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2018年 03月 19日 ( 2 )

本日2本目の投稿です。

原爆資料館に行ったことがある人は覚えていると思うが、資料館には原爆投下によって出来たという影の写真が幾つか展示されている。
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放射線によって像が得られる理由は物質によって透過率(吸収率)が違うからである。
線が直進している時に障害物に当たる。その障害物をすり抜けることが出来るか出来ないかの違いである。
それは次の要素によって決まる。
 ①放射線量(強弱)
 ②物質の材質
 ③物質の厚み
ごく一般的な物で言えば、一番透過しやすいのは木材。次が紙。塩化ビニルやアルミニウムなどが続く。
人間の体の中では肺が透過しやすい。

例えば様々な物質を置いてX線を照射すれば、物質の向こう側のX線強度は異なる。透過しやすいものほど強い。違う方向に出たり留まったりしないで、すり抜けてそのまま届くからだ。
向こう側でその強度を調査するのが検出器である。
強度は目には見えない。目に見えないものを数字に置き換えることも出来るわけがない。
まず向こう側に届いた放射線の強弱を可視化する必要がある。
レントゲンは検出器に蛍光版や写真乾版を用いた。
幸いにも放射線は蛍光物質を発光させるという特徴がある。但し自然の蛍光は微弱であり、人間が見て分かるような光ではない。
そこで光を増幅させる必要がある。光に感光する物質(感光材)や外部からのエネルギーを光に変換する物質(蛍光体)を用いて可視化させる。
その可視光が像を映し出す。
X線写真撮影はX線フィルムと蛍光増感紙をセットでセットする。
より良い感光材や蛍光体を用いることで少ない照射で像を得ることができるとも言えるわけで、検査における被爆を少なくする上でも重要である。

放射線を強く多く透過したほうが検出できる光も強くなるわけだから、可視的には白っぽくなる。逆に透過しなければ黒っぽくなる。
光をフィルムに感光させ、フィルムを現像して写真にする。
現在検診や検査で行われているX線撮影で私達が見る写真は、可視光の色合いと反転している。
つまり強く透過したほうが黒っぽく写り、透過しないほうが白っぽく写る。
初期にレントゲンが撮ったX線写真は、可視的色調と同じ状態のもの。
フィルム写真を撮ったことがある人は知っていると思うけれども、フィルムにはネガとポジがある。
ネガフィルムは見た目の色調と反転してしまうので、通常はプリントする時に再度反転させる。


原爆で撮れた影は当然感光材も蛍光体も使用していない。
自然に可視光になるほど放射線量が多かったと言いたいのだろうか。
人々は原爆の影の写真をどのように受け止めているのかちょっと調べてみると、人間や物という障害物があったため、その部分だけ放射線を通さず影として写ったと解釈しているようだ。
人間の形がそのまま写っていることからも相当の放射線強度であると判断しているということだろうか。
しかし自然に可視光になるほどの強い放射線を、果たして人間が遮断できるだろうか。
放射線が強ければ人間だって通り抜けてしまうのである。
止められるのは鉛だけ。鉛製の人間か。
当時の梯子なんて木製ではないのか。木材は透過させやすい物質である。
放射線で人型の影なんか出来るわけがない。反転させたって同じである。無空間(空気)では放射線は進みやすい。
人間や梯子と無空間(空気)は差が出にくい組み合わせである。
また放射線が強ければ強いほど物質間の差は出にくくなる。





by yumimi61 | 2018-03-19 17:24
第二次世界大戦の原子爆弾開発から原子力産業へ。
最初から「原爆投下」は核開発の抑止ではなく推進に働いた。
「原爆投下」は「核開発成功」を知らしめる巨大広告であったのだ。

全てはレントゲンの偶然の発見から始まった。

ヴィルヘルム・レントゲン(Wilhelm Conrad Rontgen)1845年生まれ、1923年77歳没。
ドイツ人の父とオランダ人の母のもと、1845年ドイツで生まれ、オランダ国籍を持つ。
1895年11月8日、レントゲンは真空管において陰極から陽極に向かって飛んでゆく電子の流れである陰極線の研究をしているときに偶然に不思議な光線を見つけた。
その光線は実験によって次のような特徴があることが分かった。
 ・1,000ページ以上の分厚い本やガラスを透過する
 ・薄い金属箔を透過し、その厚みは金属の種類に依存する
 ・鉛には遮蔽される
 ・蛍光物質を発光させる
 ・熱作用を示さない
 ・検出に写真乾板を用いることで鮮明な撮影が可能
実験中に鉛を支えていた自分の手の骨の影が検出器である蛍光板に偶然に写り、透過する線だということを知って驚いた。
想像すらしなかった全くの未知なる線だったので、数学で未知を表す「X」を用いてX線と名付けた。
彼は昼夜問わず何度も何度も実験を繰り返し、12月の終わりには論文にまとめた。

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1896年1月23日にレントゲンが撮影
アルベルト・フォン・ケリカー(スイスの動物学者・解剖学者・生理学者、1860年にロンドン王立協会の会員になる)の手のX線写真



人間の骨を映し出せるというX線写真という視覚的に非常に分かりやすい実験結果を伴っていたので、瞬く間に受け入れられた。
偶然の発見から2か月後の1986年1月13日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の前でX線写真撮影の実演をした。
(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の母親はイギリス君主のヴィクトリア女王の長女である。ヴィクトリア女王はドイツ起源の君主。ヴィルヘルム2世はカトリック教徒である)
1896年1月14日にはネイチャー誌に掲載された。
透過性の高いX線の発見はただちにX線写真として医学に応用され、その貢献によって、1901年第1回ノーベル物理学賞を受賞した。
(ノーベルは1896年没。スウェーデン人。ダイナマイトの発見によりボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた)


1912年、レントゲンと同じミュンヘン大学にいたラウエが結晶によるX線の回折現象を発見し、X線が電磁波であることを突き止めた。
レントゲンがX線を発見してから17年もの歳月が経過していた。
このX線の回折現象がその後、物質の、引いてはDNAの結晶構造の分析に用いられるようになった。

マックス・テオドール・フェリックス・フォン・ラウエ(Max Theodor Felix von Laue)1879年生まれ、1960年80歳没。
ドイツの物理学者。
ミュンヘン大学でX線の回折現象を発見した時は助手であり、博士課程の学生(後に結晶学者・X線回折法のパイオニアとなるドイツ人のパウル・ペーター・エバルト)の論文にヒントを得ての発見だった。
上記発見の功績によりラウエは1914年のノーベル物理学賞を受賞した



未知なる線「X線」から始まった放射線が次の段階に移行するのは天然の放射線が発見されたことによる。
しかしこちらはそこに辿り着くまでに時間はそれほどかかっていない。
レントゲンの論文が発表された1896年に、フランスの数学者アンリ・ポアンカレはこう言ってベクレルにレントゲンを論文を渡した。
「X線が蛍光を生じるなら、蛍光から何らかの放射線が発生するかもしれない」
そしてすぐさまベクレルはウラン塩の蛍光から、ウランがX線に似た透過力を持つ光線を放出していることを発見するのだった。
このベクレルという人は科学における先取権を持つことに非常に敏感であり、その光線の正体や原理は一切解き明かさぬままに自身の発見を科学アカデミー(フランスの国立の学術団体)に速やかに公表した。
その後は研究を放棄した。

その研究を続行させたのがキュリー夫妻である。
妻であるマリの博士号取得のための論文執筆のためにベクレルの研究を発展させることにしたのだ。1898年のことである。
マリはその前年に女の子を出産しており、一児の母親にもなっていた。
ウランの放射現象がウラン含有量に左右されることから、放射は分子間の相互作用等によるものではなく原子そのものに原因があることを示し、夫妻も2年前のベクレルと同様に、研究内容を簡潔に要約した論文を作成し速やかに科学アカデミーへ提出した。
実験には夫ピエールの兄の製作した高感度な圧電式電位計を使ったそうである。
後世においては彼女を一躍有名にしたのはこの博士論文だということになっているが、そうではない。
意味があったのはキュリー夫妻がラジウムの精製に成功したことである。


ベクレルの発見論文から7年後、キュリー夫妻の実験及びマリの展開論文から5年後の1903年、3人は揃ってノーベル物理学賞を受賞した。

アントワーヌ・アンリ・ベクレル(Antoine Henri Becquerel)1852年生まれ、1908年55歳没。
フランスの物理学者・化学者。放射線の発見者。
1908年、ブルターニュのル・クロワジックにて55歳で急死。マリ・キュリー同様、放射線障害が原因だと考えられる。
放射能のSI単位のベクレル(Bq)はアンリ・ベクレルにちなんでいる


ピエール・キュリー(Pierre Curie)1859年生まれ、1906年46歳没。
フランスの物理学者。結晶学、圧電効果、放射能といった分野の先駆的研究で知られている。
1895年にマリと結婚し、共同で放射性物質の研究を行い、ポロニウムとラジウムを発見した。
ピエールと学生の1人がラジウム粒子が継続的に熱を放射していることを発見し、核エネルギーの発見者ともなった。
X線には熱作用がなかった。しかし天然の放射線性物質には熱作用があった。この「熱」こそが原子力産業に繋がったのである。
また彼は磁場を使って放射性物質の放射の特性を調べ、一部の放射が正に帯電し、一部は負に帯電し、一部は帯電していないことを示した。これらはアルファ線、ベータ線、ガンマ線に対応している。
"radioactivity"(放射能)という用語を作ったのもキュリー夫妻である。
しかしながらピエールは46歳のある日道路を横断しようとして馬車の前に飛び出し、馬にぶつかり転倒し荷馬車に頭を引かれて即死してしまった。

マリア・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie) 1867年生まれ、1934年66歳没。 
フランス語名はマリ・キュリー(Marie Curie)。
ポーランド出身の物理学者・化学者である。
1903年のノーベル物理学賞を受賞した後、1911年にノーベル化学賞をも受賞した。

ウランから発せられる光線を見つけた後すぐにウランと同様の現象を起こす元素はないかと既知の元素80以上を測定してトリウムでも同様の放射があることを見つけた。マリは放射能を持つ元素を放射性元素と名づけた

その次はウラン鉱石からの新元素探しに勤しんだ。そしてボロニウムと激しい放射線(アルファ線)を放出するラジウムを発見するわけだが、学会は当初新元素の発表には冷淡だった。
ロンドン王立協会の設立のきかっけを作ったロバート・ボイルは1600年代にすでに抽象的推理による元素観に反対し、実験によって元素を定めるべきことを訴えていたのだ。
その経緯を思えば、放射線がどのような現象から生じるのかが不明な状態であり、ただX線に似た線を放出していると言われても学会は受け入れがたい。世紀の発見にはならない。
X線は医学に貢献したからこそのノーベル賞だったのだ。
とりわけ新元素であるならば原子量も明らかにする必要がある。
これくらいの鉱石からこれくらいの量の元素が抽出できる、そういうものがなければさらなる研究にも産業応用にも繋がらない。産業は費用対効果が重要なのだ。
その後マリはラジウムの精製に成功した。そしてそのラジウムが医療にも工業的にも利用できることが分かった。
この功績によってノーベル賞は与えられたと考えてよいだろう。
しかしながら、ベクレル同様に科学における先取権を持つことに敏感だったはずのキュリー夫妻が、ラジウム精製の特許は取得しなかった。だからラジウムは使いたい放題広がった。
後年マリはラジウム精製法の特許を取得しなかった理由として「人生最大の報酬とは知的活動そのものである」と格好よく答えたそうだが、おそらく単純に学問分野と産業分野の違い、要するに論文発表と特許取得の違いに気付いていなかったんだろうと思う。

夫妻は1900年頃から体調に異変を来たしており、マリは1903年に流産も経験した。しかしそれが放射線の影響だとは微塵も考えていなかったようだ。
1900年にドイツの医学者から放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。
夫ピエールはラジウムをあえて腕に貼り付けてみて、火傷のような損傷が出来ることを確認した。
それはすなわち放射線には正常な細胞を破壊する力があるということだが、医学者やピエールの研究によって、放射線は皮膚疾患や悪性腫瘍(がん・悪性新生物)の治療に効果がある可能性が示唆された。
ラジウムは悪しき物にはならず、医療における放射線治療や工業において夜光塗料などして広く用いられることになった。

ラジウムが最初に問題となったのはアメリカである。
ラジウムを塗料に用い時計の生産を行っていた工場の女性労働者の多くが身体の異変を訴えたり、相次いで亡くなったことによる。
同じ工場1つだけでなく、異なる工場複数で発生した。
この問題はThe Radium Girls(ラジウムガールズ)と呼ばれる。
1910~1920年代に盛んに起こっていた現象であるが、彼女たちは「病気」になり「病気」で死んでいったので、ラジウム(放射線被爆)で死んだことが証明されず、会社側もそうした主張を認めなかった。
確かに医師であっても病気と原因の因果関係を紐解くのは難しい。
さらに疾患と死因の関係も複雑である。
エイズやがん(悪性腫瘍・悪性新生物)に罹患していても、死の直接的原因は感染であることが多々ある。免疫不全はもちろんのこと全身状態が低下している場合は簡単に感染し重篤化してしまう。
心不全や呼吸不全という一般的で漠然とした病態が死因に用いられることもある。
ラジウムガールズの場合、治療にラジウム(放射線治療)が用いられていた者もいて、さらに問題を複雑化させていた。
死因に基疾患を書くのか、それとも最終的に死の原因となったものを書くのか、生前の健康状態や死に至らしめた原因をとことん追求するか否か、統計はそれらによって大きく変わってしまう。さすがに死因に治療法を書く者はいないだろうけれども。
死因が医師個人の判断に委ねられている場合、病院の内規がある場合、国の指針に従う場合など、統計が変わる要素がある。特に国際統計や国際比較などは要注意である。
何とでも言えて何とでも書ける医師だからこそ、「いい加減な判断でいい加減なことを説明したり書くな」という圧力が加えられることもある。
工場で働く女性労働者が当事者であることをいいことに、「疑わしきは性感染症(梅毒)にしておけ」というとんでもない社会風潮すらあった。
1928年、ラジウムダイヤル塗料の発明者である博士が45歳で亡くなったことがラジウムガールズにとっては追い風となった。
労働者を不幸に陥れた張本人の死が労働者を救うことになったとは何とも皮肉なことである。
しかしラジウムは世界各地で1990年代まで使用され続けた。現在は発がん性を理由にほとんど使用されていない。


X線や天然の鉱物から発せられる放射線を研究したり、精製に着手した1890~1910年頃はまだ放射線の障害作用に気付いてはいなかった。
従って無防備に実験を繰り返したわけだが、X線研究に携わったレントゲン(77歳)、ラウエ(80歳)、エバルト(97歳没)は比較的長生きである。
一方天然放射線研究に着手した、ベクレル(55歳)、キュリー夫(46歳)、キュリー妻(66歳)は比較的短命である。体調異変は数年で表れている。






by yumimi61 | 2018-03-19 12:24