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2018年 03月 03日 ( 1 )

モンタギュー事件の当事者エドワード・ダグラス・スコット・モンタギュー(Edward Douglas-Scott-Montagu, 3rd Baron Montagu of Beaulieu)はビューリーのバロン(男爵)・モンタギュー家の3代目。

1926年生まれ。
2歳の時に父が事故で亡くなり、若干2歳で男爵位を継承した。
イートン校からオックスフォード大学という超名門ルートを歩む。
貴族院議員でもあった。
カーマニアあり、また自宅敷地でジャズフェスティバルを催すなどイギリスの音楽フェスの発展にも貢献した人物だそうである。

子供の頃からバイセクシャルだったと後年になって告白している。
オックスフォード大学には他にもそういう人がいたので環境的には悪くなく、そういう意味では孤独ではなかったそうである。
バイセクシャルと言うだけのことはあって、女性と2回も結婚歴があり、子供もいる。結婚は1958年(32歳の時)と1974年(48歳の時)。


モンタギュー事件は1953年(27歳の時)に起こった。
1953年8月、モンタギュー男爵とその友人らが共謀して、一般開放されていた彼の領地であるソレントのビーチ小屋にて、その案内役をしていたボーイ・スカウトの少年達に"gross indecency" (buggery・sex)をしたとして逮捕された。
モンタギュー男爵が犯した相手は14歳の少年だった。
男爵らは容疑を否定した。
その裁判が同年12月に行われたが、陪審員の評決が割れた。
陪審員の意見が割れて全員一致や特別多数決の条件を満たさない場合は評決不能となり新たなに裁判がやり直されるため、この時は判決が下されないまま閉廷した。


その翌月、モンタギュー男爵は再び逮捕される。
容疑は2年前にモンタギュー男爵の領地で開催されたフェスだかレイブだか週末パーティ(乱交パーティ)だかにおいて、空軍の軍人相手に"gross indecency" があったと告発されたからである。
モンタギュー男爵、そのいとこのマイケル・ピット・リバーズ、ジャーナリストのピーター・ワイルドブラッドの3人が共謀で行ったということで3人が逮捕された。
今度はみな大人である。
男爵らはこれもやはり容疑を否定したという。
"We had some drinks, we danced, we kissed, that's all"
しかも合意の上だったと主張。

最初に逮捕され裁判となった時にすでに「魔女狩り」だと検察側を非難しており、それが判決に至らない中での再逮捕であり、2年前の出来事が引っ張り出されたこともあって、民衆を扇動する土壌が整っていた。

裁判は3月に行われた。
少年に対する犯罪行為の裁判は忘れ去られ、こちらの裁判が「モンタギュー裁判」として超有名になり、裁判経過が逐一報道されるなどして、一般の人々の注目を広く集めることになった。
そしてこの裁判が一部の政治家や教会指導者たちの反発を招いた。


この裁判で重要な役割を果たしたのは容疑者の1人であるジャーナリストのピーター・ワイルドブラッド。
裁判を通して自分が同性愛者であることを公言した初めての人物となった。同性愛者であることを告白し人々の関心を引きつけたのである。
その上で、検察官は同性愛者が人格者であり非道徳的ではなく責任がないことを人々にアピールするような尋問をしている。
弁護士ではなく検察側がである。

検察官:あなたは品性の立派な人であり、あなたの性質に対する非難などあり得ないことに私も同意します。しかしあなたは同性愛者ですね。
ワイルドブラッド:私は転倒者です。
検察官:あなた自身の責任では決してありませんが、あなたは普通の男性が感じない感情や欲望にさらされていますね。
ワイルドブラッド:はい、その通りです。
検察官:そしてあなたには、あなたの性質の感情的な側面を、同性の人に表現したいという欲望がありますね。
ワイルドブラッド:はい、その通りです。しかし必ずしも身体的というわけではありません
(1954年3月23日 タイムズ紙)

犯罪そのものではなく同性愛者や同性愛というものに焦点がある。微妙に論点が摩り替えられている。

ピーター・ワイルドブラッドは裁判にて同性愛の伝道師(宣教師)の役割を担った。
裁判自体は有罪判決によって終了したが、ワイルドブラッドの同性愛広報マンとしての活動はスタート地点にあった。
告白本を手始めに、同性愛についての書籍を数多く出版し、後年にはテレビ番組制作者となり同性愛者の権利を公然と主張した。
BBCでドキュメンタリードラマを作成するなど社会に与えた影響は大きい。
「犯罪者」でありながら「偏見の目にさらされた被害者」という仮面を被って伝説となったのだ。


裁判時から刑法の改正を求める声が大きく上がり、裁判後すみやかに政府は調査委員会(ウルフェンデン委員会)を設置した。
当時レディング大学の学長であったジョン・ウルフェンデンが長となったのでウルフェンデン委員会という。
ジョン・ウルフェンデンはオックスフォード大学にスカラシップ(奨学金)で進学した人物。
1950年44歳の時に公立大学レディング大学の学長となったが、その4年後に調査を任せられることになる。
3年後の1957年「ウルフェンデン報告(Wolfenden Report)」という調査報告書を公表したが、その前年1956年にナイトを受章している。
報告書では21歳以上の男性同士による合意の上での同性愛行為は刑事罰の対象から除外することなどを勧告した。
これも大々的に報道され、脱刑罰化に向けて加速していくことになるが、
法改正がなされたのは10年後の1967年。

合意を強要したりとか、合意があったと嘘をついたりとか、21歳以下と思わなかったと主張するとか、心配はつきないかもしれませんが、同性愛が市民権を得て流行ってしまった以上もうどうにもならないのかもしれませんね。
偏見の被害者が声を上げられるようになっても、性的虐待や強姦の被害者はそう易々と声を上げられるとは思えないけれども。





by yumimi61 | 2018-03-03 00:29