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2018年 05月 28日 ( 1 )

息子マーカス・サミュエルは父の死後1873年にアジアを訪れ、1875年には世界中を回ってみた。兄弟とともに。
アンティークインテリア雑貨店が産業革命と自由貿易の後押しを受けて工業製品も扱うようになっていたが、さらに取扱品目を増やしていった。
いわば貿易商社のような仕事をするようになったのである。
世界各地の商社と取引をするため自社に大量の社員や工場などの不動産を抱え込む必要はない。比較的リスクの少ない商売である。

アンティークインテリアや雑貨のお店として雑貨、家具、漆器、陶器、銅器などの輸出入を行っていたが、そこに機械類など工業製品が加わった。
ビルマやタイの米、アメリカやカナダの小麦、フィリピンのタピオカなどの食品も加わる。
日本とは三井物産や三菱商事などと取引をしていた。
日本は機械類、綿や毛の織物、砂糖、石油などを輸入。
日本からは石炭、生糸、茶、米、木材、魚油などを輸出していた。
サミュエル商会は欧米の保険の代理店を務めるようなことも行っていた。
また日本の鉄道建設にも関わっている。

明治新政府は政府が成立すると鉄道建設に着手する。
明治維新の翌年、政府は官営による鉄道建設を決定し、新橋 - 横浜間の鉄道建設が始まったのだ。
明治2年(1869年)11月に自国管轄方式によって新橋・横浜間の鉄道建設を決めた。当時の日本では自力での建設は無理なので、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定した。これは鉄道発祥国イギリスの技術力を評価したことと、日本の鉄道について建設的な提言を行っていた駐日公使ハリー・パークスの存在も大きかった。翌明治3年(1870年)イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任して本格的工事が始まった。日本側では明治4年(1871年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉱山頭兼鉄道頭に就任して建設に携わった。

サミュエル商会は1876年に横浜に支店を正式に設立したが、それ以前より日本政府から鉄道建設資材など受注しており、代理店があったようなのだが、その実態は明らかになっていない。
そもそも明治維新の裏にいたのがイギリスである。


1876年に設立された横浜支店は、マーカス・サミュエルの弟が来日し10年間滞在して、彼を中心に事業を行った。
経営のプロとして、Chartered Bank of India, Australia and China (インド・オーストラリア・中国チャータード銀行)の経営一族と血縁関係にある人物を招く(後にこの人が代表となる)。

チャータード銀行は1853年、ビクトリア女王からのジェームズ・ウィルソンへの特許状交付に基づき設立。
1858年、最初の支店をカルカッタとボンベイに開設したのに引き続き、上海にも進出。翌年には香港に支店、シンガポールに出張所を開設。1862年以降は、香港での紙幣発行銀行となる。1860年代から1900年代にかけてアジア全土へ支店網を広げる中、1880年、横浜に出張所を開設。1900年代初頭には、ニューヨークでの営業許可を得た最初の外国銀行となる。1957年、イースタン銀行を買収し、イエメン、バーレーン、レバノン、キプロス、カタール、アラブ首長国連邦へも支店網を広げた。神戸市の旧外国人居留地にあるチャータードビル(旧チャータード銀行神戸支店)は近代建築として著名である。

当行の英語名称は"The Chartered Bank of India, Australia and China"が正式な行名であり、香港で発行していた紙幣にも当初同じ名称が記されていたが、1950年代以降に意匠変更された紙幣からは、"The Chartered Bank"の略称で表記されるようになった。また、この香港発行の紙幣では、中国語名称として当初「印度新金山中國匯理銀行」と記されていたが、1910年代以降に意匠変更された紙幣からは「印度新金山中國渣打銀行」と変わり、英語名称で"The Chartered Bank"の略称が使用されるようになってからは、中国語名称も「渣打銀行」の略称で表記されるようになっている。

世界第5位[要出典]に位置づけられる同行は、特に新興地域において主導的な役割を担っている。イギリスでの顧客は少なく、アジア太平洋地域、ヨーロッパ地域、アフリカ地域での業務がそれぞれ、65%、25%、10%を占める。中でも香港は、2004年には収益の30%を挙げるなど最も重要な活動拠点となっている。とはいえ、ロンドン証券取引所上場のイギリス企業である点に変わりなく、同国上位企業の株価指数であるFTSE100でも20〜30位以内に位置づけられている。



1870年以降に俄かに注目され出した石油という資源。
言わずとしれたアメリカの石油王ロックフェラーの功績。
当時は産出量も生産量もアメリカがトップだった。
ただ油田としてはロシアのバグー油田が世界最大と言われていて、ロシアの産出量や生産量も大きく伸び始めた。
ロシア産の石油を売り出していたのがノーベル家とロスチャイルド家である。
主な市場はヨーロッパだったが、アメリカのロックフェラーはそのヨーロッパにも触手を伸ばした。
また日本や中国にも輸出をしていた。
以前私は明治維新は「太平洋の恐怖」から始まったのだろうと書いたことがある。恐怖に感じたのはイギリスである。
植民地、戦争を通して手にした中国の権益など、イギリスの繁栄はアジアやアフリカ、あるいは中東などとともにあった。
それは海を制したからに他ならないのだが、かつての植民地であるアメリカが今や大西洋を渡ってヨーロッパに来るだけでなく、太平洋を渡ってアジア圏にも進出しようとしている。ひたひたとした恐怖を感じずにはいられなかったのだろう。
しかもアメリカは、イギリスが進出して失敗した(手に入れられなかった)日本と手を組もうとしていた。
放っておけばそこから綻びがどんどん広がってしまう可能性がある。
イギリスは主導権を握らなければならなかった。だから反幕府側を支援し日本を手中に収めた。



ヨーロッパに石油を運ぶことを考えたロスチャイルド家はまずバクーからジョージアまでの鉄道建設に資金を提供した。
ジョージアに到着すれば後は海路(黒海から地中海に抜ける)で行ける。
鉄道は1883年に開通。
同年、ロスチャイルド家は財政難のロシア政府の国債を引き受ける見返りに、バクー油田の中でも最大級のバニト油田の権利を譲りうける。
1886年、「カスピ海・黒海会社」を設立。
供給先は違うが、ノーベル家とロスチャイルド(パリ家)は一緒にバクー油田の開発を行うようになる。


「カスピ海・黒海会社」は英語で書けばCaspian and Black Sea Petroleum Company だが、ロシア語表記の頭文字からBNITO(ブニト)と呼ばれていた。
ロスチャイルドはこの石油販売会社BUNITOを通してロシア産の石油を輸出していた。
ロスチャイルド家自体が代理人という制度で事業を展開してきたが、ブニトは直接製油には携わらず多くの小規模石油製油業者と契約を結び、ブニト自身はヨーロッパでの販売網の整備に力を注いだ。
しかし前述したようにヨーロッパ市場は思うほど上手くいかず、アジア市場の開拓をめざし、マーカス・サミュエルを紹介された。
アジアへの進出はロックフェラー家との一騎討ちをも意味していた。

1891年、イギリスの貿易商マーカス・サミュエルとロスチャイルド(のBUNITO)は、1900年を期限とするロシア灯油の独占販売契約を結んだ。
要するにマーカス・サミュエルがロスチャイルド家の石油事業のアジア部門の代理人になったようなことである。


折しも1891年はバク−油田で大噴油が続出し大増産となった年。
ロシアの石油をスエズ運河経由でアジアへ運搬することを提案したのはマーカス・サミュエル商会の運搬船のオーナーで海運仲買人でもあるフレッド・レーン。ロスチャイルドにマーカス・サミュエルを紹介した人物。
石油は最初シェリー酒の空き樽が利用されて運ばれていたが(石油単位のバレルの由来)、樽自体が高価で石油の価格の半分にもなってしまうという有様で、さらに樽は重量もあり、そのくせ蒸発したり漏れやすかった。到着時にはだいぶ石油がだいぶ目減りしていた。

石油タンカーを最初に建造したのはノーベル家。
とはいってもノーベル家の海路はカスピ海を北上する僅かな距離。陸路の方が長い。
1878年1月に建造契約を結び、その年のうちに最初の航海を行っている。

ロスチャイルド家(マーカス・サミュエル商会)の石油タンカーの最初の航海はノーベル家から遅れること14年。
しかしそれはマーカス・サミュエルとロスチャイルド(のBUNITO)がロシア灯油の独占販売契約を結んだ翌年のことである。
1892年8月に最初の航海に漕ぎ着けた。

スエズ運河会社は開通から6年後1875年にエジプトからイギリスが買い取っていた。イギリス政府に資金を貸し付けたのはロスチャイルド(ロンドン本家)。
スエズ運河はイギリスのものだから、そこを使ってもらいたいのは山々だが、危険物である石油を大量に積んだ船が狭く海賊などにも狙われやすい海峡を通過することはあまりにリスクが大きく、スエズ運河会社がそれを許可しなかった。
「じゃあどんな仕様の船(タンカー)ならば許可が下りるんですか?」と詰め寄って(尋ねて)、許可の下りる石油タンカーを建造した。
運河会社指定の仕様に従って、サミュエルは北イングランドのウィリアム・グレイ (William Gray) に3隻のタンカーを発注した。

こうしてアジアへの輸送の目途も立った。
後はじゃんじゃか石油を使ってもらい、じゃんじゃか売るだけ。
そしてそんなチャンスがやってくる。日清戦争勃発、1894年のこと。
マーカス・サミュエル商会は、日本政府に石油や兵器や軍需品を供給して支援し、儲けることに成功。


石油タンカーという石油に特化した輸送船は往路はよいけれども復路は空になってしまい無駄である。帰りに石油を積んでくることはないから。
単なる輸送船ならば 輸出品を積んで行き、輸入品を積んで帰ってくるということが出来る。
近所に行くならばともかく遠い国々へ燃料を使い危険を背負って膨大な時間をかけて向かうのだ。しかも行きっぱなしでは仕事にはならない。
往ったり帰ったりの繰り返し。いかに無駄なく効率よく船を回していけるかが貿易においての重要な要素の1つである。
サミュエル商会の建造した船は石油タンク部分をクリーニングして、復路には石油以外の物も運べるようにしたという。
さらに1社だけの利用ではなく複数社で利用できるようにシンジケートという形態( 同一市場の諸企業が共同出資して設立した共同販売会社が一元的に販売する組織形態)を採り、タンク・シンジケート(Tank Syndicate)を設立した。
単に船(タンカー)の利便性だけでなく、共同出資であるからタンカーの建造費の負担減にも繋がる。
また複数社が分担で行うことにより新たな市場を大規模に開拓することが出来るため、巨大企業に対抗することが可能になる。ライバルはロックフェラーのスタンダード・オイルだった。

ロックフェラーをはじめアメリカが得意としたのは幾つかの企業を合併して1つの企業にしてしまうトラスト(企業合同)。
ロスチャイルド家は各地に代理人や代理店を置いて任せる方式、提携などで協力関係を結ぶというやり方で事業を展開してきた。これが発展したのがカルテル(企業連合)。シンジケートはカルテルとなる。
但し親会社のようにロスチャイルド家という絶対的存在が上にどーんと居座り、そのロスチャイルドが傘下の企業に資金(資本や融資)提供しているとするならば、それはもうコンツェルン(企業結合)と言えるだろう。
上に存在するのがロスチャイルドではなく王室でも皇室でも政府でも同じことが言える。
コンツェルンはいわばピラミッド型の巨大な支配体系で、財閥と言われたりする。

タンク・シンジケートでは利益は共同配分するということが定められていた。例えば中国市場でスタンダード・オイルに負けて損失を出しても、日本市場で勝って取り替えせれば利益に繋げられるので、1社ごとのリスクはそれだけ少なくなる。しかしそれはやはり独立性が弱いと言えるのでコンツェルンのような形態である。

これでは日本と中国(清)が戦争をしても、シンジケートはどちらにも物資を供給することになる。
商売なのだから当たり前と言えば当たりまえなことだが。
需要があるところに供給する、利益が出そうなところに売り込む。


1897年、タンク・シンジケートはシェル・トランスポート・アンド・トレーデイング・カンパニー (Shell Transport and Trading Company)という会社組織に改組された。
ここで初めてシェルという名を使った。
サミュエル家が過半数の株式を保有し、会社の支配権を握った。









by yumimi61 | 2018-05-28 12:29