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2018年 03月 29日 ( 1 )

当初イギリス・アメリカの主な科学者は原爆開発について否定的見解を持っており、それを反映した両政府も乗り気ではなかった。
科学者らの意識を変えたのはプルトニウムという人工放射性元素生成(発見)の報告と、ドイツが重水を仕入れていたという事実であった。
人工放射性元素の一番最初の発見者、原爆には重水が不可欠であるという理論提唱者、ドイツが重水を仕入れていたという情報入手者、これらは全てフランスのマリ・キュリー長女の夫Jean Frédéric Joliot-Curie(フレデリック・ジョリオ=キュリー)である。
その後、オーストラリア出身でアメリカGE社が古巣の科学者マーク・オリファントのアメリカでの原爆売り込みによって、アメリカ大統領が政府レベルでの開発に了承したのが1941年10月。
アメリカ政府はイギリス政府を誘ったがそれでもなおイギリス政府の反応は鈍かった。
それから一月もしないうちに日本によるアメリカ奇襲攻撃(真珠湾攻撃)が行われ、やがてアメリカ政府とイギリス政府はとうとう原爆開発についても手を組むことになる。


原爆に欠かせない資源はウランである。ウランに新たな需要が生まれた。
当時一番ウランを供給できた鉱山はベルギー領コンゴにあった。
コンゴはもともとベルギー王の私領地だった。
ベルギーは1831年に反カトリックでプロテスタント国のオランダから独立した。
ベルギー王レオポルド1世はその時に即位したわけだが、彼はイギリスのヴィクトリア女王の母の弟である。
レオポルド1世はプロテスタント派の王であると公表されていたが、1865年に即位した息子2世はカトリック教徒であることを公表。1885年からは政権もカトリック党が担当するに至る。

マンハッタン計画へのウラン供給を担当したのは、ユニオン・ミニエール(2001年にユミコアに改称、フランス語でUmicoreと書きます)という鉱山会社。
この会社のルーツはベルギーとドイツ国境付近でナポレオンが開発した亜鉛鉱山にある。
その後、その鉱山にソシエテ・ジェネラル・デ・ベルギー(ロスチャイルド系)の資本が入り会社組織化され、1906年にユニオン・ミニエールという社名になり、1968年まではベルギー王私領地であるコンゴの鉱山を中心に事業を行ってきた。
要するにマンハッタン計画を推進するアメリカにウランを供給していたのはイギリス王家にも繋がるカトリック・ロスチャイルド系企業だったということである。


アメリカ政府とイギリス政府は真珠湾攻撃後に戦争協力について確認したが、イギリス政府が核開発に対して最後の最後まで反応が鈍かったことやドイツの重水入手(原爆開発)問題もあり、アメリカは疑心暗鬼になった。
原爆には何か別の方法があるのではないか。イギリスがその情報を入手したり他に流したりすることはないか。
イギリスはアメリカとは別に独自に原爆を開発しているのではないか。
そんな不安が払しょくできず、1943年、アメリカとイギリスおよびイギリス連邦の1つでありアメリカと隣接しているカナダとの間でケベック協定が結ばれた。

ケベック協定(英: Quebec Agreement)
イギリスとカナダとアメリカ合衆国の公文書で、イギリスとアメリカ合衆国間で核開発の情報の秘密化を決めた文章である。この文章は1943年8月19日にカナダのケベック・シティーにおけるケベック会談を機会に、ウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズベルトにより調印された。

ウィンストン・チャーチルが全く別のイギリス独自の原爆開発計画の準備を行なったと言う情報が入ってきたため、アメリカ合衆国とイギリスとカナダ間の核開発の協調が必要となり、そのための協定が必要であった。しかし、1943年7月、アメリカの政府は、イギリスの動機に対していくつかの誤解を払拭することができ、合意書が作成された。

調印後、イギリスは手元の資材を全てアメリカに送り、その見返りに大統領へ提出されたアメリカの進捗報告のコピーを受け取った。イギリスの核開発研究は戦争終了までマンハッタン計画と統合され、イギリスとカナダの研究者のチームはアメリカに移動した。



ケベック協定を結んだアメリカ・イギリスの2国は、1944年9月にイギリス王家にも繋がるカトリック・ロスチャイルド系企業のユニオン・ミニエール社とも契約を結んだ。
コンゴの鉱山はマンハッタン計画がスタートした時点ですでに一番ウランを供給出来ていたわけではなく、鉱山開発の費用を出すからウランをどんどん供給してくれという契約を結んだのだ。
カナダとのラジウム生産競争に負けてユニオン・ミニエールが1935年に閉山していたのを、トラスト(アメリカ・イギリス・カナダ)が必要経費をもつから再開させるというものであり、トラストがユニオン・ミニエールから鉱石を買うときの単価も決められていた。

1944年末、アメリカとイギリスはコンゴの支配者(管理者)であるベルギー政府と、以後10年間にわたりアメリカとイギリスだけにベルギー領コンゴのウラン鉱石を売却するという約束を交わした。1954年末までということになる。
1943年8月のケベック協定ですでに商業エネルギー利用ににも触れているが、当時はまだ原爆も成功しておらず世界的に宣伝もされていない。
従って一般的には商業利用なんてことがイメージ出来なかった上に、もし商業利用できるならばアメリカとイギリスにしか売れないなんて約束は却って損ではないかと思うのは当たり前な話。従って約束は旨みが薄いと思われていた。
(でも資源には限りがあるし、特に必要な物が希少ウランだったのだから、継続して使う気があれば囲いたいのは当たり前だけど)
九条(a) は商業エネルギー利用の開始から英米に対等な条件でベルギーの参加を認めるとしていた。しかし、他には何も国益を見出せなかった。国民に顔向けできないばかりか、ウランの産出そのものに対する国際世論の風当たりも強かったので、契約内容は特定秘密であった。このような条件をベルギーがなぜ飲んだのかはユニオン・ミニエールの都合以外に理由となるものが特に見当たらない。なお、九条(a) は戦後ドワイト・D・アイゼンハワーにより原子力平和利用が提唱されるきっかけとして十分考えられるところである。

1946年初頭にベルギーがウラン供給を国有化する法案を提出したので、契約当事者は狼狽した。ベルギー首相は議会を解散させて自動的廃案へもっていった。日本や西ドイツでの逆コースと足並みをそろえるように、ベルギー領コンゴのウラン事業は(ユニオン・ミニエール専務)エドガーの活躍もあって軌道に乗りだした。
(逆コースとは「民主化・非軍事化」の逆のこと。カトリック親和国で敗戦国の日本やドイツにおいて民主化・非軍事化が徹底されなかった)


1945年8月の原爆投下という大宣伝によってウラン鉱山開発と生産がいよいよ本格化していく。
戦後の原子力拡大期に開発されたウラン鉱山を保有する国は、アメリカ、カナダ、南アフリカ、オーストラリアである。

少し前に、スペインの鉱山から始まったリオ・ティント社というロスチャイルド系の資源鉱業会社を紹介した。
アルマデン鉱山とリオ・ティント鉱山というスペインの2つの大きな鉱山を所有していたのはカトリック国のスペイン王国だったが、ロスチャイルドのロンドン家やパリ家の資本が入り所有者がロスチャイルドに移った。
ロンドン家とパリ家両方の血を引き、医師であり、マリ・キュリーのラジウム研究所設立に資金援助したくアンリ・ロスチャイルド(パリ家)は鉱山管理者(ロスチャイルド代理人)の一家の娘と結婚しており、その意味においても関わりが深い。
そのリオ・ティント社も1950年代よりウラン採掘と生産に乗り出した。
リオ・ティント社は現在はイギリスのロンドンを本拠としており、世界最大級のウラン生産会社である。(日本法人の社長が日本とともにリオ・ティントは成長してきたと挨拶していましたね)
『ジェームズ・ボンド (James Bond)』 の著者イアン・フレミングの従兄はこの会社の役員であった。


開発すると言っても多額の資金がかかること、当てもなく開発するなんて賢くないし得策ではない。
ロスチャイルドのリオ・ティント社はイギリス政府に開発費用を出してもらい、イギリスにウランを供給するという計画を立てた。
ところがこれがなかなかスムーズには進まなかった。

思惑通りに進まなかった理由
①イギリスは戦後アメリカらからマンハッタン計画(原爆開発)や核開発へのアクセスを一切絶たれてしまった。
自国で一から原爆を検証し核開発をしていくとなれば遅れは避けようがない。

②ケベック協定と、その協定におけるカナダの立ち位置。
ケベック協定によってイギリスはコンゴからはウランを供給してもらえる約束を取り付けているので、ウランが全く手に入らないわけではない。
また協定の中で今後のウラン鉱山開発地は自国が所有している領地周辺という取り決めもあったが、資源大国カナダはそこに含まれていなかった。それはつまりカナダがイギリスの管轄なのかアメリカの管轄なのか明確にしなかったということである。
さらにカナダはケッベク協定の協議に参加していて協定を結んでいるが、こまごまとした具体的な取り決めや契約はアメリカとイギリス2国間で行われているので、その2国間の約束事を守る義務はない。
イギリスはリオ・ティント社などが中心に大規模にカナダの鉱山開発に乗り出したが、結局カナダ政府との折り合いが付かず、カナダは独自に開発生産を始め、カナダからの供給はアメリカ寄りになった。

③第二次世界大戦前後のロスチャイルド・ロンドン家の当主・第3代ロスチャイルド男爵 (イギリスから授かった男爵)ヴィクターが金融業や事業に精を出すことを好まなかった。 

「ドイツユダヤ人のための英国中央基金」や「ドイツユダヤ人のための委員会」といった募金機関を立ち上げ、ドイツ・ユダヤ人の亡命と亡命後の生活の支援をした。ヴィクターは一族の中でも特に熱心にユダヤ人救済活動に取り組んでいたという。

第二次世界大戦中にはイギリス陸軍に入隊し、若くして中佐階級まで昇進した。MI5のB1C部(爆発物とサボタージュ対策部)部長としてドイツ軍が仕掛けてくるサボタージュ煽動への対策や爆発物の解体にあたっていた。その戦功で国王ジョージ6世よりジョージ・メダルを賜り、またアメリカ軍からもブロンズ・スター・メダルを授与された。首相ウィンストン・チャーチルの護衛隊員にも選出されている。

しばしば「ソ連のスパイ」という疑惑を受け、1986年12月にはマーガレット・サッチャー首相にその噂を否定する声明を出してもらっている。

ケンブリッジ大学の生物学者でもあり、受胎と精子の研究にあたった。それに関する著作もある。また初版本の蒐集を趣味としており、その多くをケンブリッジ大学に寄贈している。


家業(N・M・ロスチャイルド&サンズ)の事業に熱心でなかったために、そちらの主導権は分家筋のアンソニー・ロスチャイルドに握られた。
N・M・ロスチャイルド&サンズは個人営業であり、その経営権はロスチャイルド一族に限定されていた(だからこそロスチャイルド家と呼ばれてきたし、一族と血縁関係がなく本拠以外で活躍した関係者はロスチャイルド代理人と呼ばれてきた)。
ところが第二次世界大戦中にアンソニーが持株会社ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングス(Rothschild Continuation holdings)を設立。1947年にはN・M・ロスチャイルド&サンズもその持株会社の子会社となった。ロスチャイルド・ロンドン家は法人化され株式会社となったが、そのスタイルでは競合するアメリカ企業には敵わなかった。
会社中心部にも外部者が入り込み、ロンドン家は次第に影が薄くなってしまった。

④イギリス政府も核開発には依然消極的だった。 
その理由としてはウラン鉱石の製錬技術の限界と、財政の限界。
戦後も費用対効果の観点で積極的に取り組むべきものではないという評価が主流だった。
イギリスでは1946年に原子力研究機構(AERE Atomic Energy Research Establishment) が設立された。これは研究所である。
原子力行政の管轄は供給省(Ministry of Supply)だった。
供給省の管轄であることが原子力政策が停滞させたのだと批判したのはチャーウェル卿(Frederick Alexander Lindemann/フレデリック・リンデマン)。
物理学者でイギリス空軍物理学研究所の所長でもあった人物。
第二次世界大戦中の科学政策をめぐって、ヘンリー・ティザードと激しく対立したことで有名。
ヘンリー・ティザートは化学者であり、イギリス空軍の科学研究ディレクターであり、イギリス防空科学調査委員会の議長でもあった。
マーク・オリファントから原爆実現可能性の情報提供を受け、MAUD委員会を組織したが、原爆に対しては否定派であった。
チャーウェル卿はチャーチル首相とは個人的に親しい間柄だったというが、大戦中のチャーチル首相は個人的な関係には流されなかったということになる。
1945年の終戦前に思いがけず選挙で大敗したチャーチル首相は、1951年に再び首相に返り咲いた。在任中の1953年にはノーベル文学賞を受賞。
その翌年1954年、イギリスでは原子力法によって原子力省(Department of Atomic Energy)と原子力公社(UK Atomic Energy Authority, UKAEA)が創設された。
原子力公社は政府の省庁からは独立した機関であり、ウランを調達するのは兵器の為ではなく電力の為であることを明確にしていたそうである。
リオ・ティント社は原子力省と原子力公社のどちらにもカナダの鉱山開発について働きかけたが、費用の問題とカナダの受け入れ問題もあって、イギリスやリオ・ティント社のカナダの鉱山開発は思うように進まなかった。
しかしリオ・ティント社はイギリスのかつての植民地であるオーストラリアと南アフリカで鉱山を開発しウラン生産に乗り出した。

ロスチャイルド系リオ・ティント(イギリス)の南アフリカとオーストラリア、カナダ政府などのカナダ、アメリカ勢力(元はロスチャイルド系だがアメリカで大きく発展した富豪家など)のアメリカ西部、これがウランの主要生産地となった。
カナダとアメリカの鉱山はアメリカという上客がいるが、リオ・ティント社は難しい要素を持つヨーロッパが主要な商圏であったので厳しい面もあった。




by yumimi61 | 2018-03-29 14:09