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2018年 02月 27日
日本国憲法の秘密-679- (外貨準備と貿易について)
ハロルド・ウィルソン首相(労働党)は妊娠中絶の合法化、死刑制度の廃止及び同性愛の非刑罰化を含む社会的改革を遂行した首相である。

現代においてこそイギリスは同性愛先進国であるという印象が強いと思うが、昔はそうではなかった。
同性愛というのは大昔からあることはある。軍隊や航海など長期間男性しかいない環境で起こりやすい。要するにアイデンティティや性癖の問題ではなく代替という要素が強いものであった。
同性愛が日常的に問題となり規制が強まっていくのはキリスト教(カトリック)が誕生し普及した以後の事である。
すなわちにキリスト教(カトリック)が同性愛を拡大させた張本人なのだ。

キリスト教が同性愛や中絶を認めていないという話を聞いたことがあると思うが、キリスト教にも宗派がいろいろある。
同性愛や中絶に厳しいのはキリスト教原理主義と揶揄される聖書第一のプロテスタト(福音派)である。
この派閥はカトリックに反旗を翻したのであり、カトリックと同調しない部分が多々ある。
同性愛や中絶に厳しいのがキリスト教原理主義。カトリックは逆である。

「同性愛とカトリック」として以下の記述があるが、表と裏の顔があるというか正しいものではない。
ローマ・カトリック教会において、同性愛行為は自然法に反する罪深い (sinful) ものとされる。カトリック教会において性行為の本性は神の内的三位一体と呼応する結合的で豊穣に結び付くものとされ、適切に表出される限りにおいては神聖視されている一方、これに沿わない同性愛行為(や肛門性交、自慰、姦淫といった「逸脱的」な性行為)は罪深いとされるのである。
また、同教会は人間の性の相互補完性、すなわち異なる者が結合するという性格を神の意思であると認め、同性間の性行為はこの枠組みから外れるものとする。


カトリック聖職者の同性愛(性的虐待含む)は現代においてもしばしば問題になるくらいである。
古くには日本の少年たちがカトリック教皇に寄進されたこともあった。

カトリック教会の聖職者は任職にあたって禁欲の誓いを立てるため、いかなる性的活動も慎むものとされる。またカトリック教会は公式の見解として、同性愛者を「尊重」するよう求めるものの、同性愛行為やこれに与する活動を罪深いものとして非難している。しかしながら、これまでに複数の研究により、高位の者を含めてカトリック聖職者には平均を上回る割合の同性愛男性(行為の程度は不問)が存在していることが示されている。
これを巡り、同性愛とカトリック教会における性的虐待問題の関連を指摘する議論、あるいは召命の価値を論難する議論がある。


カトリック教会の性的虐待事件(Catholic sex abuse cases)
21世紀に入ってローマ・カトリック教会を揺るがしている聖職者による児童への性的虐待問題のことである。2010年3月28日には、ロンドンで当該問題に対するローマ・カトリック教会の責任を問い教皇ベネディクト16世の退位を要求する抗議デモが行われる事態に発展した。

問題の性質上、長きにわたって明るみに出ていなかったが、2002年にアメリカ合衆国のメディアが大々的にとりあげたことをきっかけに多くの報道が行われ、一部は訴訟に発展した。この種の事件が起こっていたのは孤児院や学校、神学校など司祭や修道者、施設関係者と子供たちが共同生活を送る施設であることが多かった。
アメリカに続いて、アイルランド、メキシコ、オーストリアといった国々でも訴訟が起き、イギリス、オーストラリア、オランダ、スイス、ドイツ、ノルウェーにおいても行われてきた性的虐待が問題となっている。アメリカやアイルランド、スコットランドでは教区司教が引責辞任に追い込まれるという異例の事態となった。

これら一連の騒動により、アメリカなどでは一度でも児童への性的虐待が発覚した聖職者は再任することができなくなったが、職場を追われた神父らが、メディアなどの監視が行き届かない南米など発展途上国で同様に聖職に就き、同様の事件を起こしていることがわかり、新たな問題になっている。



キリスト教(カトリック)の勃興によって同性愛問題が拡大し規制が設けられたり強化された。これらの規制をソドミー法(Sodomy Law)という。 

ソドミー( Sodomy)
不自然」な性行動を意味する法学において使われる用語で、具体的にはオーラルセックス、肛門性交など非生殖器と生殖器での性交を指す。同性間・異性間、対象が人間・動物の区別はない。


ソドミーという言葉は聖書(創世記18-19章)由来であるが、その聖書の文言の解釈によって現在のような意味で用いられるようになった。

聖書にある堕落した都市の名「ソドム」と関連しており、 教会ラテン語の "peccatum Sodomiticum" または英語の "sin of Sodom" が起源とされ、共に「ソドムの罪」を意味する。創世記の18章-19章では、神がソドムとゴモラを極めて罪深い場所と知り、住民を殺す前にこれが本当に正しいか確認しようとする。ソドムの実態を確認すべく、神は人間の姿をした2人の天使を街へ送った。2人の天使は夕方に到着した後、ロト(正しい人)に家へ招かれ、そこでロトに夜の間に家族と街を去るように強く勧めた。

神の使いの天使が2人の人間の男性に化けてソドムという場所の偵察に赴いた。
するとソドムの町の男達がそのは2人の客を「知りたい」と思い、ロトに彼らを差し出すように要求した。
ロトはこれを拒否し、代わりに処女の娘2人を好きにしてよいと差し出すことを提案する。
しかしこの提案は町の男達に拒否され、男達はロトを押してドアを押し破ろうと近づいたが天使がそれを防御し、男達を盲目にさせた。
その後ソドムは硫黄と火の雨で破壊された。


創世記の中の「知りたい」ということが性行為をすると捉えられている。つまりソドムの男達は処女の女よりも男に興味を持っていたという解釈である。
実際にそういう意味で書かれたのか分からないし、そもそも同性愛だとしても具体的にしようとしたこと、したことは一切触れられていない。
一般的な感覚からすれば、処女の娘2人を好きにしてよいと差し出すことのほうがよっぽど罪ではないか。
実は神はロト(正しい人)が本当に正しい人なのか偵察を送ったのかもしれない。そして正しくなかったから神によって町は破壊された。 
正しい人の仮面を付けた悪い人が多くいる町、それがソドムだったと解釈できなくもない。

ユダの手紙の19章-21章には様々な点で創世記と似た記述があり、ここでは住民が女性に強姦をした罪によってほぼ完全に街が破壊されたとしている。モーセ五書や預言書では、神のソドム破壊が絶大な力の証明として何度も書かれている。


「処女の娘を差し出すほうが悪い」解釈を採り、神に仕える聖職者ならば、男を差し出す方(同性愛)が良かったのだと理解しても不思議はない。


「ソドム」の悪い所は聖書のエゼキエル書16章でふれられている。
エゼキエルは預言者。
神ヤハウェ→預言者(神の声を下ろす人)→エルサレム(神と契約した人、「人の子」)→その子孫らでなるエルサレムという町にいる民
このような関係がある。
エゼキエル書ではエルサレムの民が反逆の民となっている。神に選ばれ契約を結んだエルサレムだったが、神や神との契約にそむいて今日に及んでいると怒り心頭の神の声をエゼキエルという預言者が「人の子」に伝えている場面である。
つまりエルサレムの悪い所が並びたてられた書である。
16章では女性の性的行動について触れている。

カナンで生まれたエルサレムは誰にも祝福されず野に捨てられ手を差し伸べるものもなかった。
そんなエルサレムに「生きよ、野の木のように育て」と言って救ったのは主なる神だった。水で洗い血を洗い落し、油を塗り、着物を着せ、飾り物で飾った。麦粉と蜜と油を食べさせた。
エルサレムは非常に美しくなって王の地位に進み名声が国々に広まった。
その自分の美しさと名声を利用して、ありとあらゆる者たちと姦淫を行った。神から与えられた衣服や飾りを脱ぎ捨てて。
その挙句、神の子をないがしろにしたり、殺したりした。
エルサレムが遊女と違うのは価をもらって姦淫するのではなくて与えて姦淫することで、価をもらう女を嘲った。
そんな姦淫をやめさせ昔を思い出させるために神はエルサレムに罰を与えると言っている。
自ら進んでしたことを(裸になり姦淫する)、神の力によってさせる(裸にさせられ民衆に攻められる)というのだ。

このエルサレムの姉がサマリヤ、妹がソドムである。
妹ソドムの罪はこれである。ソドムとその娘たちは驕り高ぶり、食物に飽き、安泰に暮していたが、乏しい者や貧しい者を助けなかった。
女たちは夫と子供を捨て傲慢にも神の前で忌まわしいことを行ったので、神は彼女らに罰を与えた。
創世記16章は、男性2人に化けた天使が訪れたロト(正しい人)がエルサレムの妹ソドムで、ソドムは男2人を(心配して様子を見に来た)町の男達にたちに渡さず、それどころか娘2人を差し出そうとした、そして天使が化けた男性2人を誘惑したと解釈できる。

エルサレムは彼女ら以上に神に背くことによって、相対的に彼女らを良く見せて有利にしようとしてあげたのだ。 神にはそれは分かっていたが、自分に背いた罪は罪として受けるべきと言う。
一方で「この母にしてこの娘あり」ということわざを与えている。
エルサレムの母もまた夫と子どもとを捨てたのだと言う。
そして神は姉妹を「娘」としてエルサレムに返し、再び永遠の契約を結ぶとしているのだ。
神がエルサレムの内に自分を犠牲にしても子を思う母の姿を見たからであろう。
エゼキエル書では、破滅したソドム(エルサレムの妹であり町)が復活することが予言されている。

性的不道徳はエルサレムの姉妹にみられ、不自然な性行動はエルサレムの姉妹を思うばかりの度を越す性行動と言えよう。
どちらにしても同性愛のことでもなければ、オーラルセックスや肛門性交のことでもない。
異性との乱れた関係のことである。
同性の愛があったとするならば、それはエルサレムの姉妹愛である。それを神が母子愛に置き換えた。
聖書の解釈が根本的に違うのだ。



「処女の娘を差し出すほうが悪い」という解釈を採ったということは、一般的な感覚を持ち合わせていたということである。
そこまでは良いのだ。問題はその先。
男性を性的目的で差し出すことが良かったかどうかである。神がそれを望んだかどうかである。
「知りたい」ということが性的興味だったか、そうではないか、その違いになってくる。
性的興味ではないはずだ。つまり神は同性の性行為を推奨していたわけではない。
しかしカトリックはそこを誤解あるいは曲解した。
もちろんそうは思わなかった人もいるんだろう。
そのあたりがカトリックとしての明確な統一的見解を出せない理由だと思う。

ともあれ、この誤解あるいは曲解の下に男性間の性的行為や男性を神(聖職者など)に寄進することが(あるいはそれを理由に奪う事が)蔓延っていった。
カトリックが腐敗すればするほどそういうことは顕著になり、行為はエスカレートしていったのだろう。
そしてそれに対する規制が敷かれた。

イングランドではヘンリー8世が "buggery" (男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)を犯罪化する最初の犯罪法『Buggery Act 1533』を制定し、違反者の刑罰に絞首刑を規定したが、実際には1861年までは刑罰は実行されなかった。

ヘンリー8世はイングランド国教会をカトリックから分離独立させた国王である。
イングランド国教会はこの時からプロテスタントという位置づけになる。







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by yumimi61 | 2018-02-27 12:05