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2018年 03月 15日 ( 1 )

178.png2008年3月まで、カテゴリーとタグ付完了しました。

世紀の大発見となった「DNAの二重螺旋構造」。
その大発見にまつわる「Photo51問題」。
この発見と問題に関わる人物を再度紹介したい。
何故かと言えば、核開発と非常に関係が深いからである。

1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞した3名。
(各人の詳細は3月12日記事参照
●Maurice Hugh Frederick Wilkins(モーリス・ウィルキンス) 1916年生まれ 87歳没
●James Dewey Watson(ジェームズ・ワトソン) 1928年生まれ 存命
●Francis Harry Compton Crick(フランシス・クリック) 1916年生まれ 88歳没


早くに亡くなりPhoto51問題を引き起こすことになった、ローランド・フランクリンの妹。(詳細は3月11日記事参照
●Rosalind Elsie Franklin(ロザリンド・フランクリン) 1920年生まれ 37歳没 


キーパーソンは、これら研究者の監督者であったこの人。

●Sir John Turton Randall(ジョン・ランドール) 1905年生まれ 79歳没

イギリス生まれ 
マンチェスター大学(イギリス)

1926~1937年(21~32歳)の間、彼はGE社(ゼネラル・エレクトリック、本社はアメリカ)で研究職に就いていた
1937年からはバーミンガム大学(イギリス)の物理学教授マーク・オリファント(オーストラリア物理学者、核兵器開発に積極的にかかわり推進した人物)に師事した。王立協会の奨学金を授与された
1944年、ランドールはセント・アンドルーズ大学の自然哲学教授に任命された。この頃から前述のモーリス・ウィルキンスと一緒に生物物理学を研究することを計画し始める。

戦後1946年にキングス・カレッジ・ロンドンの物理学部長となった。
生物物理学ユニットを設立するための資金提供を受け、アメリカでマンハッタン計画に参加していたモーリス・ウィルキンスをユニットのアシスタントディレクターに迎え入れた。
ウィルキンスはこの時に核物理学から離れ、ロンドンのキングス・カレッジ・ロンドンでDNAの構造研究を始めたのである。


GE社
GE社は私のブログに何度か登場しているが、この会社がなかなか曲者である。
会社設立とドイツ進出で、ドイツとの対立の芽になったという経緯があり、第一次世界大戦に影響を与えた(関与した)と考えられる。
アメリカのエジソンがドイツのジーメンスの技術を応用していたこと、アメリカGEよりも先にドイツで会社が設立されたこと、ドイツが第一次世界大戦の敗北や大恐慌に見舞われて力を落とし形勢逆転していったこと、これらのことがアメリカとドイツの捻じれ関係にも繋がった。

1876年、ドイツ銀行が国内最大銀行となる。
ドイツ銀行は国内外に出資して勢力を拡大していく。
またジーメンス社のジーメンス兄弟も次々と世界初の発明を成し遂げる。また単なる原理を実用化することにも長けていた。
ジーメンス社のジーメンスは経営者としてだけではなく技術者(発明家)としての顔を持っていた。
発明王と呼ばれるエジソンの発明はジーメンスの発明を応用したものがかなりある。エジソンは発明家というか応用力に優れていたのかもしれない。

1883年、ユダヤ人実業家・エミール・ラーテナウ(ドイツの政治家ヴァルター・ラーテナウの父親)がエジソンの技術を利用する権利を得てドイツ・エジソン電力応用社(Deutsche Edison-Gesellschaft für angewandte Elektrizität;DEG)を設立。出資者はロスチャイルドなど。

1887年、DEGがAEG(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft)に社名を変更。
エジソンとロスチャイルド系のAEGがドイツ発のジーメンズ領域に進出してきたことが対立の芽となった。

1889年、エジソンがアメリカでエジソン総合電気(Edison General Electric Company)を設立。(→1892年にゼネラル・エレクトリック(GE)となる)



原爆開発の中心人物の1人で、アメリカの原爆開発に重要な役割を果たしたマーク・オリファント

Marcus 'Mark' Laurence Elwin Oliphant(マーク・オリファント)
1901- 2000年 99歳没
オーストラリアの物理学者。
1925年にアーネスト・ラザフォードの講演をきいて、ラザフォードと一緒に働きたいと思い、1927年キャヴェンディッシュ研究所にはいることでその希望をかなえた。
オリファントはヘリウム3、3重水素を発見し、重水素の核融合を発見した。
第2次大戦が始まると、ロバート・ワトソン=ワットによって開発されたレーダーの改良を行うバークレー研究所に派遣された。1943年から原爆開発の研究に加わり、アーネスト・ローレンスとウラン235の精製の研究を行った。


(1936年11月25日、日本とドイツが共産インターナショナルに対する協定、日独防共協を締結)
(1937年11月6日、イタリアが防共協定に参加、日独伊防共協定締結、枢軸国の原形となる)

1938年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの原子核に中性子を衝突させ、副産物としてバリウムを発見する。
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1939年2月、マイトナー(オーストリア)と、その甥であるオットー・フリッシュ(オーストリア)が上記実験の解釈としての「核分裂の生成」論文を書きイギリスのNature誌に掲載される。
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この新しい発見が物理学会に興奮を呼ぶ。
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1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。
1939年9月1日、ニールス・ボーア(デンマーク)とジョン・ホイーラー(アメリカ)が「原子核分裂の予想(ウラン同位元素235は分裂しやすい)」論文を発表。
 ⇒核分裂連鎖反応、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。
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1939年9月以降、イギリス・バーミンガム大学でユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュ(オーストリア)とルドルフ・パイエルス(ドイツ)が、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見をする。
 ⇒フリッシュ&パイエルス覚書
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フリッシュとバイエルスが師匠のマーク・オリファントに報告。(フリッシュはニールス・ボアの弟子でもある)
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マーク・オリファントがヘンリー・ティザードに原子爆弾の可能性について情報提供
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1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織。


ウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させるための組織で、この組織が直接研究などをしていたわけではない。
マーク・オリファントは委員の1人となった。
マーク・オリファントは核の研究をしていたのではなく、レーダーの研究者だった
1940年8月29月、ティザード使節団がアメリカへ出発。
ヨーロッパの核開発に携わる科学者がアメリカに場を移して研究をしていたからである。

イギリスが開発した高度で最先端なレーダー(水冷空洞型マグネトロン)(空洞型マグネトロンはドイツが開発している)、ジェットエンジン、光学照準器、プラスチック爆薬などの技術をアメリカに提供しつつ、原爆開発をしている科学者と面会し、コロンビア大学の研究室などを見学させてもらった。
イギリスのMAUD委員会の判断と報告では「研究は確かに続行していたが、戦争とは関係ない」というものであった。
ティザード使節団はアメリカで行われている研究は戦争に使えるようなものにはならないと判断した。
手っ取り早い理由としては、ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功したはずだが、そもそもウラン235の分離が実現されておらず、分離の目途も全く立ってない状況であったからだ


1940年3月、アメリカの物理学者や化学者がイギリスへ行き、MAUD委員会に出席。
アメリカも米国科学アカデミー(NAS)に核エネルギーに関する審査委員会を設立し調査させた。
1940年5月、NAS審査委員会が「原爆は1945年以前には期待できない」と報告した。
(ところで1945年。1945年というのは終戦の年であるが、1940年に終戦の年を知っていたのだろうか?それともただ単に5年で区切りが良かっただけだろうか)
ともかくイギリス政府や科学者もアメリカ政府や科学者も当初は正しい結論を導いていた。
しかしイギリスのMAUD委員会の1941年7月15日の最終報告で「ウラン爆弾が実現可能」とあっけなくひっくり返ってしまうのである

そして何故か正しい結論を出していた人達が官僚主義と批判されることになる。

MAUD委員会の最終報告書は、アメリカ科学研究開発局(OSRD)のブッシュ長官にも届けられたがアメリカの反応は鈍かった。
最終報告書を持ってアメリカに出向き、原爆を盛んに売りこんだのがマーク・オリファントである
レーダーについての協議(イギリス・バーミンガム大学がマグネトロンの開発をしていた)という名目で、実のところは原爆の売り込みであった。
NASの審査委員会の暫定議長となっていたゼネラル・エレクトリック社(GE)のウィリアム・クーリッジ (William D. Coolidge)にもウラン爆弾を強力に印象付けるのに成功した
GEはマーク・オリファントの古巣である。

マーク・オリファント行脚によってMAUD委員会の最終報告書の内容が1941年10月にルーズベルト大統領に報告され、大統領が原子爆弾開発研究を承認。
1941年10月11日、ルーズベルト大統領がイギリスとの協力体制に関してイギリスのチャーチル首相に書簡を送付し、翌月にはアメリカの科学者が協議のためイギリスに派遣された。しかしイギリスは協力の提案を受け入れず対案もなく協力体制は失効した。

1941年11月26日(日本時間11月27日)、アメリカから日本にハル・ノート(交渉文書)が提示される。
1941年11月27日、原爆に否定的だったNAS審査委員会も、MAUD報告を受けて、この日「ウラン爆弾の実現は確かなもの」と大きく方向転換した。

1941年12月8日、真珠湾攻撃。
 ⇒第一の目標は戦争を長引かせること。(NAS審査委員会が当初、原爆は1945年以前には期待できないと言ったから1945年までがいいかもですね!)
 ⇒第二の目標は世界中を巻き込むこと。


「マーク・オリファントなくして第二次世界大戦の原爆はなし」という状況である。
そのマーク・オリファントに師事していたジョン・ランドールが戦後、「ジョン・ランドールなくしてDNA分析(生物物理学・分子生物学)なし」という状況を作ることになったのである。


セント・アンドルーズ大学
University of St Andrews
イギリス・スコットランドの東海岸セント・アンドルーズ市に所在する大学。1413年創立。スコットランド最初の大学であり、英語圏全体でも3番目に設立年代が古い。
セント・アンドルーズがスコットランドにおけるキリスト教の巡礼地であったことから、中世にはジョン・ノックスをはじめとして多くの宗教指導者がセント・アンドルーズ大学で学んだ。

1410年、聖アウグスチノ修道会のセント・アンドルーズ大聖堂 (St Andrews Cathedral)により設立され、講義を開始。1413年、ベネディクトゥス13世の教皇勅書により正式に開学する。同時期にセント・アンドルーズが大司教座に指定されたのと相まって、急速に発展した。現在のキャンパスも設立当時と同じ場所にあり、中世の面影を色濃く残す。

2013年、セント・アンドルーズ大学は創立600周年を迎える。この節目を前に大学は大々的なキャンペーンを行っており、セント・アンドルーズ大学の卒業生であるケンブリッジ公爵・ウィリアム王子とその妻キャサリンが主要な役割を果たしている。この600周年キャンペーンにはビル・クリントン元アメリカ合衆国大統領や俳優のショーン・コネリーもお祝いのメッセージを寄せている。
 


イギリス王室はウェールズ起源の王室(1500年代)でカトリックから分離独立し、スコットランド起源の王室(1600年代)でカトリックに回帰した。
1700年代からはドイツ起源の王室。

キリスト教というのは今でこそいろいろな宗派があるが、元の初めはユダヤ教に反旗を翻したイエス・キリストを中心としたグループであり、イエス亡き後に新約聖書とともに新教を確立していった。
ローマ帝国が東西に分割され、西側にはゲルマン民族大移動によってゲルマン人が多数流入。これによってキリスト教は確固たる地位を獲得し、それまで多神教だったローマ帝国の国教になっていくのである。(やがて西ローマ帝国が滅亡しカトリック教皇に認められた皇帝を擁する国家へと変貌、東は長い歴史の中で正教会やイスラムなどが進出し性質を大きく変えていった)
こうしたキリスト教初期には当然まだプロテスタントは存在していない。少数の異端者を除けば全てのキリスト教をカトリックと見做してよい。

設立者である聖アウグスチノ修道会というのは、初期のキリスト教の修道会から発展した修道会である。すなわちカトリック修道会である。
学校として正式に認可したのはベネディクトゥス13世教皇。

ベネディクトゥス13世(Benedictus XIII,1328年11月25日 - 1423年5月23日)は、カトリック教会の対立教皇(在位:1394年 - 1417年)。アラゴンではエル・パパ・ルナ(El Papa Luna)として知られる。

カトリック教会の対立教皇とはカトリックに対立していたという意味ではない。
日本にも2人の天皇がいた時代があるが、そのようにカトリックに2人の教皇がいたということである。
アラゴンはイベリア半島(現:スペイン)にあった国。
彼を正当な教皇として認めたのは、フランス王国、スコットランド王国、シチリア王国、カスティーリャ王国、アラゴン王国、ポルトガル王国であった。

要するにカトリック系の大学である。
宗教改革も大学改革も乗り越え、解散も閉校することもなく、今なお続く長い伝統を持つカトリック系の大学。

スコットランドの大学ではあるが、3割近くがイングランド出身の学生で占められているため、Scotland's English university(スコットランドにあるイングランドの大学)と揶揄されることもある。また、イギリス国外からの留学生が占める割合も3割に達し、100カ国を超える国々からの学生が集う国際色の強いキャンパスであることも特色である。 1776年のアメリカ独立宣言の署名者のうち数名がセント・アンドルーズ大学卒業者であったことから、アメリカ合衆国との関係が特に強く、学部生の15%がアメリカ人留学生である。
学部生の出身校については、公立学校以外(パブリックスクール等)の教育機関の出身者が4割と、高い比率になっている。







by yumimi61 | 2018-03-15 12:39