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2018年 03月 02日 ( 1 )

誤解があるといけないので付け足しておく。
2月27日の記事に転載したWikipediaの文章。
イングランドではヘンリー8世が "buggery" (男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)を犯罪化する最初の犯罪法『Buggery Act 1533』を制定し、違反者の刑罰に絞首刑を規定したが、実際には1861年までは刑罰は実行されなかった。

1861年に死刑(絞首刑)が実行されたという意味ではない。
1861年に"buggery" (男女を問わず、肛門性交全般および獣姦)が死刑(絞首刑)の対象から正式に除外されたのである。
規定から除外されるまで実際に刑罰が実行されたことはなかった。
1500年代にカトリックから離れたイギリスは以後、刑罰を実行するほどの状態は避けられたということなんだろうと思うということは昨日の記事で書いた。


1800年代後半のイギリスでは青少年の売買春(女性・男性両方含む)が大きな社会問題となっていた。
特にイギリスの上流階級では男性の売買春が盛んだった。
階級社会イギリスで、権威・権力・お金という圧倒的力を持つ成人男性の性的欲望の対象になっていたのが、どこにも力の及ばない少年を中心とした男性だったという事情があった。
その取り締まり強化のために1885年に刑法が改正され、男性同士の親密な関係を示唆する行為は"gross indecency"として刑罰の対象となった。(しかしかつて規定された死刑という刑罰が与えられた重罪の範疇に入るものではない)
その反動として「同性愛」を保護する動きもあった。
そこに持ち出されたのが科学的な(精神病理としての)受容であったが、精神病理を拒否する風潮もあり、同性愛は何も問題ないという意見も現れた。
蔓延する犯罪を抑止するという当初の目的が科学を経由してアイデンティティや人格人権の問題として回収されようとしていた。
しかしそれらを議論するのは為政者や専門家、当事者に近い人物など限られた人達である。
それぞれの立場として譲れない部分や権威・権力のぶつかりあいなどもあるだろうから、そんなに簡単に進む話ではない。


この問題が一般の人達を巻き込んで一気に表面化し騒動となったのは、とある事件と裁判がきっかけだった。
the Montagu Trial(モンタギュー事件・裁判)である。
これにはジャーナリズムが深く関わっている。
何かの転換点や時代の節目にはいつも「扇動」というものが関わっているが、これまたその1つである。
同性愛への風向きを大きく変えさせた事件だったのだ。

同性愛の歴史的転換点のきっかけになった事件であるが、そのわりには知られていない。Wikipediaにも事件としては取り上げられていない。
(やっぱり知られたくないとか?)
何十年も前の事だから当のイギリスでも風化もしているのだろう。
イギリスのタブロイド紙ザ・サンが昨年7月にこんな記事を書いているくらいである。
What was the Montagu Trial, who are Peter Wildeblood and Michael Pitt-Rivers and when was homosexuality decriminalised in Britain?


モンタギューとは貴族の名前である。
Edward Douglas-Scott-Montagu, 3rd Baron Montagu of Beaulieu

1200年代に創設されたバロン・モンタギュー(Baron Montagu)という貴族の家がある。
ビューリーのバロン・モンタギュー(Baron Montagu of Beaulieu)はビューリーという地に作られた新たな貴族の家(分家みたいなもの)。

Beaulieuという語は「美しい場所」という意味のフランス語由来で、Beaulieuはイギリスのハンプシャーにあるニューフォレスト国立公園の南東端にある小さな村。
その地に新たに貴族の家が作られたわけだが、そこはカトリック修道院の跡地だった。
ヘンリー8世が1500年代にカトリックから分離独立したため、カトリック修道院は解散に至った。その跡地をサザンプトン伯爵が購入。
サザンプトン伯爵家の娘とモンタギュー家の息子が結婚し、ビューリーの修道院跡地がモンタギュー家のものになり、そこにビューリーのバロン・モンタギュー(Baron Montagu of Beaulieu)という貴族の家が創設された。
1802年に一旦途絶えたが、1885年に再びそこにビューリーのバロン・モンタギュー(Baron Montagu of Beaulieu)という貴族の家が創設された。

新たなビューリーのバロン・モンタギュー(Baron Montagu of Beaulieu)の初代は、バクル―公爵5代目ウォルター・モンタギュー・ダグラス・スコット(Walter Montagu Douglas Scott, 5th Duke of Buccleuch)の次男。
バクル―公爵の初代はイギリスの君主チャールズ2世の愛人ルーシー・ウォルターとの間にできた庶子。

事件の当事者エドワード・ダグラス・スコット・モンタギュー(Edward Douglas-Scott-Montagu, 3rd Baron Montagu of Beaulieu)はビューリーのバロン・モンタギュー家の3代目。
父方がバクル―公爵の一族ということになる。それはつまり生物学的にチャールズ2世の子孫ということである。
そのチャールズ2世は、カトリックから離れたヘンリー8世の血筋を引かない君主である。
ヘンリー8世はウェールズ起源の君主だが、1603年にその血筋が途絶えてスコットランド起源の王室に代わった。その後1714年にドイツのハノファー起源の王室となる。

モンタギュー事件は王の血を引く貴族のスキャンダルだった。





by yumimi61 | 2018-03-02 14:37