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2018年 03月 20日 ( 1 )

1906年、キュリー夫妻の夫ピエールが事故で亡くなった。
急な死ではあったが1903年にはすでにノーベル賞授賞式にも出席できないほど体調の悪い時があった。
夫妻は1903年に第二子を流産しているが、1904年には次女が誕生している。
研究仲間でもある夫を急に亡くし、幼子を抱えた妻マリには同情が集まった。
ピエールの亡くなった1906年に「マリ・キュリーに研究所を作ってあげたら」と提案したのは、パリ社交界の美しき華グレフューレ伯爵夫人だった。
自分達の実験室を持ちたいというのはキュリー夫妻のかねてからの希望でもあったのだ。
Marie Anatole Louise Elisabeth, Countess Greffulhe

グレフューレ伯爵夫人はパリで立ち上げられたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のパトロンであり、その他にも名だたる音楽家、画家、彫刻家、作家などの製作活動を援助していた。
『失われた時を求めて』を書いた小説家マルセル・プルーストのミューズだったそうで、グレフューレ伯爵夫人は彼の小説の登場人物のモデルにもなった。(どうでもいいかもしれないけど、私の「情景」という記事にマルセル・プルーストの名前と『失われた時を求めて』が登場している)
夫人は自分でデザインもしたという大層美しいドレスを纏っていたことで有名な御方だが、ドレスだけでなく芸術や文化を纏い、一時代のパリを形作ったと言ってもよい人でもあった。
その中に科学も含まれていた。

1908年にパリ大学とパスツール研究所共同の創案で、1909年にラジウム研究所が設立された。
研究所へ行く新しい通りにはピエール・キュリーの名が付けられた。


グレフューレ伯爵夫人の夫はフランス貴族のヘンリー・グレフューレ伯爵。
代々フランスの政治家で彼も政治家であった。
祖父はGreffulhe Montz et Cieという銀行の創設者であって銀行家一族でもある。

フランスは貴族の本場である。中世以降のヨーロッパの貴族のモデルケースになったのがフランスと言える。
“aristocracy”
この言葉の語源は「優れた者による支配」。
優れた者とはどんな者かということは時代によって違った。
エリート層(職業・知識・経験・統治に必要な資質などを持つ人)、特権階級(世襲される上流階級)、高貴なる義務を持つ者(統治・軍の統率)、金権政治階級の上層(金持ち)など。
中世以降は金権政治階級の上層(金持ち)が特権階級(世襲される上流階級)であるというパターンで貴族制度は敷かれた。
ただそれではどことなく高貴さに欠けるので、古代から高貴な証の1つであった軍の統率という役割が与えられた。勇敢さは美徳だったのだ。
その高貴さを保障していたのは宗教(教会)であった。
ナポレオンの軍隊と比較して「イギリスの軍隊はイートン校育ちだから勝てたんだ」というようなことを婉曲的に言った人物がいたという話を前に書いたけれども、確かに貴族という人達が自ら戦争に赴いた時代があった。
イギリスでは今でも王族が軍に所属し兵役に就いていたりする。
何もかもを付き人にしてもらっているイメージのある日本の現天皇家と違う印象を与える。
イギリスという国は長い歴史の中で戦争を沢山してきた国でもあるが、兵士は基本的に志願兵であった。(2回の世界大戦の時だけは徴兵制度も導入されたとか)
海軍と空軍はイングランド国教会の長でもある君主(王や女王)が所有している。陸軍は議会の許可に基づくので政府所有ということになる。
政治の世界においても貴族院がいまなお存在する。
つまり単なる形式的なものに終わらず様々な形で貴族制度が保障されている国である。

貴族制度の本場フランスは市民革命の国となり、その道を歩めなかった。
だがオーストリア貴族であるロスチャイルド・パリ家は市民革命とそれに続くナポレオン戦争、ナポレオン失脚後に国王となったルイ・フィリップ王にお金を貸し付けるなどして大儲けした。(フィリップ国王からは名誉勲章を受章している)
フランス革命の主な原因として、伝統的な貴族制がもはや「最上の者による支配」という理念を、維持しがたくなってしまったことがあげられる。ルイ14世時代の軍隊の近代化で、貴族はもはや軍の先頭に立つ必要がなくなり、完全に安全地帯から部隊を指揮するようになっていた。危険を冒す伝統的な慣習を放棄したとき、伝統的な特権も維持するのはもはや困難となった。

フランス革命では、貴族は果たした役割でなく、実態として生まれによってその地位を得た特権階級という面が強調され、このような不要な階級は新興のブルジョワやリベラルな一般人の敵とされた。以後、「貴族」という言葉は、生まれながらにして前線で戦死する機会を主張する人々のことではなく、生まれながらにして贅沢や特権を主張する人々の象徴となり、本来の意味からは遠くなってしまった。

貴族制に対する闘争はフランス革命後の反動期にも続き、特に欧州全土で起こった1848年革命においては非常に激しいものがあった。ヨーロッパで貴族制がいつ終焉したかは異論があるが、だいたい第一次世界大戦の終わった1918年には貴族制は民主制に取って代わられ、以後貴族は実態的な権力のない社会の飾りとなっている。



共和国になったフランスやイタリアなどでも貴族制度そのものが破壊されたわけではない。爵位というものは存在し、世襲で引き継いでいる。
特権や義務がなくなったということ。
フランスの貴族院は1848年に廃止されたので、議員資格としての爵位はなくなった。
ヘンリー・グレフューレ伯爵はその大転換期1848年に生まれた。
だからといって急に平民になって貧乏になったわけではない。
芸術家らを多数支援できるほど富や財力を持ち、思う存分「最上さ」「高貴さ」を見せ付けることができた。
小説家マルセル・プルーストは彼の友人でもあった。


このグレフューレ伯爵夫妻の娘は、1904年にやはりフランス貴族であるグラモン公爵12代目と結婚した。
グラモン公爵12代目の母親はロスチャイルド家の人物。
(ロスチャイルド・ナポリ家の祖カールの息子の娘である。ロスチャイルド家はナポリ家カールの活躍によって兄弟5人がオーストリア皇帝から貴族の爵位を与えられた家。ナポリ家とフランクフルト家は1901年に閉鎖した)


キュリー夫妻のラジウム発見に注目していたロスチャイルド家の人物もいた。
アンリ・ロスチャイルド(Henri de Rothschild

アンリ・ロスチャイルドはイギリス家とパリ家両方の血を引く。
ロンドン家祖の息子の1人にナサニエルという人物がいる。
彼はパリ家祖ジェイムズ・ド・ロチルドの娘と結婚し、1850年に叔父であり義父にあたるパリ家祖のジェイムズ・ド・ロチルドが所有する銀行の業務に就くためにフランスのパリへ移住した。
ナサニエルの孫にあたるのがアンリである。
アンリは医学を学び、研究所や病院に多額の資金を提供した。
1909年に設立されたマリ・キュリーのラジウム研究所の設立費用も彼が提供した。
芸術の都に暮らすだけあって演劇もこよなく愛し、劇作家でもあったという。


ロンドン家とパリ家双方の血を引くアンリ・ロスチャイルドは1895年にワイスワイラー一族のマチルド・ワイスワイラーと結婚している。
ワイスワイラー家はユダヤ系スペイン人。
マチルド・ワイスワイラーの叔父はマドリッドのロスチャイルド銀行の代理店を任されていた。イギリス家の2代目が管理していた代理店。
1830年代には最も重要なロスチャイルド代理人だったそうである。

というのも、その時代(1835年)にロスチャイルド家はスペインのアルマデン鉱山の権利を得たからである。
アルマデン鉱山は世界最大の水銀鉱山だった。亜鉛(ジンク)も豊富に産出した。
スペインが植民地で発掘した金や銀を精製するには水銀が必要である。水銀の需要が一気に増大した。金目のものを実際に金にするには水銀が不可欠だったのだ。
この鉱山は長いことドイツ・バイエルンのフッガー家(金融家)が所有していた。フッガー家は宗教改革前後にカトリックを金融面で支えた一族の一つ。同時期カトリック国であるスペイン国王にも多額の資金を貸し付けていた。その見返りに鉱山を任されていたのである。
鉱山で働くこと自体重労働であり、さらに水銀中銀で死ぬ可能性のある水銀を扱うとなれば、なかなかお金だけでは動いてはくれない。あまり賃金を払えば利益が減ってしまう。しかし一方で需要は高まるばかり。鉱山の労働者は囚人となった。後に奴隷も取り入れられた。
1645年にアルマデン鉱山はスペイン国家(国王)所有となった。
しかしその後スペインは制海権を失い植民地も手放すことになる。財政は赤字続き。
1835年、そんなスペインにロスチャイルド銀行は高額の費用を支払い、無期限で鉱山を借りる権利を得た。
ロスチャイルドはすでにオーストリアからイドリヤ(現:スロベニア)の水銀鉱山も購入していた。アメリカでニュー・アルマデン鉱山が見つかるまでの間、ロスチャイルド銀行が独占的に世界の水銀を押さえたと言ってもよい。
誰が植民地の支配者になってもならなくても、金や銀を精製するには水銀が必要なのだ。

スペイン王室がアルマデン鉱山を所有してから事業を任されていたのがユダヤ系スペイン人のワイスワイラー家である。
ワイスワイラー家はロスチャイルドの代理人であった。
鉱山の実質的オーナーもスペイン国王からロスチャイルドに変わったということになる。
アルマデン鉱山も拡大され、当時はまだかなりの利益をもたらした。


先日書いたリオ・ティント社の社名由来のリオ・ティント鉱山(スペイン国営)は主に銅を産出していた。そこをロスチャイルドが手に入れたのは1873年。
リオ・ティント社の設立年月日は1873年となっている。
アルマデン鉱山とリオ・ティント鉱山を手に入れたロスチャイルド家が鉱山を会社組織にした。
カトリック国スペインの主要な鉱山を握っていたのは、カトリック国オーストリア皇帝から貴族の爵位を与えてもらった金融家ロスチャイルドだった。








by yumimi61 | 2018-03-20 15:17