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2018年 03月 27日 ( 1 )


春告げる 木蓮映える 白い家 縷々綿々と 続くが如し (由)


ユダヤ、カトリック、イングランド国教会、イギリス、フランス、ドイツ、、、
対立してきたはずのこれらが1600年代から次第に近づいていき、陰に日向に強大な力を発揮し出した。
それは彼らが世界進出を始めた後のことであり、ヨーロッパに留まらなかった。

対立者より同じ者が集まっているほうが良いように思うが、プラスとプラス、マイナスとマイナスが反発し、プラスとマイナスが引きつくように、同じものの集まりの中には反発をかなり内包している。
特段の努力も無く同じ種類が集まっているだけのことであるので、そこに結合力という力は生まれにくい。違うものが結びつくことのほうが遥かにエネルギーが必要なのだ。
「エネルギーが必要」ということを言い換えれば「大変なこと」。
大変なことは出来るならば避けたい。私達はみな心の何処かで苦労の無い楽園に暮らしたいと思っている。
そんな私達がその大変さを前向きに捉えることを学べるとしたら、それは異性との結びつきだろうと思う。
アダムとイブが異性だったことには理由があるはずだ。
でも異性と結びついても、女は女、男は男、それ自体が変わるわけではない。違うものの結びつきとはそういうことである。
結合力の強いものが結合力を離した時には大きなエネルギーを放出する。その大きなエネルギーは子供と捉えることが出来る。
(その意味で処女懐胎から始まる新約聖書をベースにしたキリスト教は最初から疑問符が付く)
神を信じる宗教が、旧約聖書という1つの聖典を基にしている宗教が、科学をそれなりに受容している宗教が、それらの上層部が、同性愛に没頭したり推奨したりすれば、自らの根幹を大きく揺るがしてしまう。
そこに表出しているのは欺瞞である。恥ずかしがらないことが楽園であり神の証とでも思っているのか、恥ずかしげも無く欺瞞を見せてしまうことになる。

世界には同じものが増え続けた。
ユダヤ教がユダヤ教のままキリスト教と結びついたのではなく、キリスト教に変わってしまったのである。
仏教が仏教のままキリスト教と結びついたのではなく、仏教からキリスト教に変わってしまったのだ。
苦労なく同種に括られる同じ種類に変わっただけの話である。
でも残念ながら同じ種の結びつきはかなりの反発を抱え込み、結合エネルギーをあまり持っていない。
1900年代になると、その弊害が生まれだす。
同種内にある反発が表立って目立ってきたり、結合エネルギーが生まれなかったり育たなかったり、結合エネルギーの美しき輝きが失われ出した。

ユダヤ、カトリック、イングランド国教会、イギリス、フランス、ドイツ、、、かつて対立し、その後近づき、やがて同化したこれらも、その弊害が噴出しだす。それは世界に蔓延した。



・原子力産業との関わりが深いながら、なぜか原子力発電に反対し、フランスが原子力に猛進する様を「聖母マリアの顔に唾を吐きかけるようなものだ」と語った。
これもジェームズ・ゴールドスミスのエピソードである。

ジェームズ・ゴールドスミスはユダヤ教でありカトリック教もであったそうだから、どのような意図で聖母マリアを持ちだしたかは良く分からない。
でもフランスの原子力黎明期に尽力したのはマリ・キュリー長女夫妻である。

「処女懐胎」を一般的に解釈されている「男性と一度も性交渉したことのない女性による妊娠」とするならば、聖母マリアからは結合エネルギーは生じないはずである。
生じるとしたら自分の身を裂いた時である。(←陽子1の水素を分裂させることに等しい)
でもそうではなくて、処女というのは、これまで人々が大変なことだからと避けてきた、例えば異人種間や異宗教間、通常は堕胎するようなケースで妊娠出産をした女性ということなのではないだろうか。


Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)は1900年生まれで、1926年にマリ・キュリー長女と結婚したフランス人である。
夫妻で1934年に人工放射性元素の生成(発見)に成功して1935年にノーベル化学賞を受賞した。
マリ・キュリーの両親は熱心なカトリック教徒であったが、それに対する反発心もあったのかマリは無神論者だったという。

マリ・キュリー長女と結婚したフレデリックは1934年にフランスの社会党に入党した。左派ということである。
ところが1936年以降はスペイン内戦(1936-1939年)に関して社会党と意見が合わなくなった。

スペイン(王国)はカトリック国であるが、時代が進むとともにやはり反乱や反発が増えてきた。
1923年9月12日、こうした状況を打開するためにバルセロナ総督であったプリモ・デ・リベーラは、軍部や教会を中心とする大土地所有者層の支持を得て、クーデターを成功させた。その後、内々にクーデターの承認を得ていた国王アルフォンソ13世より首相に任命され、軍事独裁政権(1923〜1930年)を樹立した。

しかし1929年に起こった世界大恐慌によって国家財政が乱れたことによって、再び反王政・反教会・反政権といった左派の活動が顕著となってくる。左右対立は次第に激化していく。
数年前に反乱や反発が勃発した時には権力(国王)側の武力によって押さえられてしまった。
そこで左派勢力は、ある決断をする。
1935年、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の大会にて、「味方ではない者は敵へ」から「敵ではない者は味方へ」の転換を図った。
これはつまり電荷を持たない中性子をどう扱うかというようなことである。
左派が負の電荷を持つグループと仮定すれば、中性子は負の電荷を持っていないので違うグループである。もっと大きく見れば電荷そのものを持っていないのだから電気業界にも属していない違うグループということになる。
ある意味、対立している右派よりも遠い存在である。
しかしともかく、左派でも穏健共和派、自由主義勢力、無政府主義者、労働者、農民、知識人、反権力な宗教組織といった諸勢力が結集することになった。
そして1936年2月の総選挙で左派が勝利し共和国政府(人民戦線内閣)が誕生した(1936-39)。これはクーデターによらず成立した世界初で唯一の社会主義政権だった。
当時カトリック親和国であった日本やドイツ(言い換えればカトリック)が恐れたのはまさにこれだったのだ。

1936年(昭和11年)11月25日に日本とドイツの間で共産「インターナショナル」ニ対スル協定が提携された。
締結当初は二国間協定である日独防共協定と呼ばれ、国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛をうたっており、後の日独伊三国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなった。 1937年にイタリア王国が原署名国として加盟し、日独伊防共協定と呼ばれる三国間協定となり、1939年にはハンガリー王国と満州国、スペインが参加したことによって多国間協定となった。

スペイン国内でもすぐにかつての独裁政権勢力が共和政権に対して反乱を起こした。
そして1936年7月~1939年3月までスペインは内戦が続いた。
  左派の反ファシズム政権(共和政権) vs 右派の反乱軍(ナショナリスト派)

左派を支援したのはソ連、欧米市民知識人らが数多く参加した義勇軍(国際旅団)。
右派のファシズム陣営を支援したのはドイツ、イタリア、ポルトガル。←カトリック側

戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家のアーネスト・ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、写真家ロバート・キャパらが関わった)。そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した虐殺行為が知れわたり有名になった。他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は特定複数民族グループと古来のカトリック・キリスト教、全体主義体制を支持し、別れて争った。戦闘員以外にも多数の市民が政治的、宗教的立場の違いのために双方から殺害され、さらに1939年に戦争が終結したとき、敗北した共和国派は勝利した民族独立派によって迫害された。


民族独立派というのが右派の旧独裁勢力(国王やカトリック教会側)である。
左派はいろんな勢力を結合させた。それは一定の成果を上げた。しかしその結合が真の意味で大きな力を発揮するのは、皮肉なことであるが分裂した時のエネルギー放出なのだ。
そのエネルギーを受けた旧独裁勢力のリーダーだったフランシスコ・フランコは内戦に勝利した1939年から1975年までの36年間総統を務め独裁者でありつづけた。


フランスの社会党はインターナショナル(社会主義の国際組織、第二の時代)のフランス支部だった。1905年設立。
「フランス社会党」は通称であり、正式な名称は「労働インターナショナル・フランス支部」(この略称がSFIO)である。

第二インターナショナルは1889年に設立されたが、第一次世界大戦で雲行きが怪しくなった。
国際主義者として信望を集めヨーロッパの平和を熱望し第一次世界大戦に反対していたフランスのジャン・ジョレスが暗殺された。
その後、第二インターナショナルを導きうる唯一の政党はドイツ社会民主党だったが、これが戦争を支持し政府に協力する「城内平和」路線へと舵を切り、フランスやオーストリアの社会主義者もそれに倣った。
戦争を支持するのが多数派となり反戦主義者の少数派となって分裂し、第二インターナショナルは廃止された。

「フランス社会党」はその後も続いていたわけだが、大戦末期になると戦争協力に対する党内外からの批判が強くなり、またロシア革命による社会主義国家樹立も影響して1918年には反戦少数派の人物が書記長に選ばれた。

1919年には第三インターナショナル(コミンテルン)が設立された。
ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派ボリシェヴィキ(ロシア共産党)が中心となった。
(1924年レーニンが亡くなり、その後はスターリンが一国社会主義論を打ち出しコミンテルンの役割も変わっていった。スターリンと対立した者は粛清された。だが同じ組織なので外からは違いが見えにくい)

コミンテルンが設立された以降はフランスでもこれを支持する左派が拡大し、1920年にコミンテルンへの加盟を決議し、「フランス社会党」は「フランス共産党」に変わった。正式名は「共産主義インターナショナル・フランス支部」。
この時にコミンテルンへの加盟に反対した少数派が「フランス社会党」を維持した。いわば分裂である。
Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)が1934年に入党したのは「フランス社会党」のほうである。
この党はスペイン内戦において、左派の反ファシズム政権(共和政権)の支援に付かなかった。それがフレデリックは不満だった。

(フレデリックは)1941年6月パリ大学に抵抗委員会がつくられるとこれに参加し、やがて国民戦線全国委員長に選ばれて地下活動を続けた。1942年5月に共産党に入党したが、1944年8月までは公表されなかった。

1945年にフランス原子力庁が設立された。
Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)が長官となった。現在までの長官は彼を含めて2人しかいない。非常に閉鎖的な組織である。
フランスは今なお電力生産量の約8割を原子力が担っていると言い張っている。これは世界的にみても異様に高い割合である。誇りを捨てられないのか何なのか原子力への依存度が非常に高く手放せない国となっている。

1945年8月、アメリカによって日本に原爆が投下され、原子爆弾成功が世界に大々的に宣伝された。
しかしその時から、何かしら真実を握っていたソ連がアメリカと日本を中心として世界の脅威となり、反共産主義が吹き荒れた。
そのソ連が1949年に核実験の成功を発表。
原爆を嘘と言わずに、自国の成功を伝えた。
欧米にとっては一層深刻な状況となった。
Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)は戦前から核の研究者であり、且つインターナショナルな共産主義者なのだ。
彼は対ソ連戦争に使用される可能性が高い核兵器の研究や製造を拒否する意思を1950年4月のフランス共産主義大会で明確に示した。
これが問題視され、フランス原子力庁長官を更迭された。





by yumimi61 | 2018-03-27 12:26