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やがてそこに。


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2018年 05月 27日 ( 1 )

少し前に書いたバグー油田からの石油の話の続き。

アヘンで大儲けした人達が次に目を付けたのが石油だった。

世界最古の油田、バクー油田。それはアゼルバイジャンという国にあった。国営の油田である。
アゼルバイジャンは歴史的にはイラン政権やアラブ政権の支配下に置かれていた時期が長い。
1813年にロシア帝国領となり、やがてソ連構成国となっていく。

この古くからあったバクー油田に注目したのはノーベル賞のノーベルである。厳密に言うと、爆弾の発明者の兄ノーベル。木材を買い付けに行って油田に興味を持ち、木材を購入する代わりに油田の権利を譲ってもらった。1873年のこと。
アメリカでロックフェラーがスタンダードオイルを設立したのは1870年。アメリカで石油産業を確立し、一大トラストを築いていくことになる。
1879年、ノーベル家も「ノーベル兄弟石油生産会社」を設立し、ロシアに石油供給を始めた。

ロスチャイルド家(パリ本家)も石油事業に目を付け参戦する。
ノーベル家はバクー油田からの石油をロシアに運搬していたが、ロスチャイルドはバクー 油田からヨーロッパに運ぶことを考えた。



ノーベル賞創設者のアルフレッド・ノーベルは北欧スウェーデン出身として有名だが、実は9才の時(1842年)にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに移り住んでいる。
建築家で発明家の父親がアルフレッドが4歳の時にサンクトペテルブルクに単身赴き、機械や爆発物の製造で商売を成功させ裕福となり家族を呼び寄せた。
ノーベル一族の商売はロシアで始まったものである。
アルフレッドは幼少期から化学に興味を持っていたが(学校に通っていたのは8~9歳の1年半あまりで後は家庭教師などに学ぶ)、青年期には文学に傾倒し、イギリスの詩人シェリーに惹かれ詩人を目指すも断念。サンクトペテルブルクで父の工場を手伝うようになる。
だがクリミア戦争後の1859年(26歳)に父親の会社が倒産。それを機にスウェーデンに戻った。(でも研究実験場は依然サンクトペテルブルクにもあった)
アルフレッド・ノーベルはスウェーデンで黒色火薬よりも強力な爆薬ニトログリセリンの研究を行い、スウェーデンで特許取得するもスウェーデン軍には危険すぎるという理由で採用を断られる。
そうこうしているうちにスウェーデン・ストックホルムのニトログリセリン工場が爆発事故を起こす(末弟ら5人が死亡)。
この事故でスウェーデンでの研究開発が禁止されたためドイツのハンブルクに工場を移した。31歳。
その後、不安定だったニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明し、50カ国以上で特許を取得し、世界的な大富豪となる。
確かにスウェーデン出身であるが、ノーベル一家の成功はスウェーデンの外でもたらされたといっても過言ではない。
兄とともにアゼルバイジャンで石油会社を設立したのは45歳の時である。
兄はロシアに住んでいたとか。



ノーベル(スウェーデン、ロシア、ドイツ)、ロックフェラー(アメリカ)、ロスチャイルド(フランス、イギリス)のヨーロッパでの石油販売競争。
海路中心にヨーロッパに運搬するロスチャイルド家のほうが有利に思えたが、然うは問屋が卸さない。
ノーベル家がロシアで優位なのは当然だが、ノーベル家はスウェーデンの出身であり地元北欧においても強かった。
寒い地方への運搬は大変だけれども、確実に石油が消費される地域でもある。
またアメリカのロックフェラー家も大西洋を渡ってヨーロッパに石油を運ぶことが出来る。
従ってロスチャイルド家はヨーロッパでの顧客獲得合戦でダントツ優位に立てるわけではなかった。
そんな事情もあったことから、ロスチャイルド(パリ本家)はスエズ運河を抜けてアジアへ運搬することに目を向けた。



ロスチャイルドは、同家の代理人でもあった海運仲買人のフレッド・レーンにマーカス・サミュエルを紹介された。
マーカス・サミュエルはロイヤルダッチ・シェル(本社はオランダ・ハーグ)のシェル側の創業者である。


詳細は後述するが、マーカス・サミュエルはイギリス生まれ(イラク系ユダヤ人)。石油会社は後の設立だが、事業は父親がロンドンで始めた会社を継いでいる。
ロイヤルダッチという会社は、当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)生まれた人物が1890年にオランダ王室からの特許状を得て、1892年に設立した会社。
ロイヤルダッチは石油運搬をシェルに委託しており、最初から両社の関係性は非常に強い。
オランダ王室とイギリス王室は血縁関係にある。ともにドイツ系の王室である。日本の皇室とも親密。


ロイヤルダッチ・シェルは世界のグローバル企業500社のトップにもランキングされたことのある多国籍企業。
1903年、両社はロスチャイルド家の仲介により合弁会社Asiatic Petroleum Company(アジアティック石油会社)を設立し、本社を中国上海に置いた。
これは日露戦争(1904-1905年)前年のことである。
そして1907年に両社が統合し、ロイヤルダッチ・シェルの設立と相成った。



マーカス・サミュエルの日本での説明は若い頃の部分がほぼ間違えている。
間違えているというか、都合よく創作した話が伝わってきたという感じ。
どんな説明なのかと言うと、こんな感じ。
「田原都市鑑定株式会社 鑑定コラム」を例として借りた。
※当時代表が桐蔭横浜大学法学部の客員教授であり、2011年度の最初の講義で取り上げたとのこと。
桐蔭横浜大学の客員教授にはオウム真理教をダライ・ラマウ14世に紹介したというチベット出身のペマ・ギャルポがいる。
私はこれを前にも書いたことがある。
もしも私が家を建てたなら白~い家を建てたでしょう~♪
ブータン→日本経営者同友会の代表理事&国連友好協会NPO法人代表の徳田瞳→国連友好協会の理事であるペマ・ギャルポ→日本経営者同友会の事務所は桐蔭横浜大学のペマ・ギャルポ研究室 という流れ。
(徳田御一行様はオバマ政権のホワイトハウスレセプションにも出席している)

※同氏の別コラムでも興味深いことが書かれていた。
278)桐蔭横浜大学の客員教授
 大学の教務課より小さい紙箱を受け取った。
 100枚の名刺が入っていた。
 その名刺には五三の桐の紋章が付いていた。
 五三の桐の紋章を見た時、創始者は旧制の東京高等師範学校(現筑波大学)出身者かその関係者と直感した。


そこで私も桐蔭横浜大学のルーツを調べてみた。
1964年に設立した学校法人桐蔭学園がその始まりである。

学校法人桐蔭学園
1964年(昭和39年)に創立された学校法人で、幼稚部から大学・大学院を擁する総合学園である。横浜市青葉区鉄町にキャンパスを所有し、ドイツにも2012年(平成24年)までドイツ桐蔭学園を開校していた。また、関連法人として横浜総合病院(総合病院)も有していた。
「公教育ではできない、私立ならではの教育」をスローガンに設立され、同時に高校を開校する。設立当初から能力(学力)別クラス編成により、能力別の授業を行っている。

大学は1987年開校。桐蔭学園中学・高校はマンモス校らしい。

創立者は柴田周吉。
福岡県出身。東北帝国大学を卒業後は三菱系企業に就職。中国でも勤務している。最終的には三菱化成工業株式会社(現:三菱化学株式会社)の社長・会長に就任。
1963年(昭和38年)に藍綬褒章受章。
同年、筑波研究学園都市が閣議決定される。
筑波大学(旧:東京教育大学)移転の際には質実共に陰の力となり長期に渡ったプロジェクトの実現に尽力した。筑波学都資金財団を創設し各理事長をつとめ、筑波研修センターを建設した。紫峰会を設立。
理事長をつとめた茗渓会の同窓と共に茗溪学園創立。

(筑波大学の移転は国を挙げての学園都市構想に基づいて行われたわりには大学が駅から遠いという、発展させる気の無さぶりを発揮した。あえての隔離作戦だろうか)
桐蔭学園、茗渓学園、科学技術学園と全く異なる校風をもつ学校の理事長を兼任し、経団連の常任理事でもあった。


768)2011年大学新年度最初の講義とシェル石油創始者

 2011年(平成23年)4月中頃より、横浜青葉台にある大学の新学期の授業が始まった。
 法学部3年生を対象にした私の不動産鑑定評価の講義が始まった。
(略)
いつもは、ここより授業に入っていくが、今年は、現在の大学生の就職状況の厳しさから、大学3年生になった早々から就職活動をしなければならないことを考え、学生に大きな希望を持って人生を切り開いて歩んで欲しいという私の願いもあり、ある人の話をすることにした。

 大学が横浜にあることもあり、横浜に関係するマーカス・サミュエルという人の話をした。
 マーカス・サミュエル ?
 それはどんな人かと思われる人もいると思われるが、私もマーカス・サミュエルを研究した訳でもないから、それ程詳しくは知らないが、私の知っている範囲の事を学生に話し、人生に夢と希望を持って、力強く生きて欲しい例として話した。

 1871年(明治4年)、横浜の港に、僅か数ポンドの金しか持たない18歳の英国籍の若い貧しいユダヤ青年が降り立った。
 住むところも無く、湘南の浜の無人小屋を見つけ、そこで日々を過ごした。
 湘南の海岸で美しい貝殻を見つけた。
 これをボタンとかブローチに加工細工して英国で売れば、金になると思いついた。
 青年は貝殻を集め加工細工して、英国にいる父親に送った。
 父親はそれを売り歩いた。
 英国人は東洋の神秘さに見せられたのか、珍しがって買ってくれた。
 青年の商売は順調に行き、貝殻の加工細工のほか、雑貨も扱い、英国と日本との間の雑貨輸出入業者としてやって行ける様になった。

 青年は33歳になった1886年(明治19年)、横浜で自分の名前を付けた「マーカス・サミュエル商会」という会社を設立した。
 サミュエルの事業は益々順調に進んだ。
 その頃、アメリカでロックフェラーが石油を掘り当て、石油王になった。

 マーカス・サミュエルもその噂を聞き、自分も石油を採掘してみようと思い立ち、それまでの事業で儲けた金の一部で、インドネシアに出かけ採掘したところ、運良く石油を掘り当てた。

 1894年(明治27年)日清戦争が勃発した。
 サミュエルは、日本軍に石油、兵器を供給し援助した。
 
 こうして日本政府の信頼を得る一方、1900年(明治33年)サミュエルは、マーカス・サミュエル商会の石油部門を分離して「ライジング・サン石油株式会社」を横浜に設立した。
 このライジング・サン石油株式会社が、のちに「シェル石油」になるのである。
 トレードマークは、サミュエルが財を成す事が出来たのは、湘南の浜の貝殻であることから、それを忘れ無いために貝殻の「貝」印とした。

 サミュエルは、その後英国に戻り、ロンドン市長になった。

 シェル石油は、1907年(明治40年)オランダのロイヤル・ダッチと合併し、 ロイヤル・ダッチ・シェルとなる。合併後のトレードマークは、貝殻の「貝」印である。
 このロイヤル・ダッチ・シェルは、ロスチャイルドの中心企業に成長する。

 今も日本のあちこちに見られる貝印のトレードマークのガソリンスタンドは、ロイヤル・ダッチ・シェルの日本会社である「昭和シェル石油株式会社」のガソリンスタンドである。

 シェル石油の発祥の地は、日本の横浜である。




マーカス・サミュエルにはマーカス・サミュエルという同姓同名の父親がいた。
父親は骨董品や古美術品を扱う小さな会社を、少なくとも1833年前よりロンドンで営んでいたが、1833年に事業を拡大することにした。
インテリア、雑貨、装飾品などを扱う店である。マーカス・サミュエル商会。

JOYFUL-2店内のアンティーク家具と輸入雑貨の店「Old Friend」をご存知ですか?
「Old Friend」は2017年11月に「THE GLOBE」に変わった。

アンティーク家具、照明、ファッション、雑貨、ビンテージウォッチ、アートフラワー、DIYアイテムを扱う「THE GLOBE」が2017年11月15日にイオンモールつくばにグランドオープンしました。
それに伴い、JOYFUL-2店内に併設されているオールド・フレンドも生まれ変わりました。
ヨーロッパで現地買い付けし直輸入したアンティーク家具を、テイストの異なるブランドに合わせてセレクトすることで、守谷店、富里店、新田店、宇都宮店、瑞穂店はオールド・フレンドからアンティーク家具・雑貨を中心とした品揃えの「ザ・グローブ」に。
荒川沖店、ひたちなか店、千葉ニュータウン店、幸手店はこれまでの「アンティークと雑貨のお店」から「北欧家具と雑貨のお店」オールド・フレンドとして新たにスタートします。


ジョイフル本田は城県土浦市に本社を置く大型ホームセンター。
THE GLOBEはジョイフル本田グループのホンダ産業が運営するアンティーク家具・雑貨の専門店で、東京都世田谷区池尻に店舗があるらしい。
輸入家具雑貨店にイングリッシュガーデンのアンディ&ウィリアムス ボタニックガーデンなどジョイフル本田はイギリスがかっている。雑貨店もイングリッシュガーデンも嫌いじゃないけど。

マーカス・サミュエルのお店は「Old Friend」や「THE GLOBE」みたいな感じだったのだと思う。
イギリスだから日本とは逆で東洋の品物を扱っていた。
貝殻を扱っていたのは事実。ロンドンに寄港する船の船員から東洋産の珍しい貝殻を購入し装飾品に加工し販売していた。
デザイナーや加工スタッフには50名ほどの女性従業員を使っていたという。
当時人気があった商品は漆塗りの黒い小箱だった(私も持ってた!)。葉巻やタバコ、小物などを入れる容器として使われたそう。
貝殻は当初ボタンや子供用のおもちゃなどにしたが、これは売れなかった。
そのため貝殻はその後、富裕層向けの商品の装飾に使ったそう。


イギリスが自由貿易を積極的に推し進めた時代、しかもイギリスは産業革命がほぼ終了しており工業製品を輸出する段となっていた。
マーカス・サミュエル(父親)もイギリスの工業製品を輸出するようにもなり、サミュエル商会は急成長した。
息子マーカス・サミュエルは1853年生まれ。彼が生まれた頃には父親は事業を成功させて立派な商人になっていた。だから彼は貧しい青年なんかではなかった。貧しい青年が生死をかけて海を渡ってきたわけではないのだ。
息子マーカス・サミュエルは小学校を卒業後にベルギー・ブリュッセルのユダヤ系の全寮制学校に入学し商人教育を受けた。
その後にロンドンに戻り家業を手伝う。
父マーカス・サミュエルが1870年に亡くなった後には息子らが家業を継いだ。


上に載せた客員教授のコラムには書かれていないが、日本での説明だと、1871年18歳の時に高校卒業の記念に船のチケットを父親からプレゼントされ、たった1人でアジアに向かったことになっている。
インド、タイ、シンガポールに寄港したがどこでも降りず、終着点の横浜にやってきた。横浜からふらっと湘南へ。つぶれそうな無人小屋に潜んで何日かを過ごした。
海岸では漁師らが貝を集めていた。不要となる貝殻を無料で分けてもらい、それを自分で加工して商品を作り父親に送った。父親がロンドンで売ってみたところ大ヒット。
日本の貝殻で父も息子も大儲けすることができた。
このようなサクセストーリーが語られているが、父親は1870年に亡くなっていて、息子マーカス・サミュエルがアジアを訪れたのは1873年のことである。
彼はすでに規模の大きくなっていたサミュエル商会の事業主であったのだ。







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by yumimi61 | 2018-05-27 16:11