して新党としての『緑の党」に合流した。このほか、左派系労働運動や民主化運動の活動家が加わっている。


エドワード・ゴールドスミスの環境主義的見解は、緑の党を支配するようになった左派やリベラル的な思想とは一致しなかった。


『A Blueprint for Survival(生存のための青写真)』を発表した翌年1973年に、エドワード・ゴールドスミスと『The Ecologist(エコロジスト)』編集部は、ロンドンから南西端のコーンウォール郊外に移住し、彼らはそこで農場を購入し、なるべく自給自足な比較的小規模なコミュニティを形成しようと17年の歳月を費やした(1990年まで)というから口だけではなく行動の人でもあったのであろう。

1977年、Central Electricity Generating Board (イギリス中央発電庁;1990年に民営化)がコーンウォールの原子炉を設置すると脅してきたため、エドワード・ゴールドスミスはそれを阻止するために訴訟に打って出た。
環境裁判となったわけだが、判決はCEGB(イギリス中央発電庁)に有利なものだった。しかし原子炉は設置されなかった。

1984年には大規模な水力発電ダムの破壊的影響に関する複数の報告書を執筆している。
彼らが問題にしているのは原子力(核)の脅威という部分的で断片的で曖昧なものではない。
熱帯地域の破壊、森林の荒廃、野生生物の絶滅、人間の貧困と飢餓(人口爆発)、これらは世界何処でも大規模な開発プロジェクトに関連して起こるものであるが、それが地球や生態系が自律して持っている「自己調節能力」「再編成力」「再生力」を奪うとしている。
生命や人類が出現した場所はその存続においても鍵となるはずと考えているのであろう。
「自己調節能力」「再編成力」「再生力」、これらの力は人間の即物的な科学技術によってどうこうできるものではないので、それらを失わないようにすることが生存のための青写真になると主張している。
恒常性、不変性、homeostasis、constancy。
エドワード・ゴールドスミスらは、地球環境の破壊を手助けしていると国際通貨基金(IMF)と世界銀行(WB)を長年非難してきた。


エドワード・ゴールドスミスには弟がいる。

James Michael "Jimmy" Goldsmith/ジェームズ・ミシェル・"ジミー"・ゴールドスミス(1933-1997)
フランス生まれで、フランスとイギリスの国籍を持つ億万長者の実業家 、欧州議会議員であり、政財界の大物として知られる。ユダヤ人であり、ロスチャイルド家の親戚である。
ジェームズはオリバー・ストーン監督の『ウォール街』における企業乗っ取り屋のラリー・ワイルドマン卿のモデルとなったと言われている。


彼の父はフランクフルトからパリを経由してイギリスに移住したユダヤ人で、イギリスで政治家になり、その後は事業家(高級ホテル)として活躍した。
教育と特別支援学校に大きな関心を示したり、ロシア帝国からのユダヤ人の移住に関わる団体を支援してユダヤ人保護委員会の移住委員会のメンバーでもあったというその人である。
息子2人はフランス・パリで生まれており、イギリスとフランス両方の国籍を持っており、ユダヤ人(ドイツ出身)というルーツも併せ持つ。

そのフランス生まれの2人の息子はイギリス育ちである。
ともにミルフィールド校(イングランド最大の共学寄宿制私立校)に入学。この学校はいわゆる「伝統的パブリックスクール」ではない。

「伝統的パブリックスクール」
13歳〜18歳の子供を教育するイギリスの私立学校の中でもトップの10%を構成するエリート校。
以前はその大部分が寄宿制の男子校であったが、現在は一部を除き共学制に移行している。イギリスのトップ大学に当たるラッセル・グループ、特にその頂点にあるケンブリッジ大学、オックスフォード大学などへの進学を前提とする。学費が非常に高く、入学基準が厳格なため、奨学金で入学を許された少数の学生以外は裕福な階層の子供達が、寮での集団生活を送っている。近年は、海外の金持ちの子供達がイギリスでの大学教育を見越して入学することが多くなっている。


伝統的パブリックスクールの頂点に君臨するのがイートン校。
階級社会の上流を形成する貴族の子弟が集まる。
イートン校からは19人の首相を輩出しているという。
ウィリアム王子とヘンリー王子の母校でもある。
創設者はフランス王も兼任したヘンリー6世。
ヘンリー6世は15世紀の王であり、イングランド国教会がカトリックから分離独立(16世紀前半のヘンリー8世の時)する前。要するにイギリスもまだカトリックが主流だった時代。

“The Battle of Waterloo was won on the playing fields of Eton.”
「ワーテルローの戦いはイートン校の運動場で勝ち取られた」

ナポレオンを破った著名な軍人ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの言葉として伝わった。
フランス革命の混乱の中から彗星のごとく現われた天才騎士ナポレオンは、王族貴族が幅を利かせるヨーロッパ諸国との戦いに次々と勝利し、ついにフランス皇帝にまで上り詰めた。
そのナポレオンの前に立ちはだかったのがイギリスで、ワーテルローの戦いはヨーロッパの今後を占う天下分け目の戦いになったということである。

ワーテルローという地はイギリスでもフランスでもなくベルギーである。
独立したベルギーに初代国王が即位したのは1831年のことで、この国王は現イギリス王室と同じドイツのザクセン・コーブルグ・ゴータ公国の公爵家から迎えられた。
一族からはイギリス、ベルギーの他、ポルトガルやブルガリアの君主も輩出した。また婚姻関係によってフランスをはじめ、ほとんどのヨーロッパ王室と親戚になっている。

フランス革命から誕生したナポレオンが率いた軍隊は広く国民全体から集めた兵士たちから成っていた。
一方ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーが率いたイギリスの軍隊はイートン校のようなエリート学校出身者たちが数多くいる。
「ワーテルローの戦いはイートン校の運動場で勝ち取られた」とはつまり、地位も学も品もない(?)フランスの軍隊とは育ちも教えも違うという意味なんだそうである。

その言葉を呟いたのは1825年、ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーが母校イートン校でクリケット観戦中だったとか。クリケットがサッカーになったりラグビーになったりもする。
その話が初めて出てきたのは本人の死後3年も経ってからだとか、後代ウェリントン公がそんなことは言っていないと否定したり、どうも出所には怪しさがつきまとう。
そもそもウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーはイートン校を中退しており卒業していないのだとか。
では誰の言葉かというと、実際はイギリス生まれのフランス人で、19世紀のリベラルなカトリック指導者、シャルル・ド・モンタランベール伯爵のものだそうである。

上記のようにナポレオン戦争は対上流階級という側面のある戦いでもあり、その戦いにはカトリック教会やロスチャイルド家が関与している。

そこに登場したのがナポレオン!ヨーロッパの王族や貴族はこの新しい敵を前に一致団結!!
この反ナポレオン勢力に資金を貸し付けたのがロスチャイルド家で、傭兵を貸し出したのがヘッセン家。
ナポレオンはカトリックの権威を利用しようとカトリックに近づく。
しかしナポレオンはイエズス会の残党がいたらしいロシアやプロイセンの反撃により失脚を余儀なくなされる。
ナポレオン撃破に貢献したのはカトリックということで教皇の地位も上がりイエズス会は晴れて復活。
かつてカトリックに対立したヘッセン家は傭兵と郵便支配(ナポレオン戦争のドサクサに紛れてタクシス家を掌中に収めた)で大儲け。ヘッセン家の財産はロスチャイルドがロンドンに移し守ってくれた。
両者win-winで万歳!!
この頃、フランスは親プロイセンで、イギリスは親オーストリアだった。フランスとイギリスは植民地戦争を行っていた。フランスとイギリスは因縁の仲である。
ナポレオンはカトリックを利用しようとして逆に利用される形になった。
イエズス会が復活したのはナポレオンが失脚した1814年のことである。
復活後のイエズス会は急激な成長を遂げた。



総括すると、伝統パブリックスクールの頂点イートン校は伝統的にカトリック系である。

ゴールドスミス家のフランス生まれの2人の息子はイギリス育った。
ともに伝統パブリックスクールとは異なるミルフィールド校に入学した。
兄はその学校を卒業し、世界有数の名門大学イギリスのオックスフォード大学に進学し学んだ。
弟はミルフィールド校からイートン校に転校するも、そのイートン校も中退し大学に進学することもなかった。

超名門大学に進学した兄エドワードだったが、大学で教授される決まりきった枠組みや意味がなくなるほど小さく分解してしまった学問を拒み、包括的な探求に勤しんだ。
卒業後、イギリス人としてドイツにて公務に携わった時期もあったが、その後はベンチャー企業を幾つも立ち上げては失敗に終わり、興味ある主題の研究に多くの時間を費やした。
30歳代(1960年代)には親しい友人と世界を旅し、そこかしこで伝統的な社会の破壊を直接目撃することとなり、いよいよ経済発展や工業化に否定的となり環境問題に傾倒していくわけである。
出版をはじめ以後の活動は40歳以降のことである。








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by yumimi61 | 2018-02-15 12:39